第十六章・Ⅵ・決心(二)
どこをどう歩いたのか解らない。
雅の部屋を出た時、魂はそこになく、抜け殻のようになっていた。
中庭のベンチに腰掛け、何時間も人の往来を見ていた。
時折、すずめが何羽か黙って動かない紀伊也の足元に集まり、何か突付いていたが、それすらも目に入らなかった。
『紀伊也、もう覚悟を決めてくれ。司には来年の春までと言ってはあるが、実際には年を越せるかも分からない。もう手の施しようがない』
そう雅に言われた時、自分の頭の上で落雷でもあったのかのような衝撃を受けた。
『司にも言ったが、ライブは無理だ。 しかも7日間なんて・・・、一日でも無理だよ。 もしかしたらライブの途中で死んでしまうかもしれないのに。 でも、それでも演らせてくれって、Rの前で泣きながら頼むんだ。俺にはそれ以上何も言えなかった。だから紀伊也から言ってくれ。もし、春まで生きたいなら、ライブは止めろ、と』
日も暮れかけた頃、決心したように立ち上がると、黙って歩き出した。
玄関のドアを開けると、少し擦りかけた革靴が一足、無造作にあった。
?
自分の靴を脱ぎかけて顔を上げると、奥からはしゃいだような笑い声と罵声が飛び交っていた。
居間へ入ると、そこには誰もいなく、台所からその声が響いている。
「あー、お帰りィ 紀伊也。 もうちょっと待っててね~」
笑いながら言う司の頭を晃一がはたいていた。
「おおっ、紀伊也、元気かっ? ったく、こいつ今度は何しでかすかと思ったら、カレー作るって言いやがってっ・・・!」
「カレー?」
「そうっ。しかも自分でっ! 司が、だぜ!? 信じられねぇよっ。 しかも呼び出された挙句、材料まで買って来いだぜっ! 自分で作るなら自分で買いに行けっつーのっ!」
「だぁって、分かんないもん。 何買っていいか」
口を尖らせながら言うと、カレールーの箱を手に取った。
「触るなばかっ! もうお前はいいからあっちに行ってろっ、ったく!」
司の手から箱を取上げると、それで更に頭を叩く。
「紀伊也、何とかしてくれ。 もうこれ救いようのねえカレーだぜ」
「は?」
「 ったく、塩と砂糖は間違えるわ、はちみつは入れるわ、こしょうは入れすぎるわ、おまけにチーズと牛乳まで入ってんだぜっ。 こいつ今までどんなカレー食って来たんだよっ!?」
晃一は呆れて紀伊也に助けを求めるように鍋を指差す。
「じゃあ、サラダ作るよ」
「おお、そうしてくれ。それなら害はねえ・・・って、お前何やってんだっ!?」
うっわーーっっ!!
晃一が目を剥くのと悲鳴が錯誤する。
見れば、司の持ったフライパンから炎が上がっているのだ。
「わーーっ バカっ 火ィ 消せっ 火っ!! フタだっ フタっ! フタしろって!!」
慌てた紀伊也がフライパンに蓋をする。
「・・・・・」
はぁ・・・
沈黙の後、安堵の溜息が三人から漏れた。 が、次の瞬間、またもや晃一の罵声が飛んだ。
「いい加減にしろーーっっ!!」
「 ・・、だって・・・やりたかったんだもん・・・」
フライパンを握ったまま司は呟いた。
「あのなぁ、いくらやりたかったって言ったって、限度ってもんがあんだ。 あん? そこんとこ解ってる? ・・・、で、サラダ作るって言って、何しようとしてたんだよ」
「カリカリベーコン」
「・・・・・」
はあっと、肩を落して溜息をついた晃一は司の両肩に手を置いた。
「はいはいお嬢様、わたくしが作って差し上げましょう。 特製のカリカリベーコン。・・・おい、紀伊也、んなとこ突っ立ってねーで、手伝え。 それからそのカレー、何とかしてくれ」
いつになく優しい目で司を宥めるように見ている紀伊也に向きながら言うと、司の肩をそのまま押して、台所から出るよう促す。
「 ・・・じゃ、よろしくね、コックさん」
司は晃一と紀伊也に背を向けながら言うと、台所から出て行った。
二人は苦笑に近い笑みを浮かべて目を合わせると、鍋とフライパンを見つめた。
「 ・・・ったく、らしくねー事、すんなよっ・・・」
吐き捨てるように言った晃一を紀伊也はやり切れない目で追った。
「おーい、出来たぞぉ」
ソファで仰向けに寝そべりながらタバコを吸っている司に声がかかる。
心ここに在らず、自分だけがどこか遠い所にいるような、そんな面持ちで自分の吐いた煙が天井に向かって行くのを見ていた。
「おーい、司ぁ」
もう一度呼ばれると、「ああ」と我に返ったようにタバコを一服吸うと、勢いよく煙を吐いて起き上がった。
「できたの? 特製カレー」
おどけたように嬉しそうに言う司に晃一は呆れると、
「紀伊也に感謝しろ」
と、冷たく言い放った。
「一時はどうなるかと思ったけど、何とかなったな。ホント紀伊也ってすげーな。感心するよ」
カレーを一口食べながら目の前でふんふん頷く司を睨む。
「うん、美味しい美味しい。 オレの料理も何とかなるもんだな」
「ばか言え、お前一人じゃ天と地がひっくり返ったって無理だ。 ホンっと、ここまで何も出来ねぇヤツは初めてみたよ。 米くらい洗えると思ったんだがな・・・、お前も苦労すんな」
ワインを飲みながらずっと黙っている紀伊也に視線を送る。
「そんな事ないよ。 司のカレーも悪くないよ。 やれば出来るじゃない」
「 ・・・。 お前、マジかよ・・・。 司もあれだな、紀伊也くらいしか嫁の貰い手がないな。いっその事お前ら結婚しちまえば? そうすりゃ俺も肩の荷が下りるってもんだぜ」
ワイングラスで交互に二人を指しながら言うと、残りを飲み干した。
「じゃ、俺帰るわ」
「え? 何で」
「俺にも待っててくれる女は居るの。 っつーか、冗談にもならねェ、マズイカレーなんか食ってられっかよ。 そういや明日、司の誕生日だったな。何か欲しいもんある? あー、そりゃ、紀伊也に買ってもらえばいいな。 じゃあれだ、料理本でもプレゼントしてやるよ。紀伊也に教えてもらえ」
一方的に喋り捲ると、立ち上がった。
「じゃあな」
テーブルのタバコとライターを掴むと出て行った。
・・・・・・
晃一が出て行った後、しばしの沈黙に包まれた。
お互いに目を合わす事も出来ず、司は再びスプーンを動かした。
「そんなにマズイかな」
「そんなに落ち込まなくたって・・・、今度また一緒に作ろう。俺が教えてあげるよ」
俯いたままカレーをスプーンでかき混ぜている司に気の毒そうに言ってしまった。
「んーーっ、紀伊也だってやっぱマズイと思ったんだっ。別にいいけどさっ、今更っ。そりゃオレは台所なんか立った事ないよ。だって台所はオレの入る所じゃないって、言われてたんだからっ」
脹れながら言うと、一気にカレーを頬張って思わず顔をしかめた。
「 ・・・、やっぱ マズイなこれ。 ・・・、ねえ、代わりにワインでも飲む? ヴィンテージの。それもオレの生まれた年のヤツ」
そう言って立ち上がった。ワインセラーを開けてワインを取り出すと、背を向けながらコルクを開けた。
「司、これ本当に美味しいよ」
「ボンから聞いたろ?」
二人の声が重なって、紀伊也は思わずスプーンを置いてしまった。
「春かぁ、桜が見れるといいなぁ。 また皆で花見がしてえなぁ」
サイドボードから新しいワイングラスを二つ出すと、一つを紀伊也の前に置いてワインを注いだ。
渋い色のワインがグラスに流れていく。
黙ってそのワイングラスを見つめている紀伊也の傍に立ったまま司は、自分のグラスにも注ぐとワインボトルをテーブルに置いた。
「紀伊也、もう一度訊いてもいい?」
「・・・」
「どうする?」
一瞬の沈黙が、一時間、いやそれ以上に感じた。
「封印・・・は、しないで欲しい。 お前に言われてからずっと考えてた。 お前が俺の生きる支えだって事には変わりはないし、お前なしじゃ生きてはいけない。それは単なる思い込みなのかもしれないし、お前のいない人生を生きてはいたくないという言い訳なのかもしれない。 でも・・・、俺だって能力者だ。 お前が能力者として死んで行くなら俺もそうしたい。そうするし、それが当然だ。自分を否定する事は出来ない。タランチュラが人間でないというならハイエナだって人間じゃない。お前が二つの人格者として生きた事を俺は忘れたくはない。それに、俺自身、二つの人格を持つ能力者として生きて来た事に後悔はしていないし、それで死んで行く事にも悔いはない。だから、封印はしないで欲しい」
淡々と自分自身の決意を言い聞かせるように言うと、真っ直ぐに司を見つめた。
「決心は、固いんだな」
司はフッと苦笑すると、持っていたグラスをテーブルの上の紀伊也のグラスに合わせた。
カチィーン
澄んだ音が静まり返った部屋に響いた。
司と紀伊也は互いに目を合わせて微笑むと、グラスを口につけ、同時に飲み込んでグラスを離し、
「ウマイっ」
と言って、笑った。
空になったグラスに再びワインを注いだ司は、ソファへと座った。
「明日の誕生日だけどさ」
「ん?」
「欲しいものがあるんだ」
そう言ってぐいっとワインを半分程空けた。 そして、ゴクンと飲み込むと、真剣な目で紀伊也を見つめた。
「何?」
「一晩考えてからでいいんだけど・・・」
グラスを置くと、言いながら立ち上がってサイドボードまで歩いて行く。
一番上の引き出しから封筒を取り出すと、それをじっと見つめた後、亮の写真を見つめたまま、
「お前のサインが欲しい」
と、言った。
「サイン?」
「うん・・・、その・・最期までオレに付き合ってくれんだろ?」
くるりと向きを変えて紀伊也の頷くのを待った。
「もちろん」
「じゃあ、オレのわがまま聞いてくれる、よな?」
再び頷くのを待った。
「もちろん」
「じゃあ、これに・・・、サインして欲しい」
そう言うと、手にした封筒を差し出した。
「何、ソレ?」
不思議そうにグラスを置いて立ち上がった紀伊也に、手を伸ばしてそれをもう一度差し出すと、紀伊也もそれに導かれるようにゆっくりと自分の手を差し出して、それを受け取っていた。
そして、封筒から中に折りたたまれた紙を出して、それを見た瞬間、ハッとなって何も言えずに、ただその紙と司とを交互に見つめた。
「これ・・・って・・」
「うん、そう、見ての通りだから。 やっぱり最期にこれくらいやっておかないとな」
「でも」
「お前が困るなら別にいい。 無理にするもんでもないし、お前の人生懸かってるし。それに、いろいろ制約も出て来るし。 ・・・、ただ、これにはお前のサインがないと出来ない」
「でも、Rは・・・」
「親父は認めてくれたよ。好きにしろってさ」
そう言って笑みを浮かべると、再び亮の写真に向き直った。