第十六章・DEAD OR ALIVE 『Ⅲ・氷湖』(一)
凍った湖の底は、地獄へ続く道なのか・・。
「本当に、やるんですか?」
ごくんと生唾を呑み込んで透がもう一度訊く。 他のスタッフも同じように息を呑んだ。
ヒューと、凍った湖面に冷たい風が吹き、そこに居た全員が身震いする。
余りにも無謀な行為だった。
いくら光生会病院の優秀な主治医がいても、司のやろうとする事は、この上なく無謀だ。
この湖水に入るなど、自殺行為にも等しい。
さすがに司も冷たい氷に手を触れ、その下のまるで地獄へと続く深く恐ろしい湖の底に引き込まれそうになって、全身の毛が逆立つ。
「やっぱり止めましょうよ。他に方法はいくらでもあるでしょ。それに何も本当に発作なんて起こさなくても演技で十分・・・」
そこに居た全員が同じ考えだろう。 誰彼となく顔を見合わせると、不安気に司の背を見つめた。
「オレは俳優じゃねぇんだ。そんな器用な事できるかよ。それに、本当の姿を撮らないと意味がねぇ」振り向くと、カメラを握り締めた野田を見つめた。
* * *
『生か死って、難しいテーマですね。でも実際に生死を彷徨った事のある司さんになら、それが出来るかもしれませんね。あの事件のものでも使いますか?』
在りのままの司を撮りながら、写真集のテーマを野田なりに探していた。 が、これと言っていい材料がない。 過去の写真集や雑誌等繰り返し見たが、やはり過去にジュリエットとして活動して来た司と今とでは明らかに全くの別人だ。
だが、野田の中で、司を変えてしまったものは、全てはあのステージで起きた狙撃事件だという事に行き着いた。
一発の銃弾が司を生死の淵に追い込み、そこから変えてしまったのだと。
血に染まった衝撃的な写真も見た。
『あの件は思い出したくない』
司の意外な言葉にハッと我に返った。
『ごめん、あれに関しては触れないで』
司にとっては余りにも辛すぎた事件だった。
本当に死んでしまいたいと思っていただけに、紀伊也に助けられたと知った時には、その紀伊也を恨んだものだった。
だが、紀伊也によって再び生きる希望を抱かせてもらったのだ。しかしそれも残された時間はわずかなものだった。
紀伊也を愛する事によって得た希望。再び仲間に囲まれて得た希望。しかし、それを全て壊していくものは、自分の抱えている爆弾だった。
『じゃあ、こうしよう。オレさ、爆弾抱えてんじゃん』
『爆弾?』
『そう、心臓発作。それ起こせば簡単に生死彷徨えるよ』
『でも・・・』
あっさりとまるで他人事のように言う司に戸惑った。
そんなに簡単な事なのだろうか。野田にとって縁のない症状なだけに、よく解らない。しかし、それによって本当に死んでしまうかもしれないのだ。
『心配しなくても大丈夫。 薬さえ飲めばすぐ治まるし、そんな簡単に死なないよ。それに、苦しんでるとこ撮りたいんだろ?』
『・・・』
『それが、死への道のりなら、必ずそこから生還してやる』
自分自身への挑戦なのか、挑むような瞳をそこに見た時、野田は司に提案していた。
『氷の湖の上で撮りたいんですけど』
* * *
「でも、何も本当に入らなくても・・・」
「うるせぇな。じわじわ来るより、一気に来た方がオレはいいんだよ」
野田から視線を外すと、背後からの透の声にうるさそうに応えた。
「本当に死んじゃいますよ」
その言葉に思わず透を見る。
「かもな。そしたら撮影は中止だな」
「かもなって、もうっっ!!」
透も泣きそうだ。しかしこれ以上何を言っても無駄だろう。
一度「やる」と言ったら聞かない司だ。
観念したように、澄み渡った真冬の空を見上げた。
確かに透の言うようにこの湖に飛び込めば死ぬかもしれない。 しかし、司にとってそれはあくまで『かもしれない』であって、もしかしたら、生きているかもしれない、でもあった。
いわゆる懸けだ。
「ヒエーっ、しっかし冷てェなあ」
指先を水に付けると、瞬間にしてジンと凍ってしまいそうだ。
「ごちゃごちゃ言ってても仕方ねぇ。やるぞ紀伊也」
決心したように言うと、今朝から表情一つ変えずにいる紀伊也を見つめた。
* * *
『お前、自分で何やろうとしてるのか分かってんのかっ!?』
やはり怒鳴り声を浴びた。
『解ってるよ。けどやりたいんだ。どうせいつ死ぬか判らないんだ。だったらその瞬間も撮ってもらいたい。・・・ダメかな?』
『お前のやろうとしている事はメチャクチャだっ! 何がダメかなだっ。いい加減にしろっ!』
余りに無謀すぎる司の提案に、呆れてそれ以上言葉が出て来ない。
滞在先のホテルの部屋のソファにどっかり腰を下ろすと、天井を見上げて溜息をついた。
明日の撮影で湖に入ると突然打ち明けられ、一瞬頭の中が真っ白になった。
ただでさえ、凍った湖の上での撮影に反対したのだ。しかし、目の前に迫った死をテーマに、どうしてもそこで撮りたいのだと言い張る司に、雅を同行させる事で承諾したのだ。
それなのに・・・
『いくらボンがいるからって、何考えてんだよっ・・・』
吐き捨てるように言うと頭を抱えた。
次に大きな発作が起こればどうなるか分からない。そう雅にも言われていたし、仮に発作が起こらなくても、その前に心臓麻痺を起こしてそのまま死んでしまうかもしれない。
『大丈夫だって』
『何が大丈夫なんだよっ!』
他人の心配をよそに、あっさり言う司を睨みつける。
『お前が気を送ってくれれば大丈夫だって』
『え?』
窓にもたれ、フッと笑うように言う司を思わず見つめた。
『オレが湖に入る時、気を送ってくれれば死なないよ。お前がオレに気を送ってくれれば』
思いつきもしなかった、そんな事。
『オレ達能力者なんだぜ。便利なもんだよな。不可能を簡単に可能にしちまうんだ。やりたい事だって簡単に出来る』
そう言って司は悪戯っぽく笑った。
***
「ああ」
決心したように一言だけ返事をすると、司の傍らに立った。
司は立ち上がると皆に振り返って笑顔を浮かべた。
「さあて、入りますか」
おどけたように言ったが、次の瞬間には険しい表情になり、野田に挑発的な視線を送った。
全員に緊張が走り、誰彼となく自分の手を握り締める。
紀伊也の右手が差し出されると、司は右手で紀伊也の手首をつかみ、紀伊也も司の右手首を握り締めた。
その瞬間から紀伊也の全神経はただ一点に集中する。
十数人といる氷上だが、司の息遣いしか聞こえない。
ふぅー、はぁー
2、3回息を整えると、氷の中へ足を入れた。
っっ!!
瞬時に凍ってしまいそうな程、痛い。
くっと唇を噛み締めながら下へ降りて行く。
徐々に意識が遠のきそうになるくらい全身が痺れていく。が、それも不思議と和らいでいく。
紀伊也の送ってくれている気のせいなのだろうか。何の感覚も無くなっていくようだ。
完全に頭の先まで入った時、がくっと力が抜けて紀伊也の右手首を握っていた手が離れた。
その瞬間、ぐいっと司を引っ張り出すと、周りのスタッフも慌てて司を引き上げる。
「司っ!」
「司さんっっ!!」
完全に血の気の失せた司を取り囲み、体中をタオルで拭いて毛布でくるむ。
その間も紀伊也は司の右手を離そうとはしなかった。ただ無言でその全神経を集中させていた。
雅の心臓マッサージが始まり、適切な処置が施されていく。時折紀伊也の表情を伺っていたが、やがて安心したようにホッと一息ついた。
「ったく、世話かけやがって」
そう一言呟くと、紀伊也の肩を軽く叩いた。
「ふぅー、生きてたんだな」
何事もなかったかのような声に見ると、司が目を開けて真上に広がる澄み渡った青く広い空を見つめていた。
全員に安堵の溜息が広がった。
「ったく・・・」
キュッと唇を噛み締め、握り締めていた右手に更に力を込めた紀伊也に、
『すまなかったな』
と声が聴こえた。
「さ、本番行くぞ」
紀伊也の手を払い除けて立ち上がった司は、上着を脱いで真っ白なシルクのコートを羽織り、スタッフに誘導されて湖の中ほどまで歩いて行く。
スタッフが戻って来ると、司と野田の二人きりになった。
二つの人影が氷上に反射してまるで陽炎のようだ。
突然、一つの人影が体をくの字に折り曲げ、片手で胸を押さえた。
「つ、司さんっ!?」
カメラを構えていた野田は驚いて顔を上げて近づこうとした。 が、それを苦痛に耐えている司の鋭い視線が制した。
「さっさと撮れっ。オレの事は心配するな、慣れてるからっ」
息を呑んだ野田は再びカメラを構えた。
その瞬間、野田の周りは静けさに包まれた。
何の音も聴こえない。
自分の切るシャッターの音さえしなくなった。
ただ、何かに憑かれたようにシャッターを切っていた。
『紀伊也は一人じゃない』
そう秀也に言われた時、何かが吹っ切れたように安心していた。
それに、紀伊也が自分の本心を秀也達に打ち明けた事にも、何かに救われたような感覚を覚え、安心していた。
胸につかえていた棘が取れたようだった。
もう恐れるものは何もない
あの翌朝、陽の光を浴びた時、そう思った。
泣き腫らした目で亮を見た時には笑みがこぼれていた。
『兄ちゃん、もう心配しないで。やる事はやるよ』
そう亮に語りかけた時、一つの決断をしていた。
突き刺すような冷たい風が全身を包み込むと、胸が締め付けられて行く。
氷の湖の中は本当に地獄への入口のようだった。
タランチュラの毒牙にかかった者の魂が潜んでいるようだ。
一瞬、彼等を葬った事を後悔しているのかと思った。
後悔?
このオレが後悔?
能力者に生まれ、生きて来た事に?
でも、これは逃れる事の出来ない宿命だった。後悔はしていない。
運命は変えて見せたんだ
だって、光月司として生きる事ができた
あれは、ただ受け入れただけだ
あれもオレだった
だから死ぬ事も受け入れるだけだ
締め付けられる痛みを必死で堪えながら二本の足でしっかりと氷の上に立っていた。
でも、まだ
「死ぬわけにはいかないっ」
搾り出すように言うと、瞬間カメラを睨みつけていた。
カシャ
シャッターが切られた時、ぐっと前のめりになりがくっと力が抜けたが、次の瞬間ふっと体が軽くなったように息を吐くと、天を見上げた。
雲一つない澄んだ青い空がすうーっと、真っ白になって行く。
目を細めて何かを掴もうと両手を伸ばした。
二人を遠くから見守っていた皆は、自分の呼吸する音すら聴こえない程に息を呑んだままその場に立ち尽くしていた。
不意に透が悲鳴を上げた。
両手を伸ばした司がそのままゆっくりと、氷上に倒れていったのだ。
「司さんっ!!」
その声を合図に一斉に皆が走り出した。