第十四章・選択(四)
選択(四)
2、3日もすれば歩けるようになると言ったビル・ウィリーの言葉通り、3日後に彼の診療所を出ると、紀伊也はニューヨークの自宅に戻り、静養がてら状況を伺った。
その間、キャロラインが紀伊也の自宅を行き来し、看護をしながら報告していた。
キャロラインの話によると、不思議な事に、ニューヨークでもロンドンでも爆発は起きなかったが、替わりにあの日の翌日、爆弾を体に巻きつけた男が二人、ニューヨークとロンドンで相次いで死体で見付かった。
死因は二人共、毒蜘蛛に噛まれ、即死だったという。
それと、ニューヨークにある国連本部前の車の中でも、ライフルを持った男が同じように死んでいた。
調べに寄れば、三人共「鷹の爪」の幹部である事が分かった。 結局、三人の死により、ニューヨークとロンドンの同時爆発テロは未遂に終わった。
そしてその数日後、ニューヨークにある高級ホテルの一室でも男が一人、青酸カリによる服毒自殺を図っていた。
その男は、「鷹の爪」のリーダーであるスミスと呼ばれた男だったので、テロ失敗による自殺であると、CIAとFBIは断定した。
結果、紀伊也とキャロラインが襲われた以外は何事もなく全てが終わったというのだ。
そのスミスが息を引き取った直後、苦痛に耐え兼ねた司はとうとう悲鳴を上げた。
頭を抱え、体中のあちこちを家中の家具にぶつけながら、どこにどうこの痛みをぶつけていいのか分からず、廊下に出ると頭を壁に叩き付けた。
それに追い討ちを掛けるように、左胸が締め付けられるように痛み出す。
「はぁ、はぁっ・・・っく・・・、何なんだよ・・・くぅっ・・・っ・・・」
奥歯がつぶれそうになる程に強く噛み締め、苦しみ悶えていた。
「司っ!?」
廊下の壁に自分の体と頭をぶつけながら、左胸を押さえて苦しんでいる姿を見つけた翔は、愕然となった。
細い体をくの字に折り曲げながら、勢いよく壁に叩きつけているのだ。
慌てて駆け寄ると、司を思い切り抱き締めたが、自分の腕の中で苦痛に耐えるように暴れ出そうとする司を押さえるのに必死だった。
誰かに強く抱き締められ、ふとその顔を見ると、亮が心配そうに自分を見ているのに気が付いた。
-もう苦しまなくていい、こっちへ来い
そう言っているようだった。
思わず翔の体を突き放すと、寝室へ転がり込んだ。
翔も何事かと後を追う。
「来ないでっ・・兄ちゃん、まだ来ないでっ! ・・・ゲホっ、ゲホっ・・・」
怯えたように翔に向かって叫ぶと、咽てベッドへ倒れこんだ。
激しく咽返る司の背を優しくさすったが、その口元に広がる赤い血に、翔は思わず顔をそむけた。
「亮兄ちゃん、まだ来ないで、まだっ・・・、まだ紀伊也と・・・紀伊也と一緒に居たいんだ・・・、もう少し、居たいから・・だから、まだ来ないでっ!」
翔を亮と勘違いしているのだろうか、それとも余りの苦しさに亮の幻でも見ているのだろうか。
「まだ・・・やりたい事があるんだ・・・、兄ちゃん・・はぁっ、はぁっ・・・、だから連れて行かないでっ・・」
意識が遠のきそうになるのを必死で堪えた。
ここで意識が失くなれば、そのまま亮に連れて行かれる、そう思った。
「司っ、しっかりしろっ」
「来るなっ」
苦しみ悶える司にどうしていいか分からず、翔は居間へ戻ると受話器を取った。
程なくしてユリアが飛び込むように駆け付け、激しく苦しむ司に用意した薬を飲ませたが、一時間経っても一向に治まる気配を見せない。
ユリアは決心したかのように翔に向くと、
「彼の所へ行って来るわ」
と言って出て行くと、一時間程で戻って来たが、その表情は沈痛な程思い悩んでいた。
「どうした? 薬はもらって来たんだろう」
翔に言われ、一本の注射器を差し出したが、その震える手にユリアを見つめるとユリアは黙って頷いたが、今にも泣き出しそうだ。
『これは・・・』
彼から差し出された物を見ると、一瞬顔がこわばった。
『そうじゃ、モルヒネじゃよ。あんたの調合した物が効かないとなると、これを使うしかないじゃろ。しかしアイツの心臓は相当弱っとる。これを使えば痛みは治まるだろうが、命の保障はない。それはあんたが一番よく知っているじゃろ』
「二つに一つか・・・。これを打って痛みを抑えても命の保障がない・・ か。それか、このまま痛みを堪えるか・・・、いずれにせよ、苦しい選択だな」
翔は壁に頭を打ち付けている司を見ながら言うと、拳を握り締めた。
「ユリア、君の判断は?」
「ビル・ウィリーの言う通りよ。今のツカサの心臓には負担が大きすぎる。命を落す可能性の方が高いわ。・・・、それに、キイヤに大量の輸血をしているのよっ。自分の治癒力だって・・、もうメチャクチャだわっ、あの子は一体何を考えているのっ!?」
やり場のない心配が、司を責めずにはいられない。
「じゃあ、どうすればいいんだっ!?」
翔もどう判断していいか分からない。
ただこの苦痛を早く取り去ってあげたい、今はそれしか考えられなかった。
はぁ、はぁ・・・・
どうやら頭の痛みが治まったようだ。
足を投げ出し、壁にもたれたままうなだれて肩で息をしていた。
「司」
ふと顔を上げると、翔がしゃがんで司の顔を覗き込むように見ている。
「翔兄さん・・・」
呟くと、再び視線を落して息を整えた。
「司、大丈夫か?」
翔の問いかけに微かに頷いたが、そのまま頭を上げようとせず、胸を鷲掴みにすると、歯を食いしばった。
左胸がこのまま握り潰されそうになる程に締め付けられて行く。
喉の奥からヒューヒューと鳴るような息が出る。目の前の空気を吸おうとしても上手く吸えない。喘ぐような呼吸を必死でしていた。
10分程でそれも治まると、今度は頭を棘のある鎖で締め上げられるような激しい頭痛に襲われる。
「うっ、あぁーーっっ・・・っ・・」
両手で力いっぱい頭を抱え、壁に床に叩き付けた。家具の角で傷つけたのだろうか、額からは血が滲み出て来ていた。
「今、楽にしてやるっ・・・ユリアっ」
暴れ出す司を抱き込みながら翔は、ユリアに視線を送ると、司の右腕を掴んで差し出して袖を捲り上げた。
「で、でも・・・」
「早くしろっ、もうこれ以上は・・・ツカサが可哀相だっ。ユリア、頼むっ」
翔の決心に、ユリアは恐る恐る近寄ると、その震える手で注射器を握った。
そしてもう片方の手で司の右腕を掴んだ。
「ツカサ・・・、これで楽になれるわ」
針が肌に刺さり、指に力を入れようとしたその時、何かに注射器が跳ね飛ばされ、翔とユリアは司の体を離すとそれを避けようとして仰け反った。
司の右手首から金色のチェーンが宙を舞っていた。
だが、そのチェーンはすぐに力尽きて、床にそのまま落ちた。
痛みは治まったのか、肩で息をしながら壁に寄り掛かっていたが、その内そのまま体が床に倒れていった。
「はぁ・・はぁ・・、やめろ・・、寄るな・・・来るな・・・」
司は翔に視線を送ったがその焦点は合わず、宙を睨むように見つめている。
「司、もういいだろ。これ以上苦しむな・・・」
「い、いやだ ・・・、まだ死にたくない・・・、まだ、死にたかねぇよ・・・これで生きられるなら、これくらい耐えてみせる・・・っくーーっ・・・」
言い終わるか終わらない内に再び左胸が締め付けられた。
-これが自分に与えられた試練なら耐えてみせる
そう自分に言い聞かせるように、司は床を這いながら再び自分の寝室へ入って行った。
あの部屋で紀伊也とキャロラインの会話を聞いた時、自分にはほんの僅かでも普通の幸せを望んだ事が間違いだと思った。
キャロラインの言葉が自分の胸をえぐった。
『女としての最高の幸せ』
それが、自分には決して出来る事はない。それは、自分で選んだ事だったが、ここへ来てそれを痛感せざるを得ない事に、あの時選択した自分の生きる道が、間違っていたのだろうかと、実感させられてしまったのだ。やはり、愛してはいけなかった。
しかし、決して自分の心を見せる事のなかった紀伊也が、許される事のない関係の中で、自分の事を愛していると言ってくれたのだ。それは、亮に言われたからではない事くらい冷静に考えれば解る事だ。
だからか、紀伊也と亮とに交わされた約束も、何となく納得させられるものもあった。
あの時はつい感情任せに言ってしまったが、目の前で紀伊也が撃たれた時、紀伊也だけは死なせたくはないとそう強く願っている自分がいた事にも気が付いた。
それは例え、自分がこのまま死んでしまってもいい、命と引き換えに紀伊也が助かるのであればそれでいい。
心底そう思った結果、取っていた行動だった。
本当は迷ったのだ。
兄を助けなければならないという使命感が支配していたが、スミスの言葉に嫌な予感が走った。
真一の元へすぐにでも行かなければならないし、情報が食い違っていた事も、ジェームスやカーターにも知らせなければならなかった。
自分が能力を使って、全てを始末しても良かったのだが、指令以外の余分な事をする事になる。それに今、能力を使えば自分を苦痛に追い込むだけで、命の保障すらない。
キャロラインは紀伊也に任せればいい。万が一キャロラインに何かあっても紀伊也とて能力者だ。 そう易々と命を落す事はない。
紀伊也を信用していない訳ではなかったが、しかし、自分の勘が選択させたのだった。
全てを能力で片付けてしまった。
再び交互に襲い掛かる苦痛に耐えながら、もう一度、生きて紀伊也に会える事だけを思っていた。
何度意識を失いそうになっただろうか。ようやく、襲い掛かる苦痛も静まってくれたようだ。
壁に寄り掛かって投げ出した足先に、視線が彷徨う。
はぁ、はぁ、という荒い息遣いも、やがて治まって来ると、今度は息をしているのかいないのか、呼吸の音さえも聴こえない程の静寂に包まれた。
部屋の前の廊下では、翔が一晩中起きて待っていた。
中から聴こえて来る呻き声や、激しく家具や壁に体を打ち付ける音に、耐え切れなく顔をそむけたが、その場から離れようとはしなかった。
司に襲い掛かる苦痛は、半分は自分が与えたものだと言ってもいい、それを思うとやり切れなかった。どうしてやる事も出来ないもどかしさに苛立ちさえ感じていた。
ふと静寂に包まれている事に気が付いた。
嵐が通り過ぎたのだろうか。
恐る恐るドアのノブに手を掛け、静かに開けた。
相当な勢いで体を打ちつけたのだろう、分厚い本の詰まった本棚からは、何冊もの本が散乱し、サイドボードの上にある写真は全て倒れている。 ベッドのシーツも引き裂かれ、布団も羽毛が飛び散っている。ベッド脇の木製のチェアも引っくり返り、デスクの椅子も窓際まで転がっていた。
そして司は、部屋の片隅の壁に足を投げ出して両腕をだらりと垂れ下げ、俯いて座っていた。
「司・・・?」
ゆっくりと近づき、傍にしゃがんで顔を覗き込んで息を呑んだ。
薄っすらと開いたその目は、疲れ切って視点が合っていない。
半分開いた口も渇ききって、そこから息をしているのかさえ定かではなかった。
「司」
もう一度、呼んだ。
すると、半分開いた口が一旦閉じ、ごくんと何かを飲み込むと、もう一度開いて、一つ大きく息を吸った。
そして、それをゆっくり吐きながら翔に視線を送ると、すぐに前を見据えて瞳を閉じ、天井を仰ぎ見るかのようにもう一度大きく息を吸って頭を壁につけて、ゆっくり吐きながら目を開けた。
「終わった・・・」
そう一言呟いて翔に視線を送ると、口の端を少し上げて笑った。
「やっと・・・、終わった。ふぅー、疲れた」
「頑張ったな、司」
翔も微笑むと司の頭に手を乗せて、そのまま自分の胸に抱き寄せた。
「頑張ったな、司。よく耐えたよ。よく頑張った」
「ふっ・・・、ガキじゃねぇんだ・・から・・」
苦笑したように微かに呟いてそのまま翔の胸の中で目を閉じると、意識が失くなったように深い眠りに落ちて行った。