第十六章・Ⅴ・想い(三)
「さすがに世界旅行は疲れますね」
久しぶりに座るオフィスの自分のデスクに妙に安心感を覚えながら、透は目の前に座る宮内に言うと突っ伏した。
「だな。ツアーよりバテるよ」
書類に目をやりながら溜息をつくように返した。
そこへチャーリーが首を横に振りながら溜息を付くと、宮内の隣のデスクに座った。
三人共疲労感を隠しきれずにいる。
「ダメだって。今日の取材はキャンセルだよ」
「そりゃそうでしょ。 俺らだってさすがにバテバテなのに、あの人だってこれ以上神経使ったら死んじゃいますよ」
「でも・・・、司さん体力落ちてんのかなぁ。 すぐ疲れたとか言って休んでたしなぁ」
宮内は心配そうに思い出す。
写真集の撮影で、世界中を回っていた。
エジプトの砂漠・スフィンクス像・ピラミッド・オアシス、ギリシャのパルテノン神殿跡、スペインのガウディ建造物、スイスのレマン湖、フランスのベルサイユ宮殿、イギリスのロンドン塔・時計台、ポーランドのアウシュビッツ収容所跡、タイのアンコールワット、中国の万里の長城、アメリカは自由の女神。
これらの地に赴き、撮影だけすると休む間もなく移動し、約1ヶ月ほどで日本に戻って来た。
帰国してから3日経ち、その間、宮内達スタッフは一切の仕事から離れ、休養を取って出て来たが、さすがに司はベッドから起き上がれずにいた。
紀伊也もN.Yでの仕事にケジメを付ける為、帰国までもう少しかかりそうだった。
一日の大半を寝て過ごし、外へ出る事はなかった。食事の方は弘美に来てもらっている為困らなかったが、食欲も今ひとつない。
「寝すぎかなぁ・・・、だるくてしょうがない」
チャーリーから電話をもらった時、そう言っていた。
「じゃあ 今日の取材はキャンセルするけど、明日の番組には出てよ」
半分気の毒そうに言われ、少し情けなくなると溜息をついた。
撮影だと言っても半ば旅行気分のようなものだ。 スタッフの人数も最小限に、小旅行のつもりで始めは楽しんでいた。
『歴史の建造物って、人類の生きた証みたいなもんですかね』
野田にそう言われた時、
『人一人が生きた時間って、本当に短いんだろうな』
と呟くように言っていた自分は、こんな広い世界の中では、ちっぽけな、まるで果てしなく続く砂浜に転がる小石のように思えた。
『司さんは、こういうふうに海外旅行ってした事あるんですか?』
『旅行? ・・・、旅行はないな。住んでただけだから』
『どちらに?』
『いろいろ』
考えてみれば、今まで自分は旅をするように色んな国を渡り歩いて来た。
それは何の旅だったのだろう。
ただ、やみくもにその国の事情を知り、組織を知り、指令を実行しただけなら何も残らない。
今になって思えば、亮太郎は何故自分だけをあちこちに行かせたのだろう。ふと疑問を抱いた。
『可愛い子には旅をさせろ、とか言いますしね。ご家庭の事情でしょうけど、いろんな国に行けるのは私からすれば羨ましい限りです。違う文化の中で新たな発見ができる、自分のね』
『え?』
目を細めて言う野田の言葉が少し痛い。
“これはガウディが生涯を懸けて設計し建築しようとしたものだが、未だに未完成だ。お前ならこれをどう造っていく?”
いつの頃だったか、亮太郎と二人で見上げた時に言われた事があった。
“どうって? オレは建築家じゃないから分かんないよ。それに建物を造るなんて興味ないし”
つまらなそうに言うと、顔をそらしてしまった。
“はは・・そうだな。 まぁ、どう造るかはもう少し大きくなってから考えればいい。それよりも指令が先だな”
大きな厚い手を頭に乗せられた感触が、ガウディの建造物を再び見上げた時に甦った。
『司さんは、このガウディの建物を見るのは初めてですか?』
『 ・・・、いや、二回目だよ』
そう応えた時、胸に何か込み上げるものがあった。
それから撮影場所へ行く度に、それらの遺跡に感動していたが、それも段々と何かに押し潰されそうになっていた。
慣れていた筈の飛行機にも、乗る度に疲れていた。
成田に到着し、東京の狭い空間にたたずむビル郡を見た時には、底知れない安心感と同時に、自分自身が消えて行く儚さを同時に味わい、自分の部屋へ辿り着いた時には、へなへなと床に座り込んでしまった。
よくわからないが、何かの虚脱感に襲われていた。
******
「司さん、この後旅行の打ち上げ行きません?」
楽屋で着替えを済ませ、タバコを吸っていると、宮内が顔を出した。
「あ、ごめん。今夜は親父に呼ばれているんだ」
「そうですか、それは残念。今日は皆で寿司でも食べに行こうって」
「ああそうか、約束してたな、ごめん。 皆で行って来て」
タバコを銜えながら上着の内ポケットから財布を出すと、数枚抜いて宮内に渡す。
「すいません、ゴチになります」
「いいよ、約束だったから。 ・・・その代わり」
すかさず首に腕を廻すと、
「ハメ外すなよ」
と、耳元でボソっと言うと、宮内は「わかってますよ」と首を竦めながら笑った。
******
「ミュージシャンっていうのは、世界観光旅行なんてものまでするのか? 気楽なもんだな」
ごく普通に話しかけられて、思わず手を止めて顔を上げると、目の前でワインを飲む亮太郎と目が合った。
「藤宮君から報告は受けている。写真集の撮影だって?」
チッ、透のヤツ・・・
内心舌打ちしたが、任務なのだから仕方がない。
「まぁね、・・初めてしたよ、観光旅行なんて」
表情も変えずに応えると、再び手を動かし肉を口に入れた。
今夜は亮太郎がひいきにしているフランス料理店に、二人きりで食事に誘われた。父と二人きりで食事をするのは何も初めてではないが、やはり緊張する。
「司が音楽をするようになったのはいつからだ?」
「ん? ・・・、3歳だろ」
「今の音楽」
「今の音楽? ・・・、え?」
不意に自分の事を訊かれて手を止めると、亮太郎の顔を見つめた。
「何だ? 何かついているか?」
「いや・・・、親父が、その・・・、オレのやってる事訊くの初めて、だから」
「興味がない、とでも?」
「え・・、あ、うん。 ・・・だって・・・、亮兄ちゃん以外誰も聞いてくれなかったし」
フォークとナイフをテーブルに置くと、ナプキンで口を拭いた。そしてグラスを取ろうとしたが、上手く掴めずグラスを倒しかけて慌ててぐっとグラスを掴んだ。
「亮か・・・。亮が教えたのか、お前に?」
「あ・・・うん。 あ、でも兄ちゃんは悪くないよ。オレが勝手に興味持って、教えてくれってせがんだだけだから」
「フっ・・、別に悪いとは言っていない。 あれが15の時にバンドを組んで遊び回っていたな。 翔と真一はそれを妬んでいたみたいだが・・・。 とにかく亮は反抗的だったな・・・、フフっ、私とよく似ている」
え?
思い出したように笑う亮太郎に司は口に含んだワインを上手く飲み込む事が出来ずに、ゴクンと詰まるように押し込んだ。
「親父と・・・似てる?」
「ああ、私も若い頃は父や母に反抗していたよ。 留学していた頃には隠れてよくロックを聴いていたものだ」
「う、そぉ・・・」
大きな切れ長の目を更に大きく開け、琥珀色の瞳が丸く転がるようだ。
「司のそんな子供みたいに驚いた顔を見るのは初めてだな」
不意に声を落して言うと、黙り込むようにワインを飲み干した。
そんな亮太郎に司は何も言えずに黙ってしまった。
店を出て車に乗り込もうとする亮太郎を呼び止めた。
自分から父を呼び止めるのは生まれて初めてだ。
一瞬戸惑い、視線を宙に泳がせたが、思い切ったように尋ねた。
「親父・・・、親父は、オレがあんたの子に生まれて来て、良かった、のか?」
「・・・・・」
この一瞬の沈黙に耐えられず、
「いや、何でもない。今言った事、忘れて」
と、首を横に振った。
亮太郎は一瞬目を閉じたが、再び開けると司を見つめ、肩に手を乗せた。
「当たり前だ。お前は光月家の誇りだ。 間違いなく私と死んだお母さんの自慢の子供だよ。ま、少々育て方を間違ったかもしれんが、光月家自慢の娘だよ」
その瞬間、司の肩に乗った大きく厚い手が微かに震えていく。
「どうした?」
俯いたまま肩を震わす司の顔を覗き込むように訊いた。
噛み締めた唇は血が滲み出そうだ。必死で何かを堪えていた。
「親父・・・オレ・・・ っ!?」
一瞬、息を呑んだ司が左胸に手を当てた瞬間、そのまま亮太郎の腕に倒れこむと動かなくなった。