第十六章・Ⅶ・ステージ(二の2)
「まーったく、大至急帰って来いって、脅されて来てみればこれだっ」
半ば翔は呆れたように司を見下ろすと、隣に立っていた真一にも視線を送る。
「司、俺の方が心臓が止まりそうになったぞ。しかも、紀伊也と結婚したって・・・」
真一も目を丸くしながら司を見下ろすと、仲間に囲まれて笑っている紀伊也に視線を送った。
紀伊也のあんな笑顔は見た事がない。
「紀伊也はお前の事、承知なんだろ?」
その質問に黙って頷いた。
「紀伊也にも仲間がいるんだな。あれだけ許し合える仲間がいれば、そう心配する事もないな」
目を細めて言う真一に司は再び黙って頷くと、楽しそうに笑っている紀伊也を見つめた。
「司お兄ちゃん、何でドレス着てるの?」
不意に足元から声がして見下ろすと、真一の末の息子の凛が不思議そうに見上げている。
「ん? ・・・そりゃ、花嫁さんだからな」
翔が笑いを堪えながら応えた。
「花嫁さん? 司お兄ちゃん、どっか行くの?」
「あのなぁ、その司お兄ちゃんっていうの、やめてくれる? だいたい凛、お前がオレに会ったのは今日が初めてだろ。この姿見てどこがお兄ちゃんなんだよっ」
思わずムッとして頭を小突く。
「兄貴、どういう教育してんだよっ」
真一に喰って掛かろうとした時、凛が真一の手を掴んだ。
「ねぇ、誰か居るよ」
窓の方を指して言う。
三人がそちらを見たが、誰もいない。
「いないよ。窓に中の人が映っているんだろう」
真一がなだめるように言うと、司は呆れたように紀伊也の方へと戻って行った。
「ねぇ、パパ、司お兄ちゃんどっか行くの?」
もう一度、今度は不安そうに訊く。
「うん、今、司の隣に白いタキシードを着ているお兄ちゃんがいるだろ。紀伊也のところへお嫁に行くんだよ」
説明しながら目を細めた。
「あのお兄ちゃんのところじゃないでしょ。ホラ、あっちに居るお兄ちゃんのところじゃないの?」
言いながらもう一度、窓の方を指した。
?
真一と翔は目を合わせたが、同時に不安になって窓の外を見るが、やはり誰もいない。
「凛、誰もいないぞ。あんまり変な事言うなよ」
「居るよ。あれ? 翔おじちゃんに似てるなぁ」
凛の言葉に二人は再び目を合わせた。
「凛、そのお兄ちゃん、どんな顔してる?」
「何かね、とっても哀しそうな顔をして、さっきからずっと司お兄ちゃんの事、見てる」
真一は黙って、指していた凛の手を握ると、幸せそうに笑う司を見つめた。
******
家族と仲間に囲まれ祝福された司と紀伊也の結婚披露パーティ。
この上なく幸せ一杯に笑う司を目に焼き付けておくかのように、楽しい時を過ごした。終始笑い声の絶えなかったこの時も終わりを告げ、皆帰って行った。
静寂に包まれた居間で一人、亮太郎は腰掛けて葉巻を吸っていた。
誰も居なくなった広間では使用人が黙々と片付けをしていた。
ふと気配がして顔を上げると、既にいつものように濃紺のシャツに黒いコットンパンツを履き、皮のジャケットを身に着けている司が一人入って来て、居間の扉を閉めたところだった。
「親父・・・、その・・・ 黙っててごめん、紀伊也の事。 後で言うつもりだったんだ、本当だよ」
決まり悪そうに言う司に思わずフッと笑うと、黙って首を横に振った。
それを見た司は安心したようにホッとすると続けた。
「今日はありがとう。嬉しかったよ。あいつら呼んでくれたの親父だろ。秀也から聞いた。それに兄さん達にも・・・会えて良かった。兄さん達も喜んでたよ、オレの花嫁姿が見れたって。・・・、その・・・親父がオレの事、娘だって認めてくれた事・・・。 オレは何もしてあげられなかった。だから最期に・・・」
言いかけて口をつぐんでしまった。 そして目を伏せて首を軽く横に振ると、再び目を開けて亮太郎を見つめた。
「お父さん、今までありがとうございました」
思い切って言うと、頭を下げた。
「司、今まで父親として何もしてあげられなかった事を許して欲しい」
葉巻を手にしながら表情なく言うと目を伏せた。
「ううん、オレの方こそ期待に添えなくてごめんなさい。出来の悪い娘だったから、光月家の恥さらしだって言われても仕方ないよ。わがままばかり言って、いつも皆に迷惑かけてた。 謝っても謝りきれないよ。・・・それに、親父は何もしてくれてないなんて、そんな事ないよ。 親父は居てくれるだけでいいんだ」
その言葉に、黙って聞いていた亮太郎は目を開けると、司を見つめた。
「オレは親父からいろんなものをもらったよ。 小さい頃から色んな国に行って、沢山の人や物を見て来た。そこに生きてる人達の生活や文化、考え方、しがらみ。 こんなオレにも色んな考え方が出来るようになった。あれだけ沢山の国へ行かせてもらったんだ。一般の人じゃ考えられないよ。 それに・・・、能力者として架せられた使命の中で一番大切なものも与えてもらった。 人を憎んだ事もあった、でも、人を愛する事も。 考えてみれば、それって普通の人間と変わらないって事にも気づいたよ。親父が居たからオレは生きて来られたのかもしれない。 どうしていいか分からなかったこのオレに使命を与えてくれたんだ。お陰で生きるのが楽になったよ。・・・、それに、大切な仲間にも会えた。大切な人にも・・・」
そこまで言うと、ぐっと堪えるかのように拳を握り締め目を伏せた。
「オレにとって、大切な人がこんな近くにいたなんて思いもしなかった。 気付いた時にはいつも遅い・・・っ」
目を開け見上げると、目の前に亮太郎が立っている。
「親父っ・・・。親父を守って来たのは使命の為だけじゃなかった。親父が好きだったんだ。親父が大切だったんだっ・・・だから・・・っ」
喉の奥から搾り出すように言う司の肩を思わず抱き寄せた亮太郎は、自分の胸の中で声を押し殺して泣く司に、かけがえのない大切な我が子を手放す寂しさと切なさを感じながら、もうこれ以上どうする事も出来ないもどかしさに悩まされ、愛しい我が子を強く抱き締めていた。
亮太郎は司に何も言えなかった。
何も言えず、ただ黙って司を抱き締めていた。
「司、・・・、明日、楽しみにしているぞ、お前のコンサート」
「うん」
頷きながら涙を拭うと顔を上げた。
「ジュリエットか・・・。ジュリエットは笑ったか、確かそんな事を昔、翔と亮に訊かれた事があったな。あれ以来か、亮がシェークスピアに夢中になったのは。司もその血を受継いで大学に行ったんだろ? お前の論文は読ませてもらったよ、見事だった」
「知ってたんだ・・・、敵わないな、親父には」
思わず苦笑すると俯いてしまった。
ここでも語られていたのだ。
自分と亮とだけの大切なものだとばかり思っていた事が不意に可笑しく思えた。
「明日のコンサートには家族皆で行く。モーツァルト音楽コンクール以来だな、家族総出で行くのは」
思い出すように言ったが、ふと影を落した。
もう一人、司にとって一番大切な家族の一人がいないのだ。
「そうだね。 でもきっと亮兄ちゃんも来てくれるよ。 最高のステージにするから楽しみにしてて」
パッと輝いたような笑顔を見せた司に亮太郎は微笑んだ。
「そろそろ行くよ。本当にありがとう、オレ、今とっても幸せだよ」
そう笑顔で返すと亮太郎から離れ扉を開けた。
そして、くるりと亮太郎に向き直ると、右手の指三本を左胸に当てた。
それを見た亮太郎の目の色が変わる。
「R・・・」
司は呟くと、フッと寂しそうに笑い最敬礼をしていた。そして、そのまま黙って扉を閉じて去って行った。
閉じられたその扉を茫然と見つめていた亮太郎は、やがて黙ってソファに腰掛けると、両手で顔を覆って嗚咽にも似た声を出し泣いていた。
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部屋の灯りを点け、誰もいない広い部屋のソファに腰掛けると、そのままソファの背に体を預け、天井を見上げると、ふうーっと息を吐いた。
そして、サイドボードの上の亮を見つめた。
「兄ちゃん、明日がラストステージだ」
呟いて息を吸うと同時にその鼓動が止まり、ゆっくり体が倒れて行く。
目を閉じた瞬間、カタンと亮の写真が倒れた。
「ただいま、遅くなってごめん。・・・あれ、寝てるの? 司、こんな所で寝てるとカゼひくぞ。明日は大事なステージなんだから・・・、司・・・司ってば・・・」
肩を軽く叩いたが、目を閉じたままソファに横たわったままピクリとも動かない。
慣れない格好で余程疲れたのだろう。
昼間の司の姿を思い出すと、思わず目を細めて司の隣に腰掛けた紀伊也は、その寝顔を見つめ、左手をそっと取ると、薬指をなぞった。
「こんなに冷たくなって。仕方ないな」
呆れたように微笑むと、抱き上げたが目を覚ます気配さえ見せない。
仕方なくそのままベッドへ運び、「おやすみ」と言って軽く口付けすると、毛布をそっと掛けた。