第十四章・選択(一)
それぞれの選択に、自分が選んだ事は間違いではなかっただろうか、そう誰もが悩む。その結果は・・。
第十四章・選択(一)
解ってはいた事だった。
慣れるまでは仕方がない。
亮の時も、秀也の時も最初はそうだったのだ。
全てを許してしまった時に襲われるこの胸の痛みは、自分で植えつけてしまったものなのだ。
何の感情にも流されず、冷酷な牙を剥くタランチュラとなる為に、そうするよう自分自身で選んだ試練だった。
自分の能力でそう自分を作ってしまったのだ。
しかし、亮から教えられた「自分の心」というものには、それすら勝つ事が出来なかった。
心が自分を支配していた。
それに気が付いた時、タランチュラというもう一人の自分を戒める為の苦痛だと思って耐えて来た。
しかし、それにしても今回ばかりは耐え難い。
体力も以前に比べ、衰えているからだろうか。それとも、相手が紀伊也だからだろうか。
このまま紀伊也の胸の中で息を引き取る事ができたら、そう一瞬でも考えてしまう事もあった。
亮と秀也を深い眠りに陥とすには、それ程の能力は要らない。
彼が眠りに入った時に、苦痛に耐えていた。
しかし、紀伊也を今の自分のこの体力で眠らせるには、相当の能力が必要だ。
仮に眠らせたところで、今度は更に激しい発作と頭痛に悩まされるだろう。
乱れた呼吸を整えるフリをして、ブランデーを一気に飲んだ。
はぁ・・はぁ・・っく・・
「司、どうした、苦しいのか?」
自分の腕の中で体を硬直させ、乱れた呼吸を整えている事に気が付いた。
先程までの司のしなやかに波打つ肢体が、余りにも愛しかった。
その指先から髪の毛の一本に至るまで、司の全てがこの上なく愛しく、誰からも傷つけられる事のないよう守るべきものとして、大切に包みたかった。
右腹に薄く赤味がかった小さな傷跡を見つけた時、胸が締め付けられ、思わずそこに口付けをしていた。
「司?」
体を起こそうとしたが、司の腕が紀伊也を押さえつけ、その胸に司が顔を埋めた。
はぁ、はぁ、と熱い息がかかる。
「大丈夫・・・このまま・・・。このまま居て、このまま・・・オレを離さないで・・・」
呟くように言う司が愛しく、その細い肩を強く抱き寄せると、その柔らかい髪を撫でた。
いつの間にか、乱れた呼吸も静かな寝息に変わっていた。
紀伊也も司の肌の温もりを感じながら、いつしか眠っていた。
二人の静かな寝息が、優しく暗がりに響いていた。
司と紀伊也が、自分達の真実を確かめ合ってから東京へ戻り、一緒に住み始めてから二週間が過ぎた。
紀伊也も自分のマンションはそのままに、司のマンションの空いている部屋へ自分のパソコンと衣服を持ち込むだけで、あとは何も要らなかった。
それに、一緒に住んでいる方が何かと都合が良い事にも気が付いた。 紀伊也は司の体調を気にするのには都合が良かったし、司も仕事をしていく上で、一々呼び出さなくても、声をかければすぐそこに居る事にやり易かった。
それにもう一つ、毎朝美味しいコーヒーを淹れてくれる、それが何よりだった。
「やっぱり、紀伊也の淹れるコーヒーは美味しいな」
フッと微笑んでカップに口を付ける。
「 ったく、たまには俺より先に起きて、淹れてくれてもいいんじゃないの?」
苦笑しながら司に視線を向けると、へへっと、照れたように首をすくませた。
「幸せを感じる」
ふと、司が呟いた。
ん?
カップから顔を上げ、紀伊也が司を見つめると、自分のカップから出る湯気を見つめている。
「初めてだ・・・、こんなにも安らぎを感じる朝を迎えるのは・・・。こういうのが、普通の幸せっていうのかな?」
そう言うと、視線を紀伊也に移した。
一瞬ドキッとした。
司の甘えたような優しい瞳を初めて見た。
しかしその眼差しは一瞬、とても遠くを見ているような気がした。「死」という見えない鎖が司を導こうとしているようにも思えた。
「紀伊也? 何か心配事でもある?」
「え?」
「何か、不安な目、してる」
琥珀色の瞳が不安気にこちらを見ていた。
「そんな事ないよ」
「そ、なら、いいけど」
安心したように息を付くと、再びカップに口を付けた。
*****
部屋の電話が鳴り、司がカップを置いて立ち上がった。
最近よく仕事の電話が入る。
司が音楽活動をしている時は生き生きしている事に、紀伊也も自分の事のように嬉しく感じ、司のサポートをする傍ら自らも楽しんでいた。
ただ、ジュリエットとして活動していた時の方が元気があったし、今の倍は楽しかった。
仲間と語らう事も、もう今はない。
それを思うと少し淋しい気もするが、それも仕方がない。
過去を追い求めても仕方のない事だった。
「ジェームス? ・・・ジェームス・スペンサー!? 久しぶりだなあっ!」
突然司が驚いたように大きな声を出したので、思わず新聞から顔を上げた。
何か英語で話をしているようだ。 紀伊也からしてみれば、ブリティッシュイングリッシュは独特の響きがある。
司は器用にも、アメリカンイングリッシュとを相手によって使い分けていた。
電話を切って戻って来る司は、少し複雑な表情をしている。
「司、ジェームスって、英国情報部員の?」
紀伊也にも聞き覚えのある名だ。
「え、ああ、オックスフォードの同級生なんだ」
どうやら表向きの仕事で来日しているので、会えないかという事らしい。
都内のホテルに宿泊しているので、そこで待ち合わせをしたという。
司は背後から紀伊也の肩に手を廻し、耳元に口を近づけると
「昔、口説かれそうになった事あるよ」
と、意地悪く囁いた。
「!?」
思わず飲んでいたコーヒーを吹き出しそうになった。
今の司ならともかく、あの頃の司は、今の数倍は気性は荒く激しく、誰をも寄せ付けないオーラがあったし、どこからどう見ても「男」にしか見えなかった。
「ジェームスって、ホモ?」
少し気味悪そうに言い返すと、司は「バカ」と苦笑し、頬に口付けをした。
-あいつは何をしに来たんだ
紀伊也から体を離しながら考えた。
大方の目的は分かってはいるが、それだけではなさそうだ。
バスローブを脱ぎ捨てると、着替えた。
その瞳には幾分、冷たく妖しい光が宿っていた。