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外伝・イミテーション(六)


 病院に着くと1時半近くになっていた。

「ライブまではまだ十分時間はある。仮に間に合わなくてもいいよ。キャンセルしようぜ。とにかく、終わったら電話しろ。迎えに行くから」

「秀也、ありがとう」

司はそれだけ言うと、秀也の顔を一度見つめて外に出た。「心配するな、きっと大丈夫だから」そう言っているような秀也の顔に思わず安心したように息を吐いた。

そして、ドアを閉める前にもう一度見つめた。

「心配するな、きっと大丈夫だから。早く行け」

秀也の口から本当にその言葉を聞くと、「うん」と大きく頷いてドアを閉じた。そして、走って病院の中に入った。

その後姿をじっと見送ると、「大丈夫だから、司、頑張れよ」そう言って秀也はアクセルを踏むと、病院を後にした。


 冷たい病院の通路に司の革靴の音が静かに響く。

エレベーターは使わず、階段で3階まで上がった。途中、手すりに手を掛けると、少し躊躇ためらったように立ち止まってしまったが、思い切ったように顔を上げると、手術室の前まで行った。

 突然、ドシンと、まるで頭の上に鉛の塊でも落ちて来たように体が重くなった。

思い出したくはなかったが、まとわりつくように思い出される。

あれから6年が経つというのに、まるで昨日の事のように思い出されるのだ。

この扉の向こうで、兄の亮が亡くなった事を。

あの時、駆け付けた時には既に遅かった。亮は手を動かす事も出来ず、司に微笑んだだけで逝ってしまった。何の前触れもなく、突然起こった事故で逝ってしまったのだ。

「兄ちゃん・・・」

思わず上ずった声で呟くと、唇を噛み締めた。

「だから、来なくていいと言ったんだ」

声の方に振り向くと、亮太郎が歩み寄って来る。その後方では弘美が胸に手を当てて心配そうに司を見ていた。

「お前がここに来たら必ず亮を思い出すから黙っていろと言ったんだ」

「親父・・」

「お前までが倒れたらそれこそ恥だ。それに、聖子にも余計な気を遣わせる」

「 ・・・、ごめんなさい」

やはり自分は来ない方が良かった。いや、来てはいけなかった。

「まぁ、いい。手術は予定より早く始まった。予想以上に聖子の体調が良くてね、先生も安心していたよ。ここじゃなんだ、向こうで待ちなさい」

落ち着いた亮太郎の声に何故か安心感を覚えた。促されるまま、待合室の隅のソファに座った。

 亮太郎は持参していた本を読み、弘美は編み物の続きをしながら時間を過ごしていたが、司は黙ったまま雑誌を読む訳でもなく、何を考える訳でもなく、ただ、じっと自分の足元を見ていた。


***


『司くんが女の子で良かったわ』

高校の入学式の朝、突然言われ、思わず口に含んでいたコーヒーを吹き出しそうになった。


 ゲホッ ゲホッ・・


『ねぇ、亮くん、司くんはこれはこれで可愛いわよね』

少しはしゃいだように目を細めて司の制服姿を見ながら、聖子は亮に同意を求める。

『そりゃまぁ、我が光月家のお嬢様ですから』

半分吹き出しそうになりながら亮は言うと笑った。

『ねぇ司くん、こっちではフツーに女の子らしい格好してみたらどう?』

『そうだよ、高校デビューにルージュでもつけてみれば?』

『あのねぇ』

司は二人の会話を聞きながら呆れると大きな溜息をついた。

『オレはあんたらのおもちゃじゃねぇんだから・・・』

まったく勘弁して欲しい。こんなに裾がヒラヒラしてたら足がスカスカして何だか落ち着かない。何処かの民族衣装ならともかく、どうして女子生徒はスカートを穿かなければならないのだろうか。ズボンでもいいと思うのだが、これは横暴だ。

司はスカートの裾を足で忌々しく蹴り上げた。

司の意図している事が分かるのだろう、亮はふて腐れながらスカートの裾を見ている司を笑った。

『とりあえず年頃の女の子は、女の子らしくしとやかにしろって事だ。まぁ、せめて外見だけでも行儀よくしてろ』

『ったく、くだらねぇ』

『もうっ、その言葉遣い何とかならないの? いくら兄弟が男の子ばかりだからって、ちょっとひど過ぎるわ』

『ははっ、すみません。こればっかりは俺のせいかな。きちんとした日本語を教えなかったからなぁ』

亮は申し訳なさそうに聖子に言うと、首をすくめて司に視線を送る。

『ふん、知るかよ』

司は怒ったように吐き捨てると、カップを置いた。

『ほら、早く行かねぇと遅れるぞ』

『あら、いけない。亮くん、行きましょう』

慌てて仕度を整えると、聖子は司に聞こえるように亮に耳打ちした。

『今の事はお父さんには内緒よ』


**


 何故、今、この場であの日の事を思い出したのか分からない。

入学式の日に、亮と聖子は亮太郎がいないのをいい事に、二人で本当にはしゃいだように司の制服姿に感激していたのだ。お陰でその後、公園の桜の木の下で、写真をたくさん撮り、近くのデパートに強引に連れて行かれ、口紅を買わされた。

嫌がる司を無理矢理婦人服売り場に連れ回し、試着は何とか間逃れたものの、鏡の前でワンピースを当てられた。

夕食も制服のままで取らされ、ようやく解放されたのは、就寝前にシャワーを浴びた時だった。

その後、何度か週末に制服で帰った事はあったが、実家では何の言葉を掛けられる事はなかった。

ただ、聖子はその姿をよく見に、顔を出していたのは覚えている。


 ふと、待合室の時計に目をやった。

もうすぐ4時になろうとしていた。それまで何度か足音が聞こえていたが、確実にこちらに向かって来る音がするのは初めてだ。

目で追うと、司の主治医ではない雅医師が現れた。長兄の雅真だ。

「お待たせいたしました」

まず、亮太郎に向かって頭を下げた。そして、司が居る事に少し驚いた表情をしたが、声を掛ける事はなく、それより無視するように続けた。

「ご安心ください。無事、成功しました。容態も安定しておりますので、もう大丈夫でしょう」

そして、亮太郎を促しながら説明を続けていた。

 司は取り残されたようにその場に立ち尽くしていたが、やがて、弘美に促されるように二人からは離れて後について行った。

エレベーターの前で亮太郎と雅が待っていた。

司は近くまで行かず、離れた所で立ち止まった。

 チン、と音がしてエレベーターの扉が開いたが、二人は乗ろうとしない。そして、亮太郎が司に向くと、

「先に行っていなさい」

と言って、二人で向こうへ歩いて行ってしまった。

別室で詳しい説明があるのだろう。司はあの二人と狭いエレベーターに乗る事にならなかった事に安心すると、閉じられた扉を再び開けて、弘美と一緒に乗った。そして、最上階のボタンを押す。

 病室へ向かうまで、二人は終始無言だった。

司の後ろを歩いていた弘美は、何度か司に声を掛けようかと顔を上げてその背中を見てはいたが、弘美を見ようともしない司のその背中が拒んでいるように思え、何も言う事が出来ずに俯くと、黙って歩いた。

 病室までの道のりがやけに遠く感じたが、ようやく扉の前まで来ると、ノックしようと手を上げかけて一瞬止まってしまった。

『顔を合わすんじゃない』

亮太郎の言葉が頭をよぎった。

やはり会わない方がいい。そう思って手を下ろしてしまった。

「お嬢様」

かすれるような弘美の声に、思わず振り向くと、やり切れないような表情をしている。

ここまで来て、会わずに帰ったら、きっと聖子はまたがっかりするだろう。

仕方がない、それに、弘美の前では何の言い訳も通じない。何の事情も知らないからだ。


 コンコン


思い切ったように軽くノックして扉を開けた。

中に入ると、女性の看護士が一人、点滴の調整をしているところだった。司と弘美に気付くと、軽く頭を下げた。

 何も言わずに近づくと、聖子はよく眠っていた。当たり前だ。手術を終えたばかりなのだ。

弘美はソファに置かれていた聖子の荷物を開けると、棚などにしまい始めた。

司は一度、病室を見渡すと、ベッド脇の椅子に腰掛けた。

「お袋・・、もう、大丈夫だってさ・・・」

呟くように言うと、ベッドの端に肘を置いて両手で顔を覆った。

「ごめん、オレ、何も知らなかった」

声を押し殺したように言った司の言葉に、弘美は思わず顔を上げて司を見つめた。

その肩が微かに震えているように見えた。

 朱い夕陽が病室に射し込んで来る。司の薄茶色の髪が朱く染まった。

弘美は黙ってブラインドを下ろした。

それと同時に司は顔を上げると、サングラスで目を覆った。そして、

「オレ、もう行くから」

と、立ち上がった。

これ以上ここに居れば、妙な感傷に浸ってしまう。それに手術は成功したのだ。これ以上ここに居る理由が自分にはなかった。

「弘美ちゃん、後は頼むね」

それだけ言うと、少し疲れたように眠る聖子に一度目をやると、それ以上は何も言わずに病室を出た。

 弘美は閉じられた扉を見つめると、少し哀しそうに聖子に視線を送った。

誰の前でも表情を変えずに気丈に振舞う司に、聖子の言葉がよぎった。

『司くんの泣いた顔って、亮くんのお葬式以外に見た事ないわ』








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