第十六章・Ⅵ・決心(三)
『司、来週のお前の誕生日、何か欲しい物はあるか?』
『初めてだな、親父がそんな事言うの。 くっく・・・、それに、オレの誕生日、覚えてくれてたなんて』
思わず吹き出したが、次の瞬間、枕に埋めたまま顔だけを亮太郎からそらせた。
『一つだけ、・・・欲しいものがある』
『何だ? 一つと言わずに言ってみろ』
『認めて欲しいものがあるんだ』
そして、そらしていた頭をゆっくり動かすと、再び父親の顔を見つめた。
『認めて欲しいもの?』
一瞬、亮太郎の顔が曇る。
それは、司に対しての嫌悪から来るものではなく、自分に対しての罪悪感から来るものなのか。
司が認めて欲しいもの。
それは、亮の事なのだろうか。
亮太郎は、司の一番大切な者を引き離してしまった事への罪の意識を感じずにはいられなかった。
『うん、・・・、一つだけでいい。それだけでいいから認めて欲しい。そしたら他には要らない。もう何も要らない。いつでも逝けるよ』
そう言うと少し寂しそうに笑った。
『 ・・・、何だね?』
覚悟を決めてもう一度訊いてみる。
『結婚』
え?
思わず目を見開いたまま絶句すると、司を見つめた。
『結婚?』
『うん、結婚したい人がいるんだ。その人と最期まで一緒に居たい』
『司、自分で何を言っているのか解っているのか?』
いくらわがままで身勝手とはいえ、あと半年の命の為に他人の人生をも犠牲にするなど度が過ぎている。
『解ってるよ。でもね、まだその人にも言ってないんだ。だから、相手がO.Kしてくれないと出来ないんだけどね』
半分苦笑しながら首を竦めたが、また真剣な目で亮太郎を見つめた。
『それでも、結婚したい。その人と』
司の真剣な目を見た時、司はやはり自分の娘なのだと思った。
翔や真一が結婚すると聞いた時には、然程驚きもしなかったが、司が他の男性の下に嫁ぐという事は、想像もしていなかっただけに、動揺が隠せない。
男が女を愛し、女が男を愛する事は当然の成り行きだが、司は・・・。
『司、その人の事、愛しているのか?』
『愛してる。他の誰よりも』
ためらわず応えた。
『それなら、好きにしなさい』
『ありがとう』
『ただし・・・』
『 ・・・・ 』
『時期を見て、私の所に連れて来なさい。一応の礼儀というものだろう?』
『わかった』
******
自分のデスクに掛けながら、司から渡された紙をじっと見つめていた。
“婚姻届”
そこには既に司の署名が成されている。あとは相手方の署名と捺印をするだけだ。
『こんな紙切れ一枚で人生が変わっちまうなんて、世の中おもしろい事もあるもんだな』
悪戯っぽく笑う司が妙に遠くに感じてしまった。
『今夜一晩考えて欲しい』
そう言われて受け取ったが、その場ですぐに返事が出来なかった自分が情けない。
即答しても良かった。
しかし、
『これでオレはお前を完全に縛り付ける事になる。オレが先に逝くのは分かってるから、その後の手続きも全部お前がする事になるんだぞ。 例えば、これとか』
言いながらサイドボードの引き出しから取り出された一枚の紙を広げて見せられた。
“死亡届”
それを見せられた時、現実の生活を突きつけられた気がした。
『他には遺産相続の手続きとか、とにかくいろいろ面倒臭い事とか、お前はオレの後始末をしなきゃならなくなる。だから、そういう事もひっくるめて考えてくれ』
いつになく真剣な目をした司に、何も言い返す事が出来なかった。
******
翌朝、雅からもらった薬のお陰で、いつもより遅く目を覚ました司が居間へ入ると、案の定紀伊也は先に起きて、ソファに座って新聞を読んでいた。
「おはよう」
「おはよう。 あ、今コーヒー淹れるから」
司に気が付いて新聞から顔を上げると、紀伊也はソファから立ち上がった。
サンキュと言いながら紀伊也からカップを受け取った司は、ソファの背にもたれて一口飲むと、ふぅーっと息をついた。
「ん?」
突然、目の前に差し出された紙を受け取った。
「お前のわがまま、全部受け取ってやる。 それから、後始末も全部。 俺に何かやって欲しい事があるなら遺言にでも書いて残しておけ。 司、結婚しよう」
結婚しよう
そうはっきりと言われた時、不意に胸が熱く込み上げて来ると同時に、紀伊也の顔が潤んで見えなくなった。
思わず顔をそらして目を閉じると、頬に雫が伝う。
「司・・・」
「変、だな、嬉しくて涙が出て来る・・なんて」
唇を震わせながらそれだけ言うと、カップを置いてそのまま両手で顔を覆った。
何故だろう
辛くて哀しい時の涙は、胸が締め付けられていくのに、こんなにも嬉しくて出る涙は、胸が熱く張り裂けそうだ。
「司、それと誕生日おめでとう。まさかお前から言われるとは思ってもみなかったけど、俺も同じ事考えてた。 気持ちだけじゃなくて、形としても一緒になれるなんて、な」
隣に腰掛けた紀伊也は、司の左手を取ると、その手の平に宝石箱を乗せた。
「・・・、これ」
以前にも同じような形の箱を秀也と並木から受け取った事がある。
「開けてみて」
言われて恐る恐る右手で箱に手を掛けたが、一瞬ためらった。
「じゃあ、一緒に開けよう」
司の右手に自分の右手を重ねて箱を開けた。
「あ・・・」
全く同じ形と色、大きさだけが違う指輪が一つずつ入っている。
「結婚するには、結婚指輪が必要だろ?」
箱を膝の上に置くと、小さい方を手に取って、司の左手の薬指にはめた。
「ピッタリだな」
紀伊也の言う通りだ。
しかも指に馴染みすぎてはめた感触さえも気付かせない程、違和感がない。
「じゃあ、次は司の番。俺にもはめて」
言われるまま指輪をそっと取ると、紀伊也の左手の薬指にはめた。
自分の心臓、そう自分の命と直結されていると言われている左手の薬指に、互いの愛を誓った同じ指輪がはめられたのだ。二人は互いの指にはめられた指輪を見つめると、互いの瞳を見つめ合った。
「司のそんな不思議そうな子供みたいな顔を見るのは初めてだな」
くすっと笑ったが思わず抱き締めていた。
そこに見たのは、生まれて初めて見せる少女のようなあどけない瞳だった。
初めて会った時から警戒したような鋭い目付き、無表情の中に見せるこの上なく冷酷な瞳、全てを許し甘えて安心した瞳の中にもどこかに影があった。
初めて見る瞳に、司であって、司ではない目を見てしまったような気がして、それ以上まともに司のその目を見る事が出来なかった。
瞬間、紀伊也の中に、『最期』という言葉がよぎった。
「紀伊也の奥さん、なんだな・・・」
「実感ない?」
「ない」
耳元で言われ、体を離すと少し皺の寄った婚姻届を広げて見せ、
「じゃあ、俺が手続きして来るから待ってろ」
と言って、司の唇に軽く口付けをすると出て行った。
真夏の陽射しが照り付ける。
セミの声が響く中を無言で歩いた。
“光月家之墓”
その前で足を止めると、刻まれたその文字を指でなぞった。
「 兄ちゃん、もう同じ墓に入れない。一緒には眠れないよ。
兄ちゃんとの約束破っちゃった・・・。 でも、謝らないからね。
だって、これで良かったんだろ? もうオレは光月家の人間じゃない。
オレね、幸せだよ。
紀伊也から結婚しようって言われた時、本当に嬉しかったんだ。
本当に嬉しかった。・・・生きてて良かった。
生きてて良かったって、そう思えたんだ。
だから・・・
兄ちゃん、オレを連れて行かないでよ。
もう少し待ってよ。
春まで、ううん、来年も再来年も、もっともっと・・待っててくれる?
自分の命、大切にするからさ・・・ダメかな?」
照り付ける太陽の下、セミの声に混じって時折波の音が聴こえた。