第十六章・Ⅰ・模索(二)
先程からそわそわして落ち着かない透は、とうとう隣に居たチャーリーに不安気な視線を送った。
「そろそろ、限界っスよね・・・」
そのセリフにちらっとチャーリーも横目で透を見ると、同じような不安な視線で頷いた。
「だな」
そして二人でもう一度、目の前で行われている光景に息を呑んで見つめると、その先から殺気のこもったうんざりした視線とぶつかって、慌てて視線をそらせてしまった。
ったく、何なんだよ、アイツ等・・・
ぶすーっと脹れると、溜息をついてとうとうセットのソファに突っ伏した。
「すみませーん、もう一回お願いしまーす。 ・・・どうかされました?」
カメラマンも些か呆れたが少し気遣って訊く。
カメラから離れて近づこうとした時、慌ててチャーリーが駆け寄ろうと動き出す。
「あ、あの・・」
そのかすれるようなチャーリーの声が掻き消されるように、瞬間罵声が飛んだ。
「どうかされましただとっ!? いい加減にしてくれないかっ。ごちゃごちゃ注文つけやがってっ、貴様は何様のつもりなんだっ!? オレはてめェのモデルでも何でもねェっ、何でてめェのいう事一々聞かなきゃなんねぇんだよっ!!」
とうとう痺れを切らした司の頭の中の線の一つがブチ切れた。
Vivere 創刊第一号の特集記事の取材の為に訪れたスタジオでの撮影で、カメラマンの野田圭介の細かい注文に、最初は黙って従っていたものの、何度となくやり直す事に少々苛立って来ていた。
『右45度斜め上を向いて』だの、『もうちょっと左』『体はもう少し右、あ、左・・・』
真っ白な布張りのソファに深々座ったり、少し腰掛けたり、あーだこーだ注文をつけられていた。
新人でもなくそこそこ名のあるカメラマンだったが、今ひとつ名声がなかった。柏崎の後輩だというのでO.Kを出したのだが・・・。
「すみません、でもなかなか納得が行かなくて・・。もう一度お願いします」
司を撮るのは難しいと柏崎から言われていた。 角度によって微妙に変わる琥珀色の瞳。失敗すると光に反射してしまい、その上表情まで変わってしまう。
あれこれ注文を付けながら、司の態度が徐々にずさんになっていくのを少し気にはしていたのだが。
「もうっ、ヤダっ。だいたいてめェは何を撮ってるんだよっ!? これ以上ごちゃごちゃ言うならオレは降りるっ」
ダンっと組んでいた脚を解いて床に叩き付けると、立ち上がった。
「まぁまぁ落ち着いて。とりあえず休憩に入りましょうよ。それかホラ、公園での撮影、あっちにします?」
司の肩を押さえながらチャーリーが宥めるように言う。
「そうっスね。今日は天気もいいから気分転換にもなりますしね。あ、そうしましょう、そうしましょう」
透も他のスタッフの賛同を求めるように、チャーリーに目配せしながら司の傍に寄った。
そして、ちらっと青ざめて立ち尽くしている篠崎に視線を送った。
「あ・・・そうですね。どうでしょう野田さん」
司の剣幕に圧倒された篠崎も慌てたように野田の傍に駆け寄った。
「そ・・うですね・・・」
自分に自信を失くしてしまい、気落ちしてしまったが、先を見れば司が透の胸倉を掴み上げ、腹立たしげに何やら文句を言っている。
気性が激しく、誰の言う事も聞かないという噂は耳にしていただけに、これ以上ここに居ても無駄だろう。誰もがそう思った。
*******
少し早いが、表通りからそれた所にあるオープンカフェで昼食を取る事にした。
時間も早い為他の客も少ない。
初夏の陽射しが心地好い。 時折風が吹くと、店内の緑がさわさわとざわめく。
う~ん、と、椅子にもたれながら大きな伸びをすると、そのまま雲一つない澄み渡った空を見上げた。
ふと、杉乃がどこかで微笑んでいるような気がした。
思わずフッと微笑み返すと、先程までの苛立ちが嘘のように消えていた。
「司さん、何か変わりましたね」
隣に居た透が司の表情から何か今までとは違う優しさを感じたのだろうか、呟いた。
「ん?」
椅子にもたれたまま顔だけを透に向けた。
「あ、いや、何つーか・・・、雰囲気優しくなったつーか、棘が失くなったっつーか・・・」
光に反射したその琥珀色の瞳に見つめられ思わずドキッとした。
「何だそりゃ。今までだって優しかっただろーが。それとも何かい? 今までは全然優しくなかった、つーのかよっ」
思わずムッとして言い返すと、透は苦笑した。
「いーえ、十分優しゅうございました」
透は舌を出してチャーリーに同意を求めるように視線を送ると、チャーリーも苦笑していた。
「そう言えば、紀伊也さんていつ帰って来るんですか?」
「さあね」
その質問にまた空を見上げると、溜息をつくように返事をした。
紀伊也がニューヨークへ発つ前の晩、新曲をピアノで奏でていると、仕度を終えた紀伊也が居間へ入って来てソファに腰掛け、それを聴いていた。
ふと指を止めて顔を上げると、ソファにもたれて足を組んで黙って目を閉じている紀伊也を見つめた。
一瞬、目が合った。
司がふと目を反らせると、紀伊也が少し不安気に、そして少し苛立つように口を開いた。
『司、何を考えている?』
『・・・・・』
『司っ!?』
『なぁ紀伊也、オレ達って何の為に生まれて来たと思う?』
え?
突然の漠然とした質問に答が出ない。
『よくわかんねぇんだよなぁ。 オレって何の為に生きてんのかなぁって、最近よく思うんだ。指令の為とか、Rの為とかって、今までそれしか頭になかったけど、本当は何の為に生きてるんだろうって。もうそれも終わりに近づいて来るとね、オレは何の為に生まれて来たんだろうって』
そこまで言うと、紀伊也から視線を反らして天井を見上げた。
『司?』
そして、サイドボードの上の亮と杉乃の写真を見つめた。
『能力者って何だったんだろうな。 必死で闘って来た・・・、自分が生き残る為に。なのに、それが自分の首を絞める事になるなんて思いもしなかった。自分がして来た事を考えれば当然の報いだろうが・・・。でも、オレがもし、普通の人間として生まれて来ていたらどうしてただろうな? もし、普通の人間になれるとしたら、どうするんだろう』
再び紀伊也に視線を移した。
『もし、オレ自身、封印出来たら、オレはこれからどうするんだろう?』
『・・・・』
『紀伊也、お前が羨ましいよ。お前にはまだ生きる道がある』
『司、お前、俺を封印したいのか? 俺は言ったぞ、最期までお前を守ると。お前が死んだって地獄の底まで追いかけてでもお前を守ってやる。死なばもろともだ』
黙って話を聞いていた紀伊也は、司が自分から離れていくのを感じてその全てを否定するかのように言ったが、司は黙って首を横に振った。
『紀伊也、死んでしまえばそれで終わりだ。生きているからお前はオレを守る事が出来ている。オレが死ねばもうその必要はなくなる。オレ達はそのしがらみから解放されるんだ。自由になれる。もう一度、自由に自分自身を生きてみたいとは思わないのか?』
『司、そう簡単にお前が死ぬなんて口にするな。 俺はお前なしじゃ生きては行けないし、生きている価値がないんだ』
司が指令を受けた時に考え抜いた自分の結論に偽りはなかった。
『生きている価値、か。なぁ、そんな事誰が決めるんだ?』
『誰がって・・・』
『生きている価値なんて・・・、んなもん最初からねぇだろ。人に価値なんてねぇよ。もし、そんなもんあったらオレは人じゃない』
『司・・』
『だろ? 今だってオレは、この手の内で全てを滅ぼす事が出来るんだぜ。 今までだって多くの者を葬って来た。それも当り前のように。 別にそれが善いとか悪いとか思っちゃいねぇ。そんなオレが一般に普通の人間から見て生きている価値があると思うか? ・・・答はNOだ。価値なんて・・・、それより紀伊也、お前がオレの後を追って死ぬのは構わないが、死んだってもう会えないぜ。 ・・、でも、生きていればまた会える』
『会える?』
『ああ、お前が生きていてくれさえすれば、お前の思い出の中で会える。お前が生きている限りオレを思い出してくれれば、な』
杉乃に言われた事を今度は自分がそのまま口に出してしまっている事に、思わずおかしくなって吹き出してしまった。
『笑い事じゃないっ、お前はそうやって先に死んでしまって楽になれるかもしれないが、残された俺はどうすればいいんだっ!? お前を亡くして生きていく俺の事なんて、お前は考えた事がないだろっ』
思わず苛立って叫ぶと、立ち上がって司を哀しそうに睨み付けたが、目を反らすと唇を噛み締めた。
『頼むから俺を封印しようなど思わないでくれ。今は司と離れたくはない』
『紀伊也、もう一度考えてくれ。 前にも言ったとおりオレの事じゃない。自分自身の事だ。お前は望めばまだ確実に生きられるんだ』
思わず司も立ち上がった。
『やめろっ、司』
・・・・・・
二人の間に重苦しい沈黙が流れた。
お互いに離れたくはない。せめて今だけはいつも一緒に居て同じ時を分かち合いたい。しかし束縛する事など出来なかった。
『紀伊也、・・・オレ達、しばらく離れていた方がいいかもしれないな。 一人になってよく考えた方がいいかもしれない。もう一度よく考えてみてくれ、お前というただの普通の人間となった事を』
『考えるまでもないっ。 そんなに俺を封印したいなら勝手にしろっ。でもその前に先に死んでやるっ』
沈黙を破り、静かに言う司の声を掻き消すように紀伊也は吐き捨てた。
『紀伊也、死ぬなんて簡単に言わないでくれ。オレだって、できればまだ生きてやり直したい。そう簡単に死にたくはない。だから・・・』
『ごめん・・・』
急にやり切れなくなると、二人はまた黙ってしまった。
避けられる事のない『永遠の別れ』は、死によってもたらされるのだ。
改めてそれを思うと、抱えきれない程の切なさが二人を包み込んだ。
『紀伊也、時間はまだある。だから・・・』
『もうそれ以上言うなっ』
吐き捨てるように言うと、それ以上司の顔を見ようともせず、スーツケースを持って出て行った。
******
澄み渡った空に一羽の鳥が旋回しながら通り過ぎて行った。
「元気にしているだろうか」
ふと呟いた。
アイツもオレと同じ運命を辿る
可哀相だが封印してあげる事ができない
アイツも生きているのに・・・
「司さん?」
表情なく空を見上げている司を、透とチャーリーは不思議そうに見つめた。
カシャ カシャ
少し離れた隣のテーブルでシャッターの切られる音がする。
二人が同時にそちらを向くと、野田がカメラをこちらに向けていた。
「ちょっと、勝手に撮らないでよっ」
チャーリーが驚いて目を剥く。
撮影は許可を取って欲しいものだ。しかも今は食事中だ。
「すみません、でも急に撮りたくなって・・・」
マネージャーのチャーリーに窘められ、カメラから顔を上げたが、カメラを置こうとはしなかった。
ったく・・・
チャーリーも透も、それ以上は何も言わずに向方を向いてしまったが、そんな事はどうでもいい。
-何を見つめているのだろう。天に向かって何かを探しているのだろうか、それとも何かに語りかけているのだろうか。
真っ直ぐに空を見つめている司から目が離せない。
司が右手を空に向かって差し出し、手の平を大きく広げた。
カシャ カシャ
思わず再びカメラを構えていた。
頭の中で意識していた訳ではない。自分の体が勝手に動いていた。
ファインダー越しの司は何かを掴もうとしていた。
「ちょっとっ」
チャーリーの声と同時に不意に司がこちらを見た。
ドキッとしてカメラから顔を上げてしまった。 微かに自分の手が震えているのが分かる。
自分の胸の鼓動も聴こえて来そうだった。
撮りたい、そう思った。
「何、撮ってんの?」
立ち上がりかけたチャーリーの腰の裾を引っ張りながら司が訊く。
「え・・・、光月さんを・・・」
「ふ~ん」
興味なさそうだ。「撮りたきゃ撮らせてやれよ」とチャーリーに言っている。
「何、掴もうとしていたんですか?」
え?
野田の問いかけに思わず振り向いた。
「光月さん、今何か求めてませんでしたか?」
更に質問を続ける野田に、チャーリーと透は呆れて司に無視するよう促す。
が、司はそんな二人を無視すると、野田を見つめたまま
「何だろうな」
と一言だけ応えると、一瞬微笑んで再び空を見上げた。
***
食事を終え、席を立ち帰りかけたとき、パリーンッという音がして、皆が一斉に振り返ると一人の店員が足元の割れたグラスを片付けていたところだった。 気にも留めず、呆れて去ろうとしたが、何気にそれを見ていると、店員が指をガラスの破片で切ったのだろうか、顔をしかめた瞬間にその指を口の中に入れていた。
不意にある考えが浮かんだ司は、チャーリーと透を呼び止めて何やら耳打ちすると、透は目を輝かせたが、チャーリーはいつものように不安気な溜息をついた。
何をするのかは打ち明けられなかったが、こういう突拍子もないアイデアは大抵チャーリーの不安を的中するものばかりだ。 しかし、結果的には皆からウケる事だった。
公園での撮影は延期し、皆はスタジオへと戻ったが、司は透を伴ってどこかへ出かけた。
「かーずと君っ」
二人は店に入るなり、大きな声で和斗を呼んだ。
ビクッとして振り向くと、ニコニコと異常な笑みを浮かべながら近づいて来る司と透に一歩退いてしまった。
背は高く痩せ型で髪は黒く短く色白をした和斗は、「Y.Z」というデザイナーズブランドの店員だ。
二人が揃ってここへ来るのは珍しい事だった。
何の想像も付かず、返って不安が募る。
「そんなにビビんなくても。今日は服探しに来ただけなんだから」
透が和斗の肩を叩きながら言った。
「そ、仕事。仕事」
司も両手をポケットに入れながら少し楽しそうに言う。
「仕事? ・・・、指令ですか?」
恐る恐る訊く。
「違うよ、ホントに仕事なの。撮影でね、白いシャツが欲しいんだけど、オレに合うの見繕ってよ。お前好みでいいからさ」
和斗は、二人が訪ねて来た理由が「指令」でない事に少し安心すると、透と何やら楽しげに会話をしながら白いシャツを選んでいた。
その様子を司は店内のソファに座ってじっと見ていた。
***
二人がスタジオに戻って来たのは、陽も傾きかけた夕方だった。
皆は待ちぼうけをくらい、かなりうんざりした様子で二人を迎えた。
それまで皆の冷たい視線と小言を浴びていたチャーリーは、ホッとしたが同時にふてくされたように二人を睨む。
「ずいぶん遅かったな。お陰で俺は・・・」
「はいはい、待たせて悪かったね。愚痴なら後で聞くから。で、カメラマンの人はどこ?」
チャーリーを遮ると、野田を探す。傍にいた篠崎が慌てて野田を呼んだ。
「ねえ、あんたは一体何を撮るのさ」
突然の質問に面喰ってしまった野田だったが、
「あ、光月さんを、です」
と、それだけ応えていた。
「だろ。だったら、簡単だ。あんたはオレを撮ればいい。とにかくごちゃごちゃ言わないでオレだけを撮ればいい」
「え?」
その挑発的な琥珀色の瞳に圧倒されて息を呑んだ。
「簡単だろ? あんたはオレは撮ればいいんだ」
思わず頷くと、「わかりゃいい」と言われてポンポンと肩を叩かれた。
司がスタッフに何か指示している。 それに合わせ、慌てたように皆が動き出すが、その目付きは真剣だ。
これから何が始まるというのだろうか。
期待と不安が皆の中で渦巻いているようだ。
白一色で覆われたスタジオのセットに白い布がふわりと被せられたソファに向かって、先程和斗によって選ばれた白いシルクのシャツに、黒い皮のズボンをまとった司が歩いて行く。
その右手には、途中で買った年代もののボルドー産のワインのボトルが握られている。
ソファにどっかり腰を下ろすと、足を組んで目の前でカメラを握り締めた野田を真っ直ぐ見据えると、ニヤッと笑った。
その挑発的な笑みにごくっと生唾を飲み込んだ。
先程から鳴り止まない胸の鼓動が一層激しさを増したようだ。
「撮影時間はほんの数分だ。あんたは黙ってオレを撮ればいい」
司の声が静まり返ったスタジオに響き渡った。