第十四章・選択(二の2)
「司くん」
階段の手すりに手を掛けた時、呼び止められてふと足を止めて振り返った。
そこには、心配そうに自分を見つめる継母の瞳があった。
「今日はお夕飯食べて行ってね」
そう言うと、微笑んだ。
思わず、胸が締め付けられそうになって目を伏せると軽く頷いたが、再び目を開けたその瞼からは一粒の涙がこぼれ、慌てて顔をそむけると、階段を駆け上がり、自分の部屋の一つ手前の部屋に飛び込んだ。
「兄ちゃんっ、もう訳わかんないよっ。親父が何言ってんのかわかんないっ。兄ちゃんっ、何なんだよっ!? 何が何だか分かんねェよっ!」
泣き叫びながらデスクの椅子に座ると、突っ伏してしまった。
******
『兄ちゃん、何やってんの?』
部屋のドアを開けると、亮がデスクに座って何か書いている途中なのか、ペンを持っている手を止めてこちらを見た。
『ん? 日記』
『日記?』
ドアを閉めてベッドへ腰掛けると、亮は椅子を反転してこちらへ体を向けると、足を組んでペンを指先で廻し始めた。
ペンを持つとやる癖なのだ。
『日記って?』
もう一度訊くと、フッと笑った。
『まぁ、業務日誌みたいなもんかな。いろいろやってるとね、いつどこで何したかとか、分からなくなるだろ。だからとりあえず、その日にあった事を書いておいて、後で思い出せるようにしてるんだ。ま、感想なんかも書いたりしてるんだけどね』
『へえ、例えば今日、恭介と言い合いしました、とか?』
『はは・・・、まぁ、そうだな。司もつけてみれば? 後で読み返すと意外と面白いよ。今日友達とナンパして女だとバレて振られました、とかね』
『あのねぇ・・』
呆れて亮を見ると、笑い転げている。
『オレはナンパして外した事はないよ。自慢じゃないけど』
『あ、そ。 さすが、俺の妹だね。 はは・・・、今のセリフも日記に書いておこうかな』
『は?』
『今、面白かった事とか書き留めておくと、後で思い出せるだろ。それに、今の気持ちなんて今しか分からないし、同じ事に遭った時の感情なんて、また違って来たりするもんだから、自分自身の心の変化なんかも知る事が出来るんだ。毎日同じように生きているつもりでも、こうやって日記をつけてるとね、毎日が違って見えたりするんだ』
そう言うと、司を覗き込むように見つめた。
『司も自分の心にもっと素直になれたらな ・・・。その前に、自分の心を知る事だな』
一瞬、真剣な瞳をしたが、すぐにいつもの優しい笑顔で司を見つめた。
******
日記?
ふと顔を上げて思い出すと、デスクの引き出しを片っ端から開けて行く。
そして、革表紙のそれらしき物を見つけると、表紙をめくった。
!?
最初のページの日付を見て、思わず息を呑んだ。
11月15日
亮の亡くなった前日の日付だ。
そしてそれは、日記というよりはむしろ司に宛てた手紙のような内容だった。
『 司へ
これをいつか司が読む事を期待して書こうと思う。
俺は司ほどの能力の持ち主ではないが、どうやら予知能力が少しあるらしい事に気付いたよ。
特に司に関してはそれを強く感じる事が出来る。
例えば、もうすぐお前がこの部屋に入って来る、とかね。
笑えるかもしれないけど、お前が帰って来る時間も分かったよ。
不思議だな、こうして書いていると、今までの事が全て許せるんだ。
何故だかわかる?
何となく、俺はもうすぐこの世からいなくなる気がする。
多分、司がこれを読んでいる時は既に俺は死んでいるだろう。
そして司は今、俺に助けを求めているんじゃないのか?
お前の傍にずっといてやるって約束したのに、ごめん。
でも、運命には逆らえない。
それはお前自身が一番よく知っている筈だ。
でもどうだろう、運命は考え方一つで変わって来るものだと思う気もするんだ。
それは、司自身で決めればいい事だけれど。
ところで、俺が全てを許せると言ったのは、自分の運命の事だ。
俺は知っての通り、親父や兄貴を恨んで来た。
お前を人とも思わない扱いをするからだ。
同じ血が流れているというのにだ。
だから俺は司を守ると決めた。
でも、今こうして考えてみると、親父も兄貴もやはり自分の運命には逆らえなかったのではないかと思う。
だから 仕方のない事なのではなかったのだろうか。
司には苦しくて辛い思いをさせたが、それも俺達に与えられてしまった宿命なのだと。
司、お前がどう思うと勝手だが、苦しんでいるのはお前だけじゃないって事、分かって欲しい。
翔も俺も喧嘩ばかりしていたが、それは互いを信頼し合っての事だ。
俺の身勝手で翔にも辛い思いをさせている。
それは解って欲しい。
司、お前が辛い時に傍に居てあげる事が出来ないのには、本当に申し訳ないと思う。
でも、お前の事を一番理解してくれるヤツが、近くに居たんだ。
誰だと思う?
俺はお前の事を、紀伊也に頼んだよ。
俺が居なくなった後は、紀伊也を大切にしてくれ。
必ずお前の力になれると思う。
それから和矢は早く解放してあげる事だ。
あいつは、自分の人生を大切にしたがっている。
お前は自分自身を封印する事は出来ないから、仕方がないけど、自分自身、司自身を大切に生きて行って欲しい。
お前が自分自身の本当の幸せを見つけて、最期に笑う事が出来たら、迎えに行くよ。
司 いつまでも 愛している
亮 』
懐かしいクセのない亮の字、それを見ただけでも胸が詰まりそうになっていたのに、読み進めて行く内に、まるで亮がそこで話をしているかのように聴こえて来る。
最後には目が潤んで読めなくなって来ていた。
「兄ちゃん、・・・オレだって兄ちゃんの事忘れられない・・・、こんなにも愛している。兄ちゃん、会いたいよ。もうじき行くんだ、兄ちゃんのとこへ。今すぐにでも迎えに来て欲しいくらいだ・・・」
頭を抱え、ただ亮だけを想っていた。
どれくらい経っただろうか。 ドアがノックされ声が聞こえた。
「司、入るよ」
ハッとして顔を上げると、思わずそのページを破り慌ててポケットに突っ込んだ。
「な、何?」
振り返ると、入口で心配そうにこちらを見て紀伊也が立っていた。
「泣いて、いたのか?」
「いや、何でもない」
顔をそむけ、袖で涙を拭うと「何?」と顔をそむけたまま言った。
「ジェームスとアンソニーは、明日帰るそうだ」
「そう」
「司、俺も今日の夕食、一緒に取る事になったよ。珍しいな、Rが許すなんて。 ・・・、もしかして俺達の事、気付いたのかな」
紀伊也に言われ、思い出したように顔を上げた。
「ねぇ、紀伊也、兄ちゃんに何か言われた?」
「え?」
突然訊かれ、何の事だかさっぱり解らないという紀伊也に、やはり戸惑った。
「いや、何でもない。・・お前の事、お袋が誘ったんだろ? 何故かよく分からないけど、お袋はお前の事が好きらしいな」
話をそらして立ち上がると、手にしていた革表紙の日記を引き出しにしまった。
その夜の食卓は妙な静けさに包まれていた。 紀伊也としても初めての事ではなかったが、何かいつもと違う雰囲気を感じた。
特にそれは、亮太郎に感じていた。
初めてかもしれない。
亮太郎に対して、司の父親だという存在を感じたのは。
自分が司に対して特別な感情を抱いたせいなのか、でもそれにしては、今日の亮太郎はヤケに弱々しく見える。というよりは普通の父親に見えた。
「司くん、あなたがもし普通の女の子として育ってたらどうしてたかしらね?」
母親の言葉に思わず手を止めて、二人は顔を見合わせると、その後すぐ亮太郎の顔色を伺った。
こんな事を口にすれば、ただではおかない。が、亮太郎の表情はこわばるどころか、むしろ思い悩んでいるかのようにも見える。
二人は戸惑い、もう一度顔を見合わせると、再び亮太郎に視線を移した。
「西園寺さんの姫美子さんも、先月二人目を出産なさったのよ」
「え!? 姫美子が?」
驚いて二人は顔を見合わせると、今度は母親に視線を移す。
姫美子は司より二つ年下の従妹に当り、相当なわがままで、司にかなり入れ込んでいた。
姫美子の13歳の誕生パーティーに司が来なかったら死ぬとまで言い出して、わざわざその為だけにフランスから帰って来た事もあった。
その姫美子も今は28歳。大学を卒業してすぐ結婚し、24歳で一人目を出産していた。結婚したのは知っていたが、出産したのは知らなかった。後に聞いていたかもしれないが、司はそれどころではなかった。勿論、結婚式には忙しい合間を縫って出席はしたが。
「そうよ、二人目は女の子なんですって。 そう言えば、紀伊也さんのお兄様にもお子様がいらしたのよね」
「え、ええ。まあ」
突然振られ、一瞬慌てた紀伊也だったが、すぐいつもの平静を装った。
「上の兄には二人、下の兄には三人います」
「そう、あなたのご両親は幸せね。五人もお孫さんがいらっしゃるの・・・。ところで、あなたは? 結婚なさらないの?」
一瞬ドキッとして、司は紀伊也を見た。
30歳を過ぎれば自然と出て来る会話だったが、司にとっては特別な言葉のように思えた。
それは、秀也が結婚した時から強く感じていた。ナオも三ヵ月後には宏子と結婚するのだ。晃一は別としても、紀伊也にも家柄、見合いの話も来ているらしい事は確かだった。
「俺は・・・」
「お袋、やめろよ。紀伊也が困ってるだろ」
返事に戸惑う紀伊也に、司が半分怒ったように口を開いた。
今、紀伊也の口から結婚について語って欲しくなかった。司が出来ないのは二人共承知の上だ。
仮に紀伊也が一般論的な考えを言ったとしても、司には耐えられないだろう。
「そうね、ごめんなさいね。でも、もし良かったら、司くんなんかはどうかしら?」
ぶっ・・・
思わず、口に含んだワインを吹き出しそうになった。
「何言ってんだよ・・・」
「だって、あなたがこんな男っぽいんじゃ、誰も寄って来ないでしょ? だったら、それを解ってくれている紀伊也さんだったら、いいんじゃないのかしらって?」
「あのなぁ・・・」
「それに、亮くんも言ってたのよ。紀伊也さんなら司くんを幸せにしてくれるって。それに、私も司くんの子供の顔、見たいわ」
一瞬、間が開いたが、ガシャンっと、突然ワイングラスを乱暴に置くと、ナプキンを叩き付けて、司は立ち上がり、
「孫の顔なら兄貴がいるだろっ」
そう吐き捨てるように言うと、一瞬亮太郎を睨んで立ち去ろうとした。
「司っ!?」
紀伊也に呼び止められ、立ち止まり振り向くと、
「兄貴はオレが守る」
そう言い残して出て行ってしまった。
「私、何か気に障るような事、言ったかしら」
不安気に亮太郎を見るが、亮太郎は黙って首を横に振るだけだった。
紀伊也は、二人に軽く挨拶をしてすぐに司の後を追いかけたが、屋敷の中にいない事を確認すると、車を走らせた。
通りを出て、角を曲がった所で、見慣れた背中がヤケに寂しそうに歩いているのを見つけ、その横で止めた。
「乗れよ」
助手席のドアを開けて促すと、意外と素直に無言で乗った。そして、シートに深々ともたれると、一息吐いた。
「どうしたの?」
司の顔を覗き込むように尋ねたが、すぐに顔を逸らせてしまったので、仕方なくハンドルを握り直してアクセルを踏んだ。
「無神経なんだよ」
ぼそっと呟いた司に、え?と、一瞬視線を送ったが、再び前を向いた。
「司、さっきお前のお袋さんに言われて思い出したけど、亮さんから何か言われたかって、訊いたよな」
「え?」
前を向いたまま言う紀伊也を見つめ、ポケットに入れていた日記を握り締めた。
「約束させられたんだ。亮さんが亡くなる二日前に。突然、俺の所に来て・・・」
そこで言葉を切ると、思い出すように一瞬目を閉じた。
******
紀伊也が家に戻るのを見計らっていたかのように、自宅前に止めてあった車から亮が出て来た。
今日は、学校の帰りに図書館へ寄っていたのでいつもより遅くなったのだが、亮はそれ程待っていたという訳でもなかった事に少し驚いた。
それに、
『図書館、行って来たのか。相変わらず真面目なヤツだな』
そう言われた事にも驚いた。
誰にも言っていなかったからだ。
『何でだろう、司に関する事ならよく分かるよ』
そう言って、フッと寂しそうに笑った。
『亮さん?』
何となく亮がこのままどこかへ行ってしまいそうな気がした。それも、司には黙って。
『紀伊也、お前に頼みがあるんだ。 お前しかいないと思ってる。 あいつの事、司の事、見守ってやって欲しい』
『え?』
『司の事・・』
今にも泣き出しそうな程切ない亮の顔に一瞬戸惑った。
これから何があるというのだろうか。
『 ・・・、指令? 何か危険な指令でも出たんですか?』
それ以外に見当たらない。
司に何か命に係わる指令でも出たのだろうか。 それにしても、見守ってやって欲しいとはどういう事なのだろうか。
ただ、自分が犠牲になればいい。それでいい筈なのだが。
『フッ、相変わらず忠誠心が厚いんだな、紀伊也は。でも、それだけじゃ、お前の人生ってもんがなくなってしまう。自分の心をもっと知る事だ。いつか気付く筈だ、自分にとって何が大切なのかって。 気付いた時にはもう遅いって事にならないように、なるべく早く気付く事だな。・・・、それより紀伊也、司の事頼むよ』
『さっきから司の事頼むって、何なんですか? 司は亮さんの言う事しか聞かないんだから、俺に頼まれたって・・』
誰の言葉も耳に貸さない司に、バンドのメンバーもいささか呆れていた。 高校の方では和矢が何とか押さえてはいたものの、よく愚痴をこぼしていた。
しかし、その司も亮にだけは文句を言っても、素直に従っていたのだ。
『それもそうだが、・・俺はもうすぐ居なくなる』
え?
車に寄り掛かり、空を見上げて一息吐いた亮を思わず見つめた。
『そんな気がする』
『それって、どういう事?』
持っていた鞄を落しそうになった。
『紀伊也、お前には言っておくよ。タランチュラに暗殺計画の話が出ているんだ。今調査中だが、司が狙われているのは確かなんだ。だから頼むよ』
『Rからは? 何の指示も出ていない』
『その内出るさ。でもこの事は司には言うなよ。 あいつの事だ、もし知ったら、先走って何するか分からない』
『はい』
『紀伊也』
突然、真っ直ぐ見つめられ、ドキッとした。
******
亮の怖いくらい真剣な眼差しは、今でも忘れられない。
「約束してくれって、司を最期まで見守って欲しいって。司が幸せになれるように見守って欲しい、出来ればお前が司を幸せにしてくれって、そう言われたよ」
目を開けると司に視線を送ったが、すぐに前を向いてハンドルを握り直した。
「亮兄ちゃんが、紀伊也に? そんな事を・・・」
紀伊也の言葉に司は信じられない気持ちでいっぱいだった。
まるで、二人がこうなる事が分かっていたかのような紀伊也との約束、それに日記の内容。
急に亮にまで束縛されたように息苦しくなって来た。
それはまるであの時、サラエコフの気によって束縛され、翻弄された感覚にも似ていた。
はぁ、はぁ、と、喘ぐように息をし、額に滲み出る汗を拭った。
唯一信じていた亮は、自分の事を愛していると言いながらも紀伊也に自分の事を託したのだ。
しかも、紀伊也の望んでいる幸せを考えずにだ。
これでは亮が紀伊也を束縛しているようなものだ。
紀伊也は本当に、自分の事を愛してくれているのだろうか?
亮に言われたから、司だけを見て来たのではないだろうか。
「兄ちゃんに・・・言われたから・・? 兄ちゃんと約束したからオレの事を?」
息を呑んで紀伊也を見つめたが、ハンドルを握ったまま前を向いている。
「良かったよ、亮さんとの約束守れそうで・・・司?」
窓を向いたまま肩で息をしている司に気付いた。
「車、止めて・・・」
「気分、悪いのか?」
「いいからっ、車を止めろっ!」
慌ててブレーキを踏んで車を止めると、勢いよく助手席のドアが開かれ、転がるように司が外に出た。
「司っ!?」
慌てて紀伊也も外に出て司の傍に寄ろうとしたが、その瞳がそれ以上近寄るなと言っている。
「司?」
「良かったな・・・、兄ちゃんとの約束、守れてっ」
「司?」
紀伊也には司が何を言っているのかさっぱり解らない。 が、後ずさって行く司から送られて来た言葉に息を呑むと、走り去って行く司を茫然と見送った。
『紀伊也は、兄ちゃんに言われたから、オレの事を愛していると言ったんだ! オレの事を本気で愛している訳じゃないっ。自分に嘘をつくなっ! ・・オレは紀伊也を信じていたのに・・・、もう、いいっ!』