第十三章・Ⅱ告知(一の2)
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明け方、目が覚めると、どうやら熱が下がったようだった。
喉の渇きを覚え、体を起こすと、額から湿ったタオルが落ちて、瞬間それを手で受け止めた。
ん?
ふとサイドテーブルを見ると、水の入ったガラスの水差しと、グラスが置いてある。
グラスに水を注ぎ、それを飲むと、微かにレモンとはちみつの味がする。
紀伊也・・・
これだけ気を遣う人間は、自分の周りを見渡しても、紀伊也くらいしかいない。
そっと寝室のドアを開け居間に入ると、ソファに毛布を掛けて、やはり紀伊也が寝ていた。
少し疲れているのか
そう思わせるような寝顔だった。
晃一が呼び出したのか。 ったく、余計な事をする
しかし、紀伊也はまだニューヨークに居た筈だが・・・
突然、早朝の静けさを破るかのように、部屋の電話が鳴り、司は足早に電話の所へ行き、受話器を取上げた。
「 ・・・分かっている。これから行くところだった」
相手はRだった。
一つ溜息をついて、ちらっと紀伊也に視線を送ると、既に体を起こしてこちらを見ていた。
慌てて視線を戻すと背を向けた。
「体の具合はどうだ?」
指令を出される前に訊かれた。
え?
初めて訊かれた事に少し戸惑ってしまった。だが、それを打ち消すかのように口元をニッと上げた。途端に琥珀色の瞳が冷たさを増す。
「いつからオレの体を心配するようになった? 珍しい事もあるもんだぜ」
「・・・」
「次の指令は何だ? ・・・さっさとしろっ」
Rが何かをためらっているのが電話越しに伝わり、少し苛付いた。
「気が変わった。ここで受ける。次はどこへ行けばいい?」
「モスクワ。 Yを捕らえてFSBに引き渡す。それが指令だ」
「Yか。Mと同じだな」
以前、ミラノフに浴びた冷気を思い出す。
「ユリアを呼ぶか?」
「余計な事はするな。二度と同じ過ちはしない」
「そこにハイエナもいるんだろう? 協力させろ」
「余計な事をするなと言っているんだ。 それに、ヤツはここにはいない。オレ一人で十分だ」
「しかし、お前の体力も能力も限界に来ていると報告を受けているが」
「誰がそんな事を言っているか知らんが、いつからRはオレの事を心配するようになった? とにかく指令はRの名の下に命を懸けて実行する。これがオレに与えられた使命だろ。 Yを引き渡せばいいんだなっ。期限はいつだ?」
「・・・・」
「いつだと訊いている。早く言えっ」
「一週間以内だ」
「分かった。全てをRの名の下に懸けて・・・。 いいかっ、余計な手出しはするなよっ」
そう吐き捨てると、受話器を電話に叩き付けた。
どいつもこいつも、心配ばかりする
指令は確実に遂行しているのに
忌々しそうに髪をかき上げると、バスルームへ向かった。
-また、指令か・・・
司の後姿を見送りながら、紀伊也は溜息をつくと毛布をたたんで起き上がった。
濡れた髪をタオルで拭きながらバスルームから出て来ると、コーヒーの香りがする。
司は居間へ戻らず、自分の寝室へ向かうとクローゼットを開け着替えた。
髪を左右に振って、手ぐしで梳かしながら居間へ戻ると、紀伊也がカップにコーヒーを注いで持って現れた。
それを黙って受け取った司はソファへ腰を下ろすと、カップに口を付けた。
ふぅーと一息ついて、ソファにもたれて紀伊也を見ると、紀伊也は窓に寄り掛かりながらコーヒーを飲んでいた。
目が合ったが、互いに笑う気になれない。
「晃一もいつから近所のおせっかいばあさんになったんだ?」
嫌味っぽく言うと、目を伏せながら再びカップに口を付ける。
「そういう言い方はないだろ。 晃一も心配して来てくれたんだ。それに、俺達は仲間だ」
相変わらず静かな物言いだったが、何故か突き刺さるようだ。
「仲間、か・・・。お前がそんな事言うなんてな ・・・、変わったな、紀伊也」
苦笑するような眼差しを紀伊也に向けた。
他人になど興味はない。
誰が何をしようと勝手だと、周りを寄せ付けなかった紀伊也だった。
バンドを組んだ時も、司に言われたから入っただけであって、メンバーの事など全く関心を寄せなかった。
それは、デビューしてからも同じだった。
何に対しても、いつも冷静沈着でいられる紀伊也に苛付く事もあったが、それが返って5人の調和を保っていた。
「司、お前、俺の事、誤解しているんじゃないかと思って」
カップをサイドボードの上に置くと、紀伊也は切り出した。
「何の事だ?」
冷めた口調で返すと、再びコーヒーを飲んだ。
「俺は並木に何の恨みも持ってはいない。むしろお前の為なら結果どうあれ、あいつはお前に必要な存在だと思っていた。あいつのお陰でお前が立ち直ってくれたんだ。あいつには感謝したいくらいだ。それに、あいつにはお前の傍にいて欲しかった・・・」
「ならば、何故、殺った?」
黙って聞いていた司は、カップから顔を上げると、恐ろしい程静かに言った。
「俺は何もしていない。指令が出ていたなんて知らなかった。もし知っていたら、和矢を止めていたさ。それに、俺は翔の指令は受けられない。お前かRじゃなきゃ」
「とぼけるなっ! Rが翔を通じて出した指令だったんだっ。 現に並木は飛び出して来た犬を避けようとして事故で死んだんだぞっ!」
「俺の使令能力は失くなったんだ」
すかさず応えた紀伊也の言葉に、司は一瞬息を呑んだ。
「失われたんだよ、司。俺にはもう犬は操れない。お前に全ての気を送った時、失われたんだ。封印能力だけじゃない、使令能力も失くなったんだ」
え? ・・・
思わず絶句した司は、叫んだ時に乱暴に置いたカップが横倒しになり、テーブルの上に流れて行くコーヒーを見つめた。
「ハイエナの使令能力が失われた? ・・・そんな馬鹿な・・・、じゃあ、あれは・・・?」
再び顔を上げ、紀伊也を見つめた。
「あれは偶然の事故だ」
紀伊也も再び、冷静さを取り戻していた。
しかし、考えるのも恐ろしいくらいだ。
「偶然にしては、出来過ぎている・・・」
一瞬考え込むように言葉を切った司は、紀伊也と目が合い、まさかと息を呑むと、紀伊也は黙って頷いた。
「あれも、ヤツの・・サラエコフの能力に操られたオレの運命の一部、なのか・・・?」
「考えたくはないけど、そうとしか考えられない。 俺とお前を引き離し、お前を再び独りにし、せっかく手に入れた新しい世界からタランチュラの道に引き摺り戻し、その板挟みとなって苦しんでいく様を望んでいるとしか思えない。お前がタランチュラとして死んで行く事を望んでいるなんて ・・・思いたくもないっ!」
最後に紀伊也は叫んでいた。
二人の自分を持っている司が、どんどん壊れていくような気がした。
光月司として生きる事も、タランチュラとして生きる事も、この二つの人格が交錯し、ぶつかり合い、互いを破壊し合っているようにしか見えなかった。
「オレの運命がヤツの手の内にあると言うのか? そんな馬鹿な事があるか ・・・。 もし、そうだとしたら 一体お前は何なんだ? お前もオレの運命の一部に操られ、オレの破滅を望んでいる者の一人なのか?」
もう司も、自分で何を言っているのか理解出来ない。
自分が何の為に生きているかなんて、どうでもいい。
本当にサラエコフの能力が自分の運命を操っているのだろうか。いや、本当はそうではなく、単に自分の運命が宿命によってそうなってしまったのではないか。
運命と宿命、そして自分に架せられた使命、それらが同時に渦巻きながら司を襲う。
「違うっ。だから俺はお前の傍に来たんだ。お前が司である為に。お前は自分が司として生きて行くって、そう亮さんと約束したんだろっ!? 与えられた使命のためでなく、司として自分で探して選んだ道を生きて行くって、約束したんじゃないのかっ!? 司っ」
紀伊也も必死で、理性と自我を保とうとしていた。
ここで司を見放せば、それこそヤツの思うツボだ。
運命の糸がマリオネットのように操られているのであれば、それに逆らい、糸を断ち切って歩けばいい。
それだけの事だ。
亮との約束
紀伊也の言葉に、一つの葛藤が生まれた。
しかしそれを考える前に、今は、やらなければならない事がある。
「黙れっ。ヤツに操られているのかどうか知らんが、オレは光月司である前に、タランチュラだ。能力者に生まれて来た以上、それに逆らう事はできないっ。 もう 沢山だっ!」
司は叫び吐き捨てると、上着を引っ掴んで、部屋を飛び出して行った。
後に残された紀伊也は、がっくり肩を落とすと、司の出て行った扉を見つめた。
「亮さん、あんたとの約束を果すには、俺はどうしたらいいんだ・・・」