第十二章・解散(八の2)
どれ程の時が経ったのだろうか。
柔らかく温かい手の温もりで、目が覚めた。
とても懐かしい優しい手だ。
「ばあや・・・」
薄暗い灯りの中で、顔を見なくても分かる。
その感触は杉乃の他になかった。
翔に乞われ、二つ返事ですぐにフランスへ飛んだ。
実際、司のそのやつれた寝顔を見ると、胸が締め付けられ、思わず涙がこぼれた。
日本でもジュリエット解散の話題は、騒然たるものだった。
FAXが流れた直後に起こった司の事故だ。
メンバー全員口を閉ざし、紀伊也はすぐにニューヨークへ戻ってしまい、司もすぐに、行方知れずとなってしまったのだ。
各ワイドショーでは、必ずと言っていい程、その話題に触れていたし、週刊誌も、ある事ない事書き立てていた。
完全な情報がないまま各誌とも販売部数を伸ばしていた。
「お嬢様、何かお食べになりますか?」
優しく気遣う声に、言葉を詰まらせながら首を横に振る。
「でも、何かお口にお入れ下さいまし。でないと杉乃も何も食べられません」
杉乃らしい気遣いだった。
杉乃は杉乃で、自分らしく振舞うのが、何より司の為だと思っていた。
恐らく杉乃は、本当に何も食べていないのだろう。
この老婦人は、口先だけでは決して物事を言わない
頑固と言ってもいい程、何事に対しても毅然としていた。 それだけに、光月家の信用も厚かった。
事、司は杉乃だけには頭が上がらない。
父に逆らう事はしても、杉乃だけには素直に従っていた。
母の存在がなかったせいもあるが、杉乃も光月家の他の子供達の面倒を見てはいたが、司には特別な思い入れがあるのだろう。 目の中に入れても痛くない程、我が子同然に可愛がっていた。
それは、司の亡き産みの母の願いでもあった。
然るに、亮太郎の前でも、司の事を『お嬢様』と、平然と呼んでいた。
「じゃあ、スープでも・・・」
司はそれだけ言うのがやっとだった。
杉乃と翔が一緒に入って来た時も、一人で体を起こすのが辛い程に、体力が落ちていた。
翔に支えられて体を起こし、スプーンを握ろうとしたその手を見た時、包帯が巻かれているのに気が付いた。
窓ガラスを割った時に切ったのだろうか、しかし痛みは何も感じなかった。
「司、ばあやが作ってくれたんだ。味わって飲めよ」
翔に言われて顔を上げると、杉乃が優しく微笑んでいる。
少し震える手で、スープを口に運んだ。
久しぶりに味わうスープだ。
風邪をひいて寝込み、食欲のない時によく作ってくれた、野菜のたくさん入ったスープは、見た目にも元気が出て来そうだと言いながら飲んでいたものだ。
不思議と体調が良くなって行くのが分かった事から『魔法のスープ』と、名付けていた。
一口飲んで、スプーンを置いてしまった。
「どうした?」
「ばあや、ありがとう・・・でも、ごめん・・・もう、放っておいてくれないか」
俯いて顔を背けた司に、翔もどうしていいか分からない。
ばあやまで、拒絶するとは・・・。
「お嬢様、それは構いませんが、もう一度、おっしゃって下さいまし。今度は、ばあやの目を見て、おっしゃって下さいまし」
包帯の巻かれた右手を取って言う杉乃を、見上げた。
杉乃と目が合った時、思わず司は杉乃の胸の中で泣き崩れた。
ただ子供のように声を上げて泣く司を、杉乃は優しく抱き寄せ、その細い肩と背中をさすっていた。
******
それから一週間が過ぎ、三度の食事にも手を付けるようになって、敷地の庭も歩き回れるようになったが、自分からは何一つ話そうとはしなかった。
うっかり杉乃が秀也の事を訊ねた時には、発作を起こし、その後三日程、飲まず食わずで、寝込んでしまった。
何か考えるような事をすれば、塞ぎ込んで食も進まず寝込んでしまう、という事の繰り返しだった。
翔もリヨンへ戻らねばならなくなった時、交替でユリアが司を看ていた。
杉乃の介護もあり、3ヶ月程でようやく笑顔を見せるようになっていた。
翔も時間の許す限り、ニースで過ごすようにしていた。
「司、今度の亮の命日は、日本に戻るか? それとも、ここで過ごすか?」
庭のベンチに腰を下ろし、バラを眺めている司の隣に座った。
「命日? ・・・そっか、兄ちゃんは、死んだんだよな・・・」
少し微笑ましそうに、バラを見ながら呟いた。が急に、寂しそうな目をすると、
「ここに居るよ。あのバラがとても寂しそうだから、オレがここに居てあげる」
そう言って、空を見上げた。
「ねぇ翔兄さん、オレがもし亮兄ちゃんの処に、行ってたら、どうした?」
翔の方を見もせず、空を見上げたまま言う。
翔は、司がまだそんな事を考えているのかと思うと、胸が締め付けられる程に切なくなった。
「お前とこうしてあのバラを見る事もできないだろうし、お前とこうして話をする事もないだろうな」
目の前に咲く小さな赤いバラを見つめた。
翔も、赤いバラが好きだった。
それも、小さな赤いバラだ。
可憐な小さな花が、華やかに背伸びをして咲いているように感じていた。
「オレと・・・?」
翔の意外な答えに、思わず見つめた。
こうして一緒に、バラを見る事もないだろうし、話す事もない
それは今、生きているから、こうして一緒にバラを見る事もできるし、話をする事もできるという事なのだ。
司は、それに気が付いた。
生きているから、何かがあるのだ
亮の処へ行くという事は、何もなくなるという事なのだ
そう言えば以前、そんなようなフレーズの歌を、作ったような気がする。
『今、ここに居るから 感じる事ができる 世界は俺の為にある』
デビューして2年目くらいに、作った歌だったか・・
人気の頂点に達し、バッシングも受けた歌だったが、そんな事は関係ない。
感じたままに書いた詞だ。
亮の言っていた『感じたままに生きてみろ』の、意味が何となく分かってきたような気がした。
「兄さん」
突然、パッと、陽射しが入って来たように、明るく軽やかな表情をした司に、翔は目を見張った。
それは、亮の墓の前で、見せたあの笑顔だった。
「オレ、もう一度 やってみるよ。亮兄ちゃんとの約束、まだ何もしてないよ。・・その前に、並木との約束もあったんだ」
思い出したように言うと、立ち上がって両手を空に伸ばした。
眩しい空だった
太陽の光がこんなにも暖かく、まばゆく包み込んでくれるとは思ってもみなかった。
生きているからこそ、感じるのだと思った。
「翔兄さん、ありがとう。 生きてて良かったよ」
翔を見下ろしたその瞳には、哀しみや絶望の色は、もはやなかった。
それより、希望という光すら、覗かせているように見える。
「司、今度は俺が見守ってやる。亮との約束しっかり果せよ」
「うん」
大きく頷くと、一つ大きな息を吸った。
その時、一瞬強い風が吹き、大きな赤いバラが一つ折れて、その花びらが舞った。
それを何処かで誰かが笑って見ているようだったのを、二人は気付かなかった。
第十二章・終