第十五章・要求(四)
要求(四)
それから一週間後、退院の手続きを済ませて迎えの車に乗り込み、光生会病院を後にすると、しばらくして紀伊也が車を走らせて来た。
「あれ、司は?」
「もう出て行ったよ。迎えの車が来て」
雅はデスクから顔を上げると、驚いて立っている紀伊也に少し不思議そうに応えた。
「迎え?」
「あれ、聞いてないの? お前の家から来てたみたいだけど」
「ウチ?」
「そう、一条家から。俺はてっきり紀伊也からだと思ったけど。まあ、珍しい事をするもんだなぁと」
「俺が? そんな事・・・。何だろう? ま、いいや、ありがう。・・・、なぁ、ボン」
帰りかけて振り向いた。
「ん?」
「司・・・大丈夫?」
「 ・・・。余り無理をさせるな。あとは好きな事をやらせてあげろ」
「わかった」
もうそれ以上は聞きたくなかったし、雅も言いたくはなかった。
今まで一晩で治っていた発作も、最低は3日かかるようになっていた。
それも一度発作を起こすと、まるで余震のように、その後何回か軽い発作やめまいまで起こしていた。
雅としてもできるだけの治療はしていたが、あとは司自身の体力と治癒力に任せるしかなかった。
黙って出て行った紀伊也の閉めた扉を見つめながら、これ以上どうする事もできない自分にもどかしさを感じると、一つ溜息をついて再びデスクの上の書類に目を落とした。
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一条家に入り、居間を通り過ぎて離れの一条智成氏専用の居間へ通された司は、そのソファに腰掛ける二人の人物が誰であるか予想通りだった事に、何の表情も変えずにその場に立っていた。
何の為にここへ連れて来られたかは、迎えの車が来た時点で解っていた。
しかし、実際Rの姿を見た時、やはり自分自身に覚悟が必要なのだと悟った。
しかしそれは、到底受け入れ難い事だった。
「退院早々申し訳ないね。しかしこれで君もよく解っただろう。事は急を要する。君が素直にここに来てくれたという事は、私の要求を受け入れてくれたものだと思ってもいいのかね?」
和服姿の一条智成は、少し満足そうに司に視線を送る。
その横のソファには、葉巻を吹かし無表情のまま司を見つめる亮太郎が居た。
「それは・・・」
それは、できないっ。
そう心の中で叫んでいた。
「それはRにかね? もう話はつけてあるよ。君がR以外の言う事を聞かない事くらい承知している」
余裕の笑みを浮かべると、亮太郎にちらっと視線を送る。
「司、諦めなさい。これも全て紀伊也君本人の為だ。残念だがお前はもうじきこの世を去る。このままタランチュラが死ねば、ハイエナも同様だ。タランチュラがいなくなれば、ハイエナも必要ない。つまり、紀伊也君を一条紀伊也として生かす事ができる。それは解るな?」
父の言葉を聞きながら思わず唇を噛んだ。
悔しいがそれは紛れもない事実だった。
余りにも解りすぎている事だった。
和矢を『若宮和矢』として生かす事をしたように、紀伊也も『一条紀伊也』として生かしてあげなければならない。
必要のなくなった「ハイエナ」を生かしておく事など出来なかった。
「はい」
喉の奥から搾り出すように返事をしていた。
「指令だ。ハイエナを封印しろ」
そう言う亮太郎の声には、いつもとは違う何かやり切れない響きがある。
「・・・・」
司もいつものように、すぐには返事が出来なかった。
やはり迷っていた。
これでいいのだろうか? しかし、いつかは別れなければならない。それがいつなのかは分からない。もしかしたら明日かもしれない。それは、予告もなしに突然やって来るのだ。
だったら・・・
司は右手の三本の指を左胸に当てて片膝を床につくと、最敬礼をしていた。
それは、この指令は命に代えて受けるというものだった。
「仰せの通りに。・・・全てをRの名の下に」
そう指令を受け、下げていた頭を上げて立ち上がりながらRを見ると、驚いたように目を見張っている。 が、その視線は司にではなく、その背後にだった。
司がその視線を辿るように、後ろを振り向いたとたん、左頬に力いっぱい平手打ちを食らわされた。
それが、誰であるのかを確認するのも怖いくらい、顔を上げることができない。
「司・・・っ」
噛み締めるように言う紀伊也を恐る恐る見上げた。
「なぜだ・・・」
怒りというよりは、やり切れない哀しみに満ちている瞳に思わず顔をそむけた。
「指令・・・、だから・・・」
「お前の為だ。やっと解放されるんだぞ、喜べ紀伊也」
智成が勝ち誇ったように言う。
「俺の為? 何を勝手な事を言っているっ、俺の為かどうかは自分で決めるっ」
思わず紀伊也は自分の父親に向かって怒鳴っていた。
「まったく呆れるな。お前は封印されるのが嫌なのか? このタランチュラが死ねばお前の能力はもう必要となくなる。それにお前までが死んでしまうんだぞ。タランチュラには先はないが、お前にはまだ未来がある。そのお前のおぞましい過去と記憶を封印してもらい、一条家に戻れば、何不自由なく生きていけるのだ。それに、せっかく大学まで行って得た知識を今度は最大限に生かして自分の為に生きて行く事ができるのだよ。それに対して何の不満があるというのだ?」
「それは・・・」
父の言葉に口をつぐんでしまった。
言い返す事ができないのだ。
余りにもごく当り前の事だった。
封印されれば、あの時の和矢と同じように、ごく普通の人間と同じような生活ができるのだ。 秀也やナオや晃一のように、自分の望んでいた事が出来るのだ。今のビジネスももっと成功するかもしれない。しかも一条グループの名声があれば尚更の事だろう。
父の言う通り、何不自由のない生活ができるだろう。
ただ一つの不満を取り除けば。
「司を殺す気かっ?!」
紀伊也は亮太郎と智成を刺すように見つめた。
「Rっ! 自分の子供をっ、司を目の前で殺す気なのかっ!?」
「言葉を慎め紀伊也。何を言っている。殺すも何もタランチュラは直に死んでしまう。それもいつか分からないというではないか。このまま死んでしまう前に、せめてハイエナを封印してお前を普通の人間に戻して欲しいものだ」
「しかし、今この俺を封印する能力を使えば司はっ」
間違いなくそのまま死んでしまうだろう。
誰もがそう思い、一瞬その言葉を呑み込んだ。
「ならば尚更早い方がいい」
「司は死なせないっ、俺が守ると決めたんだっ。最初から最期まで俺が守るとっ!」
これ程までに感情を露わにした紀伊也は見た事がない。
父にたてつく紀伊也を、司は息を呑んで見守っていた。
自分の感情を剥き出しにして憤る紀伊也に、智成は一つ溜息をついた。
「何を守るというのだ? お前の守るべきタランチュラはもういなくなる。それが分からないのか?それに封印されればその事も忘れる」
「でも、司の事を忘れるなんて俺にはできないっ」
「その心配はないだろう。なぜなら司君との想い出はジュリエットとして活動して来たその時の仲間としてだけの美しい想い出だけが残るんだ。そうだね、司君」
智成の言葉一つ一つが、胸をえぐるように突き刺さり、俯きながら黙って聞いていた司は返事もできない。
「君の封印能力は大したものだよ。しかし恐ろしいものだな。人の記憶を操り、自分の意のままにできるとは・・・。本当に敵に廻したくはない。 ところで紀伊也が心配しているんだ。過去の記憶が全て白紙にならないかと、な。余りに有名になりすぎた君との過去がなくなってしまうというのは、単なる思い過ごしだと。司君との美しい想い出はそのまま残る。そうだね?」
まるで細い金串を背中に何本も突き立てられる拷問にでもあっているようだ。
「そうだね?」
もう一度智成が訊く。
「はい」
その拷問に耐え切れず、白状した囚人のように返事をしていた。
「司、お前・・・」
『別れたいのか?』
紀伊也の送って来た言葉に思わず顔を上げ、首を横に振ろうとして視線だけが宙を彷徨った。
別れたくはない
しかし、紀伊也を縛る事はできない
何も言えず、ただ黙って堪えながら紀伊也を見つめたが、不意に顔をそらせてしまった。
自分ではどうする事も出来ないでいた。
このまま封印すれば、智成の言う通り、ジュリエットとして活動して来た時の記憶のみが残り、司と過ごしたわずかな日々の出来事は全て封印され、紀伊也の新たな人生が待っているのだ。
そして、司は過去の人となる。
「死んでしまえば用はないのだよ紀伊也。自分の人生をもう一度見つめ直してみろ。お前には未来がある」
智成の言葉に亀裂が走った。
紀伊也は目の前にいる今にも消えて行く司を見ていた。
司は自分の足元が崩れ、暗く深い底のない穴に堕ちて行く感覚に襲われた。
13歳のあの日、ニューヨークで襲われた恐怖、あれに似ていたかもしれない。
しかし今は、恐怖ではなく、別の何かを感じていた。
まるで落雷にでもあったように、その場に打ちひしがれていた。
「用がないとは言い過ぎだな一条君。君が口にするべき言葉ではない筈だ。私を怒らせるのは賢明ではないな。タランチュラがいなくなれば、ハイエナを使う事もできるのだよ。つまり、指令を撤回する事もできる」
大きな厚い手が、司の細い肩にかかり、堕ちて行く穴から戻されたような気がした。
智成の司を責める非情な言葉に、亮太郎が立ち上がり、恐ろしい程までに蔑むような瞳を智成に向けた。
「そ、それは・・・っ」
Rの冷酷な眼差しに思わず息を呑んだ。
紀伊也でさえ驚きを隠しきれず、震える司の肩を抱く亮太郎に息を呑んで見つめた程だ。
「だが約束もある。それに、これには紀伊也君の将来も懸かっている。指令の撤回はしないが、約束は守ってもらう。指令は出した。明日、必ず100億の債務の半分の50億は返済してもらおう。これは経営者としての忠告だ。それから封印の件だが・・・」
そこで言葉を切ると、智成から紀伊也へと視線を向けた。
「紀伊也君の人生が懸かっている。彼の人生は彼自身に決めさせるべきだろう。これは親としての忠告だ。司、彼が納得したところで、指令を実行するといい。 紀伊也君、いいね、自分の命をどう生かすかは自分で決めなさい。あとは司に任せればいい」
「・・・はい」
「ただし、これには時間が限られている事を忘れるな。君にならそれが分かるだろう。 さ、司帰ろう。今日はばあやが夕食を作ってくれるそうだ」
そう言うと亮太郎は、振り向きもせず、足取りの覚束ない司を促して出て行った。
二人の後姿を見送った紀伊也は、亮太郎の言葉に何か救われた気になったが、同時に、司の心の中が何も視えなくなった喪失感を抱いていた。