第十三章・Ⅳ・絆(二の2)
あれからどれくらい経っただろうか。 紀伊也が目を覚ますと、テーブルの上の砕けたグラスとブランデーが、窓から射し込む月明かりに静かに照らされていた。
静けさに包まれた紀伊也は灯りもつけずに、その砕けたグラスを見つめていた。
あの時の和矢の言葉が今尚、信じられない。
あれは夢ではなかったのか
司に時間がない・・・
死ぬ? ・・・司が?
『司が死ぬ』
その短い言葉に紀伊也の中で何かが崩れようとしていた。
それは、4年半前、ステージの上で司の体から完全に力が抜けた時に、同じように紀伊也の中で何かが切れた、あの感覚に似ていた。
何故司が死んでしまうのか、何故? 何も考える事など出来なかった。
ただ、茫然と砕けたガラスの破片を見つめていた。
司はどうなったのだろう。
でも、・・今は・・・、まだ、生きている
そう言えば先程まで、この部屋に居た筈なのだが・・・
不意に不安になり、辺りを見渡すが居ない事に気付き、灯りをつけた。
が、やはりどこにも居なかった。
「司?」
呼びながら隣の寝室のドアを開けた。
ホッ・・・寝ているのか
ベッドにうつ伏せているその姿に、安心したようにドアを閉じかけたが、何となく様子がおかしい事に気付いて慌てて灯りをつけると息を呑んだ。
「司っ!?」
うつ伏せているその顔の周辺の白いシーツが赤く染まっていた。
手の先には薬が入っていたと思われるプラスチックの容器が転がっている。
近づいて司の顔を覗きこむと、苦痛に耐えていたのか、眉根はこわばり、微かに漏れる息遣いも乱れていた。
「司っ!?」
もう一度、両肩を揺すって呼びかけたが反応がない。
苦痛に歪みながらも深い眠りに陥ちていた。
******
薄っすらと夜が明けて来た。
とても静かな朝だった。
昨夜の出来事が本当に夢だと思わせる程、静かな朝だった。
体中に血が巡り、体温が上昇し、温かい。 気が付くと、毛布を首まですっぽり掛けている。
ふと頭の先に誰かの手を感じ、顔を動かすと、ベッドの端にうつ伏せていたその頭が上がり顔が見えると、紀伊也だった。
「司、おはよう」
「おはよう」
いつものように優しい笑顔を浮かべて司を見ていたが、司にとって今朝見る紀伊也は、いつものようでいて、そうではなかった。
紀伊也?
心の中で不思議そうに呼びかけてみた。
「もう少し寝ていろ。今、コーヒーを淹れてやる」
そう言うと、頭の先にあった右手で司の頭を一度撫でると、立ち上がって出て行った。
司は紀伊也を目で追っていたが、扉が閉じられた瞬間、昨夜の出来事を思い出すと、茫然と天井を見つめた。
-紀伊也は知ってしまった・・・でも、何も言わなかった
それ以上は何も考えられなかった。
ポットを廻しながら湯を注ぎ、コーヒーが落ちて来るのをじっと見つめていた。
『もうどうする事も出来ない。今は少しでも生きてもらえるようにするしかないな。とにかく安静にさせる事だ。極力能力は使わせないようにしないと、また発作と頭痛が起こる。それから体を冷やさない事だ。とにかく発作が起きないようにしなければならない。心臓に負担を掛けさせない事だ。それが、更に寿命を縮める事になる』
雅の言葉が、まるでテープレコーダーのアナウンスのように、淡々と流れて聴こえていた。
『カズヤを封印したのね・・・、心中する気はないと言ったの。あの子らしいわね。でも、ツカサもそれを望んでいたんでしょ。キイヤ、あなたはどうするの?』
ユリアの言葉も同じように淡々と流れていた。
『亡くしてからじゃ、おせェんだよっ』
和矢の言葉が胸に突き刺すように、耳の奥でリフレインしていた。
自分の中で、何をどう説明していいのか整理がつかないまま、一晩中、司の今にも消えてしまいそうな程青白く苦痛に歪んだその寝顔を見守るように見つめていた。
その柔らかい髪を撫でながら、キャロラインに言われた事も思い出していた。
『あの頃からずっと想い続けていたなんて・・・、彼女がいなくなってからでは遅いのよ』
胸に書かれた文字が刻印されたように痛い。
『・・って、誰?』
思わず自分の胸に手を当てた。
「TSUKASA」
呟くと再びポットを廻しながら湯を注いだ。
コーヒーを淹れている紀伊也の背中がヤケに遠くに見えた。
紀伊也が遠くに居るんじゃない、自分が遠くに行くようだった。
まるで、何かに後ろから引っ張られているように、紀伊也に近づこうとしても近づけないでいた。
『お前には時間がないんだっ・・・、一緒に居られる時間は、もうない』
和矢の言葉が耳について離れない。
「紀伊也」
思わず名を呼んだ。
一瞬、振り向いてくれるかどうか不安になった。
もしかしたらここに居るのは紀伊也ではなく、幻影かもしれない、そう思ってしまったのだ。
「コーヒー、入ったよ」
カップを二つ手に持って、振り向いたその顔に思わず笑みがこぼれた。
救われるような優しく温かい表情をしていた。
「サンキュ」
一つを受け取ると、カップを口に近づけ、ふうーっと、息を吹きかけながら、くるりと背を向けた。
その瞬間心臓が止まりそうになる程、ドキッとした。
肩に廻された紀伊也の手が、大きく感じたのだ。
「気分はどう?」
顔を覗きこまれ、思わず俯くと軽く頷いた。「そう、良かった」と紀伊也に促されソファに座ると、隣に腰を下ろしてコーヒーを飲む紀伊也を横目で見た。
「マフィンあるけど、食べる?」
再び頷くと、紀伊也は嬉しそうな笑みを浮かべ、テーブルにカップを置いて台所へ入って行った。
ずっと黙ったまま、二人でマフィンを食べながら、とても静かな時間が流れていた。
ゲホッ、ゲホッ・・・
飲み込もうとして思わず咽た。
「大丈夫かっ!?」
驚き慌てた紀伊也が、司の肩を抱きながら背中をさすった。
「大丈夫だよ、咽ただけなんだから。ったく、大げさだなぁ」
余りに真剣な表情で介抱しようとする紀伊也に半ば呆れる。
「でも・・」
「 ・・・、心配すんなって、今すぐ死ぬと決まった訳じゃない」
「当り前だっ!」
間髪入れずに怒鳴られ、思わず戸惑った。
「紀伊也?」
肩と背に手を置いたまま顔をそむけているが、唇を噛み締め、その手も微かに震えていた。
「 ・・・、今すぐ死んで、たまるかよ・・・っ」
電話の音に気が付いて、司はそっとその手からすり抜けた。
そして、受話器を取る前に一度振り向き、紀伊也を見つめると、
「心配するな。オレが死ぬ前に、お前も封印してやるよ。だから安心しろ」
そう宥めるように言うと、紀伊也に背を向けて受話器を取上げた。
「ああ・・、久しぶりっ・・・」
相手はロンドンの知り合いからだった。
プロデュースの依頼だ。
今の司には、音楽に従事している時が一番楽しい時なのかもしれない。話をしていて自然と表情が生き生きしてくる。
自分に架せられた運命の糸という「しがらみ」を考えなくてもいい。残された僅かな時間をどう生きるか考えなくてはならないという「束縛」をも忘れさせてくれていた。
5分程話しただろうか。 明後日の便でロンドン行きを約束して受話器を置いて振り返ると、先程までソファに居た筈の紀伊也の姿が見えない。
「あれ?」
ふと、その先に目をやると、居間の入口に肘をかけて、こちらを睨むように立っている。
「俺と和矢を一緒にするなっ」
そう吐き捨てるように言うと、怒ったようにぷいっと顔をそむけ、出て行ってしまった。
「紀伊也? 何だ、ありゃ」
首を傾げながら呟くと、ソファに座り直してタバコを抜くと火をつけた。
******
どこをどう帰ったのか、気が付くと夜が明け、自分の部屋のベッドの上で目が覚めた和矢は、体を起こして一度神経を集中させると、ホッとしたが、次の瞬間思わず苦笑してしまった。
「封印されたのは能力だけか ・・・、あのバカっ、俺に秘密を握らせておいたままでいいのかよ」
呟いて天井を見上げると、その目からは涙が溢れて来る。
「司・・、何とか生きてくれよな・・・、俺も自分の運命から目をそむけたりはしない。お前の分まで生きてやる」
両手の拳をぎゅっと握り締め、そう自分に誓った。