第十三章・Ⅰ指令(三)
指令 (三)
「しくじっただと?」
Rの静かな口調が胸に突き刺さる。
傍らには翔もいた。
「失敗は許されない筈だがな。しかも、ハヤブサとハイエナまでいた」
二人は司の後ろに控えていた。
詳細は既に報告済みだった。
今は、口出しをする事は許されない。
「何か言う事はないのか?」
静かな物言いだが、威圧的に響くその声は、まるで鉛の玉を上から押し付けられているようだ。
「言い訳はしない。早く処分しろ」
吐き捨てるように言うと、顔を背けた。
あの時、何故自分が動けなかったのか、今だに解らない。
並木の傍を離れる事が出来なかった。
指令は絶対の筈だ。 それに、逃した獲物を再び目の前にしての事だった。
自分でも戸惑っていた。
「タランチュラの能力も限界だったんだ。まだ完全じゃない、だからR、今回の処分はっ・・」
堪り兼ねて、和矢が一歩前に出た。
それを、Rの視線が制す。
調教師に睨まれた飼い犬のように、和矢はそれ以上何も言えなくなってしまった。
「R、あの状況では無理だった。 俺達3人の能力は半減しているし、特に司は、体力の消耗が普通ではなかった。 能力に体力がついていかない。俺のせいだ」
紀伊也も背後から司を庇うように言う。
「黙れっ、今回の事はオレの責任だ。早く処分しろっR」
司も苛立っていた。
指令を無視するなど、今の一度と考えられない事だった。
秀也と居た時も、亮と居ても、指令は優先させて来た。なのに何故、今回は動く事が出来なかったのか、自分自身が解らない。
唇を噛み締め、拳を握り締めた。
「まぁ、いい。 今回は二人に免じて許す、が 解っているとは思うが、お前は、光月司である前に、タランチュラだ」
「解っているっ。今夜中にカタをつける。Rの名の下に懸けて、今夜、殺る」
苛立った冷酷な視線をRに投げ付けると、部屋を出て行った。
司の後姿を見送りながら、Rは翔に囁いた。
「あの男は危険だな」
翔は頷くと、司の後について出て行こうとした和矢を呼び止めた。
紀伊也は一瞬立ち止まったが、すぐに司の後を追って、部屋を出て行った。
「司っ」
自分の部屋へ入ろうと扉を開けたところで、紀伊也に呼び止められた。
「何も言うなっ」
紀伊也の言いたい事は解る。
何故あの時、呼びかけに応じなかったのか、それを訊きたいのだ。
騒ぎに紛れて、結局サソリは逃がしてしまった。
爆発の後、紀伊也と和矢も司の姿を見失ってしまったのだ。
万が一の為に、落ち合う場所を決めてはいたが、時間になっても司は現れなかった。
並木がパリの病院へ移されたとの報道と同時に、帰国して来たのである。
部屋へ入るなり、白いピアノに拳を叩き付けた。
「司、あいつの事、・・・ 好きなのか?」
紀伊也の意外な問いかけに、顔を上げた。
「・・・分からない」
それしか答えようがなかった。
はっきりと、並木の事を愛しているのか、自信はなかった。
ただ、並木の存在は大切だったし、傍に居て欲しかった。
「あいつは、亮さんじゃないんだぞ」
「分かっている」
「あいつに亮さんを重ねても、お前の亮さんは、もう戻って来ない」
「分かっているっ、けど、オレにとって亮は全てだったんだっ。兄ちゃんのいない世界なんて在り得ない・・・っ。 亮のいない世界なんて、在り得ないっ・・・」
思わず叫んでいた。
これだけは、はっきりしていた事だった。
自分にとって、亮という存在は大きすぎた。
タランチュラという能力者として生きる上での、唯一安らぐ場所だった。
光月司に戻れる時だった。
それを知ってしまった以上、亮は自分には、なくてはならないものとなっていた。
「でも、並木は・・・」
「分かっているっ。並木がただ亮に似ているだけだって事も。けど、似すぎてるんだよ。顔だけじゃないんだ ・・・、唯一 オレを解放してくれる ・・・、お前に何が分かるっ!? 紀伊也・・・放っておいてくれ ・・・、今回の事はオレの責任だ。私情を挟んだオレの責任だ。 頼むから一人にしてくれっ!」
ピアノの上に拳を押し付け、小刻みに震える司の肩を見つめると、何も言い返す事が出来なかった。
「分かったよ ・・・ けど、これだけは言わせてくれ。・・もうこれ以上自分を苦しめるな。何かあったら呼べよ。下に居る」
それだけ言うと、紀伊也は司一人を残し、部屋を出て行った。
あの時、並木の震える肩を抱き締めた時、亮を離したくないと思った。
それだけは、はっきりしていた。
ニューヨークで亮と別れた時のあの悲痛な叫びが、今でも耳に焼き付いて離れない。
『タランチュラである前に、お前は司だ。一人の女だ』
何度、このセリフを言われただろう。
その度に胸が締め付けられた。
そして、どうする事もできない自分の運命を呪うしかなかった。
******
その夜、司は一人、自分の真っ白なピアノを奏でていた。
ショパン『軍隊』
流れるように踊る指が激しさを増していく。
その額からは、細かい汗が滲み出ていた。
今、彼の手の平の上で、彼を見つめた。
「さて、次は誰を殺るか?」
そう彼は話しかけて来る。
静かに黙ってその巨大な尾を持ち上げ、威嚇してみる。
「威勢のいいことだ」
通常の倍以上はある、巨大な大サソリを手の平に乗せてほくそ笑む彼を、冷ややかに見つめた。
ほぉ・・・
彼の顔が近づいて来る。
階下の居間で、そのピアノの旋律を聴いていた紀伊也と翔は、固唾を呑んで目を合わせた。
もうすぐだった。
司の眼が妖しく光るのと同時にその巨大な尾が振り下ろされ、目にも止まらぬ速さで、彼の喉を一撃した。
彼は声も上げる事ができず、その場に倒れると、そのまま動かなくなった。
大サソリはゆっくり彼の手の中から出ると、何処へともなく消えて行った。
突然、曲の途中で、その冷ややかな旋律が止んだ。
不思議に思い、顔を見合わせてしばらく耳を澄ましていたが、恐ろしい程に静かだ。
二人は同時にソファから立ち上がると、慌てて司の部屋へと走った。
部屋の扉を開け、中を見た二人は愕然と立ち尽くしてしまった。
白いピアノの上には、赤い血が広がり、それが滴り落ちている。
その床には、口から血を流した司が倒れていた。