外伝・イミテーション(五)
「メリークリスマス、司くん」
とても優しい声で言われ、戸惑ったようにそれを受け取っていた。
以前会ったのはいつだっただろう。確か、1年前のコンクールの日だっただろうか。そんなにはっきりと覚えている訳ではない目の前にいる母親の姿にも少し戸惑っていた。
両手で抱きかかえたテディベアのぬいぐるみは、ちょうど司の腕にすっぽり収まっている。
「まぁ、可愛い」
にっこり微笑まれて更に戸惑ってしまった。
「気に、いらなかったかしら? 男の子だとやっぱり車とかの方が良かったのかしら、ごめんなさいね」
少し困惑してしまったように言われて顔を上げると、少し哀しそうな目をした聖子を見て、再び戸惑ってしまった。
そして、何も言えずにいると、背中をドンっと小突かれた。恐ろしくて振り向く事も出来ず、顔を上げると、ギュッとぬいぐるみを抱き締めた。
「ありがとう」
ようやくそれだけ言えた。が、目の前を覗き込まれた聖子と目が合った瞬間、はにかんで微笑んでいた。
「よかった」
ホッとしたような聖子は、屈んでいた体を一度起こし、再び司の顔を覗き込むと、「お帰りなさい」と言った。
司は何故かとても安心したように、「うん」と頷いた後、「ただいま」を言おうとしたが、聖子がそのまま顔を上げてしまったので、何も言えなくなってしまった。
「真一くん、翔くん、司くんの事頼むわね。ところで、亮くんは?」
「遊びに行ったよ」
「そう、まぁ仕方ないわね、年頃だもの。でも司くんはまだ6歳だからちゃんと面倒見てあげてね」
「はいはい分かってますよ。それより早くしないと遅れるよ」
「あっ、いけない、そうね。じゃあ後は頼んだわよ」
「いってらっしゃい」
3人に見送られて、聖子は慌てて出かけて行った。
聖子が光月家の後妻に来てから3年経っていたが、司と会うのは2回目だった。
妙にませていた司だが、能力者という事もある。聖子が後妻だという事も理解出来たし、他人並みに普通に接しなければいけないという事もよく理解していた。
しかし、あんなににっこり微笑まれてしまってはどうしていいか分からなくなってしまった。
ましてやプレゼントを手渡されたのも初めての経験だ。今まで誕生日にしろ、クリスマスにしろ、いつも小包で届いていたからだ。それも自分で開ける事はせず、使用人に開けさせていたのだ。
それ故、どうリアクションしていいか本当に戸惑ってしまったのだ。
自分の部屋のソファで、もらったばかりのテディベアのぬいぐるみを上に掲げたりひっくり返したり、抱き締めてみたり、少し戯れていた。
何故かとても安心したように自然と笑みがこぼれる。
「Merry X'mas Mum」
そう話しかけて、テディベアの頬に軽くキスをした。
と、突然、ノックもなしにドアが開き、真一と翔が入って来る。
二人は司を挟むようにソファに座ると、司からぬいぐるみを取り上げた。
「メリークリスマス司くん、か。お前も形だけはたいそうなご身分だな。そういやこの前の指令はどうした? 終わったのか?」
蔑むような視線を送りながら、真一は取り上げたぬいぐるみを無造作に翔に渡す。
「お、終わったよ」
「ふーん、じゃあこれはそのご褒美ってか? 大したヤツだな。会った事もないお袋にX’masプレゼントをねだったのか? それともお前の能力でそうさせたのか?」
嘲るように翔は言うと、乱暴にぬいぐるみを上に放り投げた。
あっ・・・
放り投げられたぬいぐるみを掴もうとして慌てて立ち上がったが、それを真一に押さえ込まれ、再び翔の手の中に落ちた。
「テディベアのぬいぐるみね・・・。お前には似合わないな。お前の手は汚れ過ぎているからな。こんな可愛いぬいぐるみを触る権利はない」
翔はそのまま立ち上がって窓際まで歩いて行くと、バンっと窓を開け放った。
突き刺すような冷たい空気が流れ込んで来る。
そして、そのまま暗い外へとぬいぐるみを放り投げた。
「あっ!!」
驚いた司は、真一が笑い転げた瞬間、ソファから転がるように飛び出し、窓から顔を出した。
冷たい滴が頬に当たった。
外は珍しくみぞれが降っていた。深夜になればこのまま雪になるだろう。
「ヒエー、今日は寒いなぁ」
翔は両腕を抱えて首を竦ませると、司を見下ろした。一瞬、睨んだ司と目が合った。
怒らせるのは賢明でない事は重々承知の上だ。だが、自分達に逆らう事が出来ない事も知っている。
「ここから飛び降りろよ。お前になら出来るだろ? フツーの人間じゃないんだ、怪我だってしない。だったら飛び降りて探して来い。お袋がせっかくお前の為に並んで買ってくれたんだ。粗末になんか出来ないだろ、ん?」
その瞬間、片足を窓枠に付けると、飛び降りていた。
普通の家の1.5倍くらいの高さのある天井の2階から飛び降りれば、どんな大人とて怪我をする。骨の1本や2本は簡単に折れるだろう。しかし、体の中にバネでも入っているのではないかという位しなやかな体をしている司には、2階から飛び降りるくらい訳はなかった。が、しかし、地面が濡れているせいなのか、辺りが真っ暗なせいなのか、運悪く片足を挫いてしまった。
「イタっ・・・」
左足首に激しい痛みを感じてうずくまってしまったが、辺りを見渡すように探す。
「どこ?」
両親が外出しているせいで、1階のリビングの灯りが消され、庭も暗い。
広い庭も多くの植木で埋め尽くされていれば、小さなぬいぐるみなどすぐに見付ける事は不可能だ。
神経を集中させて透視しようと試みるが、昼間に数多くの指令を与えられ、それら全てを透視していた為に能力が弱ってそれも出来ない。
はぁ、はぁ・・・
とたんに疲労が増し、息が上がる。おまけに寒さで一気に体が凍えるようだ。
まだ身体の発達も未熟な6歳の子供だ。いくらフツーの人間ではないと言われても、体力の限界だった。
「どこ?」
それでも這うように探し回った。
5匹の番犬達も先程の物音に驚いて駆けて来たが、司だと分かると、一度尾を振っただけで、再び自分達の居場所へと戻ってしまった。
2階から笑い声が聞こえると同時に、バンっと窓の扉が閉じられた。
しかし、そんな事は今はどうでもいい。
何故、こうまでして執着するのか分からないが、テディベアのぬいぐるみを必死で探す。
1時間程経っただろうか。誰かの部屋の灯りが付いた時、少し離れた木の根元の植え込みに引っ掛かるように落ちているのを見つけた。
「あった」
ホッとしたように取りに行こうとしたが、人の気配を感じて植え込みの陰に身を潜めた。
そしてしばらくその気配が無くなるまで待つと、部屋の灯りが消された。
足を引きずりながら辺りに気付かれないよう近づくと、ようやくぬいぐるみを手に取った。
無残にも葉っぱがあちこちについて、おまけにびしょ濡れだ。
自分の足も実は靴下のままで、泥だらけの上、びしょ濡れな事に気付いた。
これでは家に入れない。
仕方なく誰の目にも触れない角の植え込みの陰に座り込んだ。
急に全身が冷たく感じる。それに突き刺すような寒さだ。早く家の中に入りたいと思ったが、立ち上がる事さえ出来ずに体が震えた。
足の先は痺れて痛い。
ぬいぐるみを抱き締めて、それを抱えるように体を丸めた。
この巨大な家の中に自分の部屋はあったが、自分の居場所が何処にもない事くらいは分かっていた。
形の上では家族だったが、生まれてから一度も生活を共にした事がない。一緒に暮らしている使用人も国が変われば人も変わる。
それ故、いつも一人だ。
それに、普通の人間ではないのだから仕方のない事だったのだ。それくらい分かっている。
誰にも迷惑は掛けられない。だから今も我慢するしかないのだ。
それが当たり前なのだ。
しかし、何故か今はとても辛く、溢れて来る涙が止まらない。
何故泣くのか自分でも分からない。
思わずしゃくりあげていた。しかし、それすら意識せずにいた。というより、意識出来なかった。
ただ、ギュッと、びしょ濡れになったテディベアを強く強く抱き締めていた。
******
「ばあやが洗ってくれたんだった・・・」
毛並みもだいぶくたびれ、色も褪せたテディベアのぬいぐるみを思わず抱き締めた。
あの時は自分の胸いっぱいだったような気がする。でも今は自分の手の中で収まってしまいそうな程に小さくなってしまったような気がした。
もうあれから17年が経っていた。
「お袋も年を取った訳、か・・・」
今日の午後1時から手術だと言われ、何故か急に思い立ったように光月家に足を運んでいた。
しかし、司の顔を見ても挨拶だけで、誰も何も言わない。
弘美も朝早くから病院に行っており、詳しい話を聞く事すら出来なかった。
仕方がない。自分の居場所はここにはなかったのだ。
ぬいぐるみをベッド脇の棚に戻すと部屋を出た。
階下へ降り、玄関まで行ったところで、ちょうど杉乃に会った。
「まぁ、お嬢様」
「ああ、ばあや・・・。ごめん、今日はもう行くから」
「あの、今日は・・」
そこまで言ったところで急に口をつぐんでしまった。何かとても言いにくそうだ。
その間が耐えられない。
「今夜は大事なライブがあるんだ。じゃあね」
司は背を向けて言うと、靴をはいてドアを開けた。
やはり乳母の杉乃でさえも口止めをされているのだろう。何も言ってくれない。
別に期待している訳ではないが、司は何故かがっかりすると、そのままドアを閉じた。
やはり自分はこの家の者ではないのだ
車の整備をしていた運転手と目が合ったが、会釈をされただけで即座に目をそらされてしまった。そして、そのままタイヤの点検を始めた。
一度、自分のマンションに戻った。もうすぐ秀也が迎えに来る。
ちょうど一息ついたところで秀也が顔を出した。
「ごめん、ちょっと遅くなった。間に合うか?」
「大丈夫だろ。それに、始まるの夜だし、まだ半日もあるじゃねぇか」
「ま、そうだけど。でも、メイクにも時間掛かるらしいからな」
「ああ」
司の気のない返事に秀也は思わず首をかしげた。約束の時間を30分以上も過ぎていたのに責めの言葉が一つもないのだ。
そのまま二人で近くのレストランで食事をしたが、黙ったままだった。
「なぁ、司」
一方的に話しかけていた秀也だったが、とうとう堪えきれずに言った。
「どうした?」
「え、何が?」
「何が、じゃないだろ。さっきからなーんも話してないだろが。何とか言ったらどうなんだよ。話したくなくても質問にくらい答えろ」
「え? あ、ああ、ごめん。何?」
慌てて視点を秀也に合わせたが、今までずっと上の空だった事に気付くと、途方に暮れてしまった。
一体自分はどうしてしまったというのだろう。
「司」
改まった口調で秀也がマジマジと司を見つめる。
思わず手にしていたフォークとナイフを置いてしまった。
「何があった?」
じっと見つめられて、これ以上黙っている訳にもいかず、とにかく言葉を捜した。
「あの、さ・・」
更に言葉を捜して店内に視線を動かすと、ちょうど自分達の母親と同じ位の年上の女性達が楽しそうに話をしながらテーブルを囲んでいるのが見えた。
「もし、もしだよ・・。秀也のお袋さんが、手術するとか、入院とかする事になったら、どうする?」
「ん?」
「あ、いや、その・・」
「昨日の話、気にしてんのか? 大丈夫だって、そんなに心配する事じゃないから」
「あ、うん、そうだけど・・」
「まぁ、入院くらいなら程度にもよるけど、姉貴に任せるかな。ま、時間が取れたら見舞いは行くけど」
「手術は?」
「それだったらすぐ行くかな。ああ、でも今は忙しいからな。スケジュール次第だけど・・。空いてたら行くだろ、フツー」
「 ・・・、そっか、そうだよな」
秀也から視線をそらせると俯いてしまった。
自分でもどうしていいか分からない。
「司?」
「えっ、ああ、何でもない、気にしないで」
慌てて顔を上げると無理矢理微笑んで見せた。それがいけなかったのだろうか、瞬時にして秀也の顔が曇る。
「お前のお袋さん、どっか悪いの?」
「 ・・・。 ガン、なんだって」
半ば脅されるような秀也の口調に、思わず口に出していた。しかし、秀也には何も隠し事は出来ない。それに、いつも自分の気持ちに正直で素直で居られるのだ。
抱えきれないこの不安も秀也の前では口に出す事が出来た。
「ガンって」
驚いた秀也の不安な表情に更に不安が募る。
「子宮ガンなんだって。だから今日、摘出するんだって」
「今日っ!? 今日って、お前がここに居るって事はもう終わったのか?」
「ううん」
首を横に振ると、店内の壁に掛かっていたアンティークの時計に目が留まった。
「あと15分で始まる」
時計を見たまま言うと、カチカチ動いている秒針の音がここまで聴こえて来そうだった。
思わず吸い寄せられるように時計を見ていた。
ガタっ
突然、目の前の秀也が立ち上がった。
「行くぞ」
「え?」
「えっじゃないっ。何やってんだよこんなとこでっ。とにかく、病院に行くぞ」
「でも・・」
「でもじゃないっ、とにかく来いっ」
まだ食事も途中だ。しかし、秀也は自分の上着を掴むと司の腕を半ば引っ張るように立ち上がらせる。
「でも、オレが行ったって、何も出来ない」
「当たり前だっ。お前は医者じゃないんだっ。手術するのは医者だ。でも、体にメスを入れられるんだぞっ、一緒に耐えて待ってやる事くらいは出来るだろっ」
秀也の声が周囲に聞こえ、一瞬店内の注目を浴びる。
「でも、今行ったら、今日のライブ・・」
「ライブなんてどうでもいいだろっ!? それに始まるのは夜だ」
「でも、準備が・・」
自分でも訳の分からない言い訳だった。
「お前はライブと母親の命と、どっちが大切だと思ってんだよっ!?」
秀也も何故自分がここまで熱くなっているのか分からなかった。
冷静に考えれば、自分達も今夜の大事なイベントを前にこれから準備に入らなければならないのだ。バンドの中心である司が抜ける事は大変な事だとは分かってはいるが、人の話も聞けない程こんなに不安な気持ちでいる司を目にするのは初めてだ。
もし、このままの状態でやったとしても、きっと成功はしないだろう。
咄嗟の判断が秀也をそうさせていた。
さっさと支払いを済ませ、司を強引に車に乗せると、秀也はアクセルを踏んだ。
「お前の母親だ。傍にいてやれ」
秀也の言葉に胸が突き刺さるように痛く、何かが込み上げて来る。
「秀也・・・、オレ、本当は行っちゃいけないんだよ・・」
「何言ってんだ。仲が悪くたって、親子だろ」
司の本当の事情を知らない秀也の言葉は、苦しいほど痛かったが、何故か優しさを感じていた。