第十六章・Ⅲ・氷湖(二)
気が付くと、温かく柔らかな布団に包まれ、柔らかな羽毛の枕に頭を埋めていた。
目の前の天井も冷たく殺風景なコンクリートではなく、視線を動かすとシャンデリアが見えた。
ふと首を動かすと、少し離れたソファで誰かが横になって眠っている。
恐る恐る体を起こし、自分の左胸に手を当ててみる。
トクン、トクン・・・
規則正しい心臓の音が自分の手の平に伝わって来る。
ベッドから下りて、そっとソファに近づいて眠っている紀伊也を見下ろした。
余程疲れたのだろう。
司が傍に寄っても目を覚まそうとしない。
無理もない。
氷の上で全神経を司に集中させ、気を送り続けたのだ。
雅の治療中も送り続けていた。その甲斐あってか、すぐに症状も落ち着き、病院へ連れて行かなくてもよく、ホテルで体を休ませる事になったのだ。
雅も驚いたが、紀伊也自身もここまで自分の能力を出せる事にも驚いていた。
全てが落ち着いた時、どっと疲れが出て半ば失神するかのように眠ってしまったのだ。
「紀伊也、すまなかったな」
呟くと、膝まづいて紀伊也の胸に顔を埋めた。
「ごめん、本当に心配かけた。お前には本当に心配ばっかかけて・・・。オレ、紀伊也を安心させる事が出来ないな。ホント、甘えてばっかりだ」
紀伊也の胸に耳を当て、その鼓動を聴きながら呟いた。
波打つ胸が心地好い。
そっと、目を閉じた。
「ホントに安心できないな」
目を開けると、紀伊也の手が司の頭を撫でている。
その大きく優しい手に更に安らぎを感じると再び目を閉じた。
「紀伊也はあったかいな。・・・、お前の能力のお陰だな」
「ったく、お前というヤツは・・・」
苦笑する紀伊也に顔を近づけ口付けすると、立ち上がった。
「大丈夫か?」
「へへ、ご心配なく。ホント、紀伊也のチカラは大したもんだな。何ともないよ。愛のチカラってヤツ? それに腹もへちゃったから下で何か食って来るよ」
心配そうに見上げる紀伊也に悪戯っぽく笑い返した。
「じゃ、俺も付き合う・・・っく・・・」
体を起こそうとするが、いつになく力が入らず全身がだるい。
「無理をするな。あれだけの能力を使ったんだ。安静にしてろ」
「でも・・」
「大丈夫、一人で行けるよメシくらい。・・・、あ、それとも何? 一人になるのがイヤなの? 可愛いなぁ。じゃあ、しょうがないなぁ、ルームサービスでも取るかな~」
「あのなぁ」
おどける司に思わず苦笑した。が、余りに調子の良さそうな司に微笑むと体を起こした。
「大丈夫。寂しがり屋の紀伊也の傍に居てあげるよ。お前はあっちで寝てろ。さあて、何食べようかなぁ」
じっとこちらを見ている紀伊也に、ベッドを指しながら言うと、ソファに座ってメニューを開いた。
ペラペラとメニューを見ている司に半ば呆れながら苦笑すると、ふらつく体を押しながらベッドへ向かった。
その後姿に、司は寂し気にも似た複雑な視線を送った。
******
その5日後、出来上がった写真を見ながらチャーリーと透は溜息をついた。
「これ、ホントすっげぇっスね。 何かのドラマか映画のシーンみたいな・・・、っつうか、それ以上っつうか」
氷上で苦痛に歪む司は、ただ苦しみに耐えているだけでなく、何かをその先に見つけ、それに向かって挑んでいるようにも思える。
苦痛に歪む表情も、氷の光に反射して神秘的な輝きを放っていた。
「でもよく生きてたね」
湖から引き上げられる写真を手に取りながらチャーリーは言った。
あの時は誰もがダメだと思っていた。
司を見ながら自分達もこのまま凍ってしまうのではないかとすら思っていたのだ。
「まあ、普通じゃねえからな」
両手を伸ばし、天に向かって仰ぎ見ている自分の写真を、ソファに寝転がって見ていた司はそう応えると、その写真をテーブルに投げた。
あの時光りが見えた
眩しかった
亮が迎えに来たと思った
でも、亮ではなかった
何だったんだろう
天井を見つめながら考えると、テーブルに手を伸ばしてタバコとライターを掴むと一本抜いて火をつけた。
「そう言えば紀伊也さんは? 具合まだ良くないんですか?」
天井に向かって煙を吐く司に透が訊く。
「・・・、みたいだな。まだ熱が下がらねえ」
「珍しいよな、紀伊也がこんなにカゼで寝込むのって。初めてなんじゃないの?」
司の手を握ったままいつになく険しい表情の紀伊也の写真を見ながらチャーリーは言うと、溜息をつくように司に視線を送った。
「あんなに怖い顔をした紀伊也は初めて見たよ。ホント司って皆に心配ばっかかけて・・、いい加減呆れるよ」
「・・・、だな」
そんなチャーリーの言葉に呟くように同意すると、再び天井に向かって煙を吐いた。
東京へ戻ってから紀伊也はすぐに高熱を出してそのまま寝込んでしまった。
家事が一切出来ない司は今まで紀伊也に全てを頼っていた事に情けなくなったが仕方がない。急遽弘美を呼んで看させている。今日の午後には午前の診療を終えた雅が来てくれる事になっている。
その間にも司には雑誌の撮影が控えていた。
「でも司はよくカゼひかなかったね。いっつも真っ先にひいてぶっ倒れていたのに」
思い出してチャーリーが言うと、
「そりゃ、何とかはカゼひかないって言いますしねっ」
と、透が半ば呆れて嫌味っぽく言う。
それを横目で睨んで、
「っんだよっ」
と言い返すと、透に向かって煙を吐きつけた。
******
夜、撮影が終わって急いで帰宅すると、弘美がちょうど帰り支度をして靴を履きかけているところだった。
「あ、お帰りなさいませ」
慌てて靴を脱ぐと玄関へ上がった。
「ごめん。いいよもう帰って。で、紀伊也は?」
「今はお薬でよく眠ってらっしゃいます。 今朝よりは落ち着きましたが、明日病院へ連れて来るようにと、雅先生が」
「何で?」
「もしかしたら肺炎になりかかっているかもしれないとおっしゃっていました」
「そう」
言いながら司は弘美を促し、靴を履かせると、玄関のドアのノブに手を掛けた。
「後はオレが看るから。今日はありがとう、明日もまた頼むよ」
「はい・・・明日は?」
「明日はスタジオ。ちょっと曲のアレンジでね。・・・、紀伊也の事は大丈夫だよ、心配しないで」
「でも、病院の方へ・・・」
「明日の様子を見てからね。ボンにはオレから言っとくから」
言いながらドアを開けると、弘美の背を押した。
「あ、雅先生が電話が欲しいとおっしゃっていました」
「分かった、ありがとう」
弘美を外に出すと、急いで靴を脱いで部屋へ上がり、まず眠っている紀伊也の寝顔に安心すると、居間へ入って雅へ電話をかけた。
トゥルル・・・ トゥルル・・・
デスクの上の受話器を取上げた。
誰かからはすぐ分かった。
紀伊也の診療を終えて気になっていた。
「司か、訊きたい事がある」
「何?」
探るような雅の口調に一瞬無表情になると、窓の外の暗い空を見上げた。
「お前、あの時何をした?」
「何って、何?」
「紀伊也の事だ。あの時紀伊也はお前に気を送っていた。発作を起こした時も治癒力を送っていた。だからお前は助かったんだ。けど、その後紀伊也が倒れた。しかも熱が下がらない。それどころか肺炎まで起こしかけている」
「それで?」
「何故だ?」
「何故って?」
「何故紀伊也が一般に見られる症状になっているんだ? それに、あの発熱の仕方はお前に似ている。どういう事だ?」
「どういう事だって言われてもオレは知らないよ。あの時紀伊也はオレにかなりの気を送ってくれたんだぜ。しかも必要以上にだ。何故かはオレが訊きたいね。そのせいで体力が消耗したんだろ。当然だ、このオレに対して能力を使ったんだから」
当然だと言い切る司に雅は自分は考えすぎなのだろうかと思ってしまった。
それにしても・・・
「でも何で司はカゼさえもひかなかったんだ? あの時他のスタッフも何人かカゼをひいていたろ。 あの中じゃお前が一番寒さに弱くて体も弱い筈なんだがな」
「だぁからぁ、紀伊也が余計な気まで送ったからオレの体力が異常に強くなっちまったんだろが。そんな事少し考えりゃ解る事だろが。ったく、しっかりしてくれよ」
司の呆れたような物言いに苦笑せざるを得ない。
やはり考え過ぎなのだ。
「あ、でも明日、紀伊也を連れて来てくれよ。検査するから」
「あ、ごめん、明日は行けない。スタジオにこもるから」
「お前なぁ、紀伊也の体と自分の歌とどっちが大事なんだよ」
「歌」
すかさず応える司に思わず絶句してしまった。
「お前な・・・」
「時間がないんだ。好きにさせてくれ」
呟くように言うと、目を閉じた。
雅に対してはただの言い訳かもしれない。しかし今は紀伊也を雅の元へ連れて行く訳にはいかなかった。
雅は思い詰めたように言われ、黙ってしまった。
残された時間を司らしく、好きなように過ごさせてあげたい。その気持ちに変わりはない。しかし紀伊也の体の事を考えるとそうも行かない。
それに、やはり自分の目でも確認したかった。紀伊也の体の事を。
「紀伊也の事は心配するな。お前が診てくれたお陰でだいぶ落ち着いている。直に良くなるよ」
「じゃあ、明日の夕方、もう一度そっちに行くよ」
「そうしてくれ。じゃ」
雅がまだ何か言いたそうな気がしてそのまま受話器を置いた。
そして再び窓の外を見つめると、一つ溜息をついた。
今は雅に知られる訳にはいかないのだ。
紀伊也の事を。
あの湖で気を送ってもらう時、恐らく必要以上に送る事は解っていた。
思い詰めた紀伊也が以前のように冷静でいられない事くらい分かる。
それを利用した自分にも腹が立つが仕方がない。
それも紀伊也の為だ。
あの時、気を送ってもらっていたのではなく、能力を吸い取っていた。
ハイエナの能力を吸い取る事で、自分の能力を維持できるというものだ。
お陰で自分の能力も回復していた。
紀伊也に声を送った時も頭は痛くならなかった。それに、心臓の発作の方も先の心臓麻痺と寒さのせいだったのだ。
紀伊也の体に右手を置き、治癒力を送りながらじっとその寝顔を見つめていた。
紀伊也はもう一人じゃない。支えてくれる仲間がいる。
自分以外の仲間がいる
そう思うと少し安心したように頬が緩んだ。
「何だよ、扁桃腺まで腫れてんじゃねぇかよ、あのヤブ医者っ」
思わず苦笑すると、更に気を送った。