第十六章・Ⅱ・一人(三)
「あっれ、司は?」
部屋を見渡しながら言うと、晃一は「ふうー」と、息を吐きながらソファに座った。さっきから神妙な顔付でタバコを吸っている秀也を横目にナオも同じようにソファに腰掛け、久しぶりに見るこの居間を少し不思議そうに見渡した。
以前と全く変わっていない。 が、この部屋を包んでいる空気が何か違っていた。空気というよりは自分自身の気持ちが変わってしまったのだろうか。少し緊張しているような気がしていた。
「秀也、司は?」
もう一度晃一が訊く。
まさか秀也から、司の部屋へ来るよう呼び出されるとは思ってもみなかった。
この二人がまだ二人きりで会っていたなど夢にも思わなかったのだ。
「部屋で寝てる」
素っ気無い返事だったが、喉の奥から搾り出すように苦しそうだ。
「寝てる? ・・って何だよ、話ってーのは?」
半ばつまらなそうに応えると、ソファの背にもたれて横目で秀也に視線を送った。
「もう一人来てからな」
ちらっと晃一に視線を送った後、再び前を向くとタバコを吸った。
* * *
電話を切った後、床に茫然と座り込んだ司を抱きかかえるように立ち上がらせると、ソファに座らせた。
『司』
肩を抱きながら司の顔を覗き込むように名を呼んだ。
秀也の声にゆっくり顔を上げると、以前と変わらず包み込んでくれるような優しい目がそこにあったが、まるで不思議なものでも見るようにじっとこちらを見ていた。
『さっき言った事、あれ、何?』
司を抱いた事で、何かおかしな現象でも起こったのだろうか。それとも夢の続きでも見ていたのだろうか。何かの幻影がそう言わせたのだろうか。とにかく秀也には司が何を言ったのか全く理解していなかった。というよりは空耳だったのだろう。そう言い聞かせたくなるような言葉だった。
『秀也・・・、オレ、もう長く生きられないんだよ』
表情もなく淡々とまるで人形のように言っていた。
『 ・・・、どれくらい?』
『ボンは、2・3年だって言ってたけど、わかんない。発作が起きたらどうなるかわかんないって。心臓がね、壊れそうなんだ』
『司、それ本当、なの?』
自分でも驚くほど冷静な秀也は、黙って頷いた司に対して何も考える事など出来なかった。
頭の中は、文字通り真っ白だ。
ただ、口だけは頭の中の意志とは別に動いていた。
『今は? 大丈夫? 苦しくない?』
『うん 大丈夫。秀也が居てくれるから』
安心したように言う司に、秀也は出逢った頃の司を見たのだろうか、思わず抱き寄せると
『そっか、じゃあ、ここに居るよ』
と言っていた。
その後、何を見つめていたのかも思い出せない。
ただ何かを見つめ、一晩中司を抱き寄せたままソファに座っていた。
* * *
よく解らない苛立ちと不安を覚えながら部屋へ入ると、真っ先に秀也と目が合った。
その後すぐ、驚いたような表情の晃一と目が合ったが、何も言わずにその場に立ち尽くしていた。
「紀伊也も呼び出されたのか。ご苦労だな、わざわざ」
晃一が腰をずらして場所を空けたが、紀伊也は座ろうとはしなかった。
「秀也、話って何だよ?」
晃一はちらっと紀伊也に視線を送っただけで、秀也を半ば軽蔑するように見つめた。
今更ながら司と寄りを戻そうとでも言うのだろうか。
「秀也」
紀伊也が入って来ても黙ったままの秀也に少し苛立ちを覚えた。
が、秀也は黙ったまま最期の一服を吸って、ゆっくり煙を吐きながら灰皿にタバコを押し付けると、一瞬睨むように晃一に視線を送ってから、真っ直ぐに紀伊也を見つめた。
「お前が司と一緒に住んでるって、聞いた」
まるでその事を責めるような口調だ。
しかし、秀也にそれを責められるような云われはない。
「ああ、それがどうした?」
思わずぶっきらぼうに応えた。司を捨てた秀也にそんな事を聞かれたくはないし、言いたくもない。
「何で言わねぇんだよ」
「何で? 何でって言われても、お前に言う必要なんてないだろ」
「何で、そんな大事な事、俺達に黙ってるんだ? お前さえ知っていればそれでいいって事なのかよ」
「秀也、お前何訳分かんない事言ってんの? 司と紀伊也が同棲しようがしまいが、お前には関係ないだろが。それに大体お前だって、司の事ずっと心配してたんだから、逆に紀伊也が一緒なら安心だろうが。何責めてんだよ」
思わず晃一が身を乗り出す。
「晃一は知っていたのか? 紀伊也に任せて安心? そりゃそうだろ、いつ死ぬか分からない司を四六時中見てもらえるんだからな。けど、何でそんな大事な事俺達に言わねぇんだよっ。 お前一人でそんなでかい心配事抱えて、一人で悩んで苦しんで、司が、アイツが死んじまってから俺達に慰めてもらおうとでも思ってたのかよっ!? 司がもう生きられないって、もうそんなに長くないって、どうしてそんな大事な事、俺達に黙ってんだよっ!!」
徐々に抑え切る事のできない切ない感情が、紀伊也を責める苛立ちとなって現れてくると、拳を自分の膝に叩きつけ頭を抱えて唇を噛み締めた。
「秀也? ・・・、お前何言ってんの?」
秀也の言葉に茫然としてしまった。 何を聞いたのだろうか、訳も分からずそのまま紀伊也に視線を移した晃一とナオは、まるで落雷にでもあったかのように頭の中が真っ白になった。
二人とも何も考える事が出来ず、秀也の言葉さえも受け入れることが出来ずに、ただ助けを求めるかのように紀伊也を見つめている。
そして紀伊也は秀也の放った言葉に衝撃を受けて、立っている事も出来ず、壁に寄り掛かるとそのままずるずると落ちて行った。
突きつけられた事実がまるで矢のように紀伊也の体を貫いて行く。
「紀伊也、・・・秀也・・・何?」
晃一は喉の渇きを覚えながら二人を交互に見つめた。
「長くて2、3年。でも、次に発作が起きたらどうなるか分からないって。もしかしたら明日かもしれないって」
頭を抱えたまま淡々と語り出す秀也に、三人の視線が彷徨うように集まる。
「解散して事故った後から調子が悪くなったって。特にここ半年位で急に悪くなったって。だから紀伊也に一緒に住んでもらってるって。いつ死ぬか分からないからって」
そこまで言うと秀也は顔を上げて紀伊也を見つめた。
「だろ?」
秀也を見つめ返したまま黙って頷いた紀伊也に秀也は溜息をついた。
「なぁ紀伊也、お前はどうしていつも一人で抱え込んじまうんだ? お前は誰も信じられないの? 司だけなワケ? でも今じゃ司の事も信じられないんだろ。何だか哀しいよな。俺達って仲間じゃなかったっけ? お前一人が司の事で悩んで苦しんでるなんて、お前と司の事、仲間だと信じてた俺達って、まるでバカみてェじゃねぇかよ。紀伊也だってそんなに強い人間じゃねぇだろ。お前だって俺達と同じ普通、なんだよ。もっと俺達の事信じて甘えたっていいんじゃないのか?」
秀也の言葉が四方八方に張り詰めていた糸の一本を切り落としてしまったように、紀伊也の張り裂けそうに切ない胸が緩んでいく。
自分にとって、この上なくかけがえのない者が、いつ居なくなるか分からない不安と恐怖に苛まれ、眠れない夜をいくつ過ごした事だろう。
ほんの少しの間離れているだけでも、その不安と恐怖に襲われていたのだ。自分の目の前で笑っていても、それが幻影なのではないかと疑ってしまう程だった。
紀伊也の全身が小刻みに震えていく。
噛み締めた唇は今にも血が滲み出て来そうだ。
視線を落した瞳は徐々に潤んでいく。
「もう、どうしていいか分からない。 司とは別れなければならないのに、別れたくないんだ。 怖いんだ、司の居ない世界が。司の居ない世界なんて俺にはあり得ない。 司が全てだった。 司の為に生きて来た。司の存在が俺の存在だったんだ。 司がいなくなったら俺は・・、生きては行けない・・・っ」
苦しかった
司が死ぬと分かった時から溜まっていたこの想いは、余りにも重く心に圧し掛かっていた。
この苦しさを堪えるのにどれ程の我慢を強いられただろう。
司の前からも逃げ出してしまった。その度に自分を責めた。
しかし今、秀也の友としての言葉が、苦しんでいた紀伊也の本心を引っ張り出したようだ。
苦しみという名の糸の一つが出て行ったからだろうか、紀伊也の詰まっていた胸に隙間が出来たようだ。
ポンと肩を叩かれ顔を上げると、秀也が見守るように見つめている。
思わず秀也の胸に自分の頭を押し付けていた。
「やっと本音が出たな。紀伊也、もう一人で悩んで苦しむのはよせ。俺達が居る。司が居なくなっても俺達がいる。司の事は最期まで俺達みんなで見守ろうぜ、な」
紀伊也の震える肩を抱き寄せた秀也の手にも力が入った。
「司っ、聞いただろっ。安心しろ、紀伊也は一人じゃない。俺達が居る。だからお前はお前で、最期までやりたい事、思い切りやれっ」
秀也の言葉に、さっきからベッドの上で膝を抱えて座っていた司は大きく頷くと、止めどなく流れてくる涙を拭おうともせず、自分の体を強く抱き締めた。