第十五章・要求(三)
要求(三)
「なあ、司、お前、俺との事で何か悩み事でもある?」
ふと気になり、司の耳元から顔を上げると見下ろした。
目を反らせていた琥珀色の瞳が一瞬止まると、ゆっくりとしかも恐る恐るその視線を動かして紀伊也の視線とぶつかる。
「悩み?」
「うん」
紀伊也が肩を上げたので、背中に廻していた手が下へ滑り落ちる。
一瞬あの事を言おうか迷った。
しかし、紀伊也からは何も聞かされていない。もしかしたら紀伊也は自分の父親が考えている事を知らないのかもしれない。
もしそうだとしたら、他人の口から聞かされるのはどうだろう。余り好い気はしないだろう。
そう考えると、喉まで出かかっていた物を呑み込んで、下ろしていた手を再び紀伊也の首に廻した。
「あるとすれば、お前が優しすぎるところかな」
甘えたような声を出すと、その腕に力を込めて自分の唇を紀伊也の温かい唇に押し当てた。
今必要なものは、紀伊也のこの優しい温もりなのだ。紀伊也に愛撫されながら、彼に愛される悦びをこのまま感じていたかった。
いつかは、紀伊也と別れなければならない。 「返してくれ」と言われれば言われる程に、今は離したくはなかった。
強く抱き締めて離さない司を激しく感じながら、徐々に紀伊也の息も激しくなって行く。 愛しすぎてこのまま二人で行き着く所まで行って、果ててしまいたかった。
「ああっ・・・」
一瞬硬直させた司の体を抱え込みその唇を塞ぐと、紀伊也の唇から熱い息が激しく漏れる。
ゆっくり離すと、はぁっ はぁっ と喘ぐような息が少し苦しそうだ。
「大丈夫?」
司は片目を開けると、軽く睨みながら黙って頷いた。
体を離そうとする紀伊也の背に腕を廻し、強く抱き締めた。
「電話、鳴ってるから」
その言葉通り、電話の音が鳴り響いていた。
仕方なく腕を離すと紀伊也が自分から離れて行き、体を起こしてサイドテーブルの受話器を取った。
「もしもし・・・、いえ違います。ちょっと待ってください」
受話器を耳から離し、それを司に向ける。
「誰?」
「弘美ちゃん」
弘美? 何だってこんな夜更けに
時計を見れば12時に近い。
一瞬眉を潜めると受話器を受け取った。
「何?」
少し不機嫌そうに出た。
紀伊也との時間を邪魔され、気分を害したようだ。
しかし、次の言葉に息を呑むと、耳を疑った。
「誘拐?! ばあやがっ!?」
話を聞いているうちに、心臓の鼓動が徐々に早くなって行く。 しかし今はそんな事に構っている余裕はなかった。
「分かった、すぐ行くからっ」
受話器を紀伊也に押し付けると、ベッドから飛び降りてそのまま服を着た。
昼間、買い物がてら司に会いに行くと言って出て行ったきり戻って来ないというのだ。
供の者をつけると言ったが、一人で行くと言い張った為、たまには好きなようにさせようという事から、一人で行かせたのだが、やはり心配になって事務所に電話をかけ、司の所にいればそのまま連れて帰って来てもらおうと思ったのだが、いない事から何処かで買い物でもしているのだろうと思い、そのままにしていた。が、夕方になっても帰って来なかったので、司のマンションに再三に渡って電話をかけたが、司も紀伊也と食事に行っていなかった。 だからてっきり夕食を一緒に過ごしているのだろうと思い、再びそのままにしていたが、気が付くと11時を回っており、杉乃がいない事に皆が慌てた頃、その杉乃を誘拐したという脅迫電話が自宅に入ったのだ。
「どういう事っ!?」
居間へ飛び込むなり、中央のソファで険しい表情をした亮太郎を囲むように集まっていた皆の視線を浴びる。
「司くんっ」
司の姿を見るなり、母親が泣きそうな顔で駆け寄って来る。泣き崩れそうになるのを司に抱き止められた。
「お袋っ、何があった!? ・・親父っ!?」
震える継母の肩を抱きながらソファへ座らせると、亮太郎を見つめた。
「要求があった」
「要求? ・・・身代金か・・・、違うの?」
難しい顔をして黙って首を横に振る亮太郎に首を傾げる。
「司、お前一人で横浜のジョーカーに来い、という事だ」
「ジョーカー?」
思わず振り返ると、後ろに控えていた紀伊也と目が合う。
「知っているのか?」
「ああ、オレ達がデビューする少し前につぶれたライブハウスだ。でも何で?」
「さぁ、それが私にも分からん。身代金も何も要らないというのだ。とにかくお前一人で来いという事しか相手も言わない」
そこで口をつぐむと、司を真っ直ぐ見つめた。
亮太郎が次に何を言いたいかが瞬時にして司と紀伊也には解るが敢えてそれを口に出す事は出来ない。
「解った。とにかく要求通り従おう。明日オレ一人で行く」
「でも、・・・司くん・・・」
「そうしなけりゃ、ばあやは殺されちまう。・・オレなら大丈夫だよ。心配するな。とにかくヤツ等の要求がオレなら何とかなる。 ばあやは必ず助けるから、皆もオレに任せてくれ。今日はもう遅い、休んでくれ」
見渡しながら言うと、亮太郎は皆を下がらせた。司も継母を立ち上がらせると、肩を抱きながら居間を出て行った。
「紀伊也君」
居間には二人きりになった。
「はい」
と言う紀伊也の目が鋭く光る。
「最近、司の様子に変わったところはないかね?」
「え?」
意表をついた質問に思わず驚いた。
「変わった様子? 特におかしな事は起きてはいませんが。ただ、二日前にバイクに乗った男に切り付けられそうになった事はありましたが、服をかすった程度だったので、ただの通り魔かと」
「いやその事ではない。 ・・・何かその、思い悩んでいる節があるとか」
「え?」
「いや、何でもない。いいんだ、私の思い過ごしだ。 ところで、君にはかなりの縁談の話があると聞いているが」
「え?」
「まぁ、君がまだ考えられないというのなら、それも仕方のない事だ。こればかりは本人次第だしな。それに、これは我が家の問題ではないから私が口を出す事でもない」
少し苦笑しながら言うと、手を前で組み合わせてソファの背にもたれ、一息ついた。
「R?」
何が言いたいのかさっぱり理解できない紀伊也は戸惑いを隠せず、思わず口を開いた。
「君は自分の将来について考えた事はないのかね? 一条グループも一時の危機を乗り越えたし、次は君達の出番だろう。ハーバードまで出た君だ、その経歴を生かしてやろうとは考えた事はないのかね?」
ようやく何が言いたいかが解ったが、何も今この状況の中で話をする事でもないだろう。
しかし、Rが世間話的な話題を紀伊也に持ちかける事は珍しい事だ。公の場ではあっても、二人きりになった時にはまずない。
「ええ、まあ、父からその話は出ていますが、自分にはもう関係のない事ですから」
司と生きていくと決めた時からもう自分の未来はあり得なかった。
父には申し訳ないと思ったが、それも今更である。
7歳の時に能力者だと告げられ、自分が生き残る為にはタランチュラを死守し、指令に従う事だと冷たく突き放された。
それ以来、家族とも疎遠になっていた。
司と違うのは、ただ同じ屋根の下で、一応家族として一緒に暮らしていた事だった。
「関係なくはないだろう。君がその気になればいつだって戻れる」
「それは・・・?」
息を呑んで亮太郎に何か言いかけた時、居間の扉が開き、少し疲れた表情の司が入って来た。
母親を連れて寝室まで行ったが、泣き崩れる彼女を宥めるのに、少し手間がかかり、仕方なくほんの僅かな能力で彼女を眠らせたのだ。
「考えてみてくれたまえ」
そう亮太郎は紀伊也に言うと、入って来た司を座らせた。
「お前、一人で大丈夫か? とりあえずハイエナを背後に回らせるが」
「ああ、問題ない。ヤツ等が何者だろうが関係ない。とにかくばあやはオレが助ける。心配するな、明日の昼には必ずばあやを連れて帰るさ」
それだけ言うと立ち上がり、居間を出て2階の自分の部屋へ上がる。
紀伊也も黙ってそれに続いたが、居間を出る時、一瞬亮太郎に振り返った。
部屋へ入ると、司はサイドボードからブランデーのビンとグラスを二つ出し、それに注ぐとソファに座り、膝に肘をついて手を組み、何か考えるように額にその手を押し当てた。
向い側のソファに紀伊也も座ると、グラスを手に取って一口飲んで、そんな司をじっと見ていた。
Rは俺を封印したがっているのか? ・・・、何故?
意図している事がさっぱり解らない。
しかも突然に何を言い出すのだろうか。 まるで人の親のような話し方にもかなりの戸惑いがあった。
Rは今まで自分にとって、絶対的ないわば崇拝者のような存在だった。
しかし、司の事を自分にとって特別な存在だと知った時から、Rは司の父親なのだという事を意識しなかった訳ではなかった。
先程交わした亮太郎との会話が気になり、グラスを一人傾けていた。
「 ・・・何も感じねぇよ」
「え?」
しばらくの二人の沈黙を破るかのように司が呟いた。
「殺気が何もない・・・何なんだ? こんなの初めてだ。あいつら何者なんだ?」
顔を上げ、ちらっと紀伊也に視線を移すと、テーブルにあったグラスを取って一口飲んだ。そして、ソファの背にもたれてふぅーっと大きな息を一つ天井に向かって吐いた。
それを何気に見ていた紀伊也は次の瞬間ハッとなった。
「透視っ、したのかっ!?」
慌てて身を乗り出す。
今は司に能力を使わせる訳にはいかなかった。
司には使うなと言っておきながら、結局自分は亮太郎の言葉が気になって何もしていなかった事に気付くと唇を噛んだ。
「してないよ。今は倒れる訳にはいかないからな。ばあやを助けないと」
「でも・・・、ごめん、俺がいながら・・・」
「いいんだよ、ウチの事だ。本当ならお前には関係ない事だろ。連れて来たオレがいけなかったんだ。お前にまた余計な気を使わせちまった。ごめん」
「司・・・」
「でも、悪いけど今のオレにはお前が必要なんだよ。もう少し付き合ってくれよ。もしヤツ等が能力者ならオレもどうなるか分からない。情けないのは分かってる、でも、自信がない。どこまで能力が使えるかも分からないんだ。だから力を貸して欲しい、頼む」
「頭を上げろ、お前らしくない。何でもいいから全てを俺に任せろ」
「うん・・・ありがと・・・」
紀伊也の言葉がどれ程自分にとって心強いか。今はもうその言葉だけでも十分だった。