第十二章・解散(七)
解散(七)
「また、紀伊也か・・・」
気が付いた時、気力を使い果たし、ぐったりと椅子に寄り掛かっている紀伊也と目が合い、思わず苦笑した。
「死に掛かっている獲物を始末するのが、お前の役目なのに、二度もお前に助けられるとはな・・・皮肉なもんだ。ハイエナ・・・」
冷たく微笑を浮かべる司は、司であって、司ではないようだ。
が、今の紀伊也にはそれを見極める力もなく ただ同じような微笑を返すだけだった。
二人共に今は何も考えられなかった。
ただ生きて、ここに居るだけ、なのかもしれない。
それだけの事でしかないという気にさえなる。
そんな空気が二人を包んでいた。
雅と共に入って来た三人は、司と紀伊也の異常なまでの静けさに、思わず息を呑んだ。
そこには何もない静寂だけしかなかった。
「紀伊也?」
和矢が声をかけたが、こちらを見たその冷めた眼差しが、今までとは違う『虚無』な瞳である事に気付き、まさか紀伊也までもが? と、一瞬疑わざるを得なかった。
それは、ユリアと翔にも感じた事だった。
先程、ここへ来る前に、三人から事の次第を聞かされた雅は、これが『能力』によるものだと到底信じる事などできなかったが、もし、司がそれに侵されているのだとしたら、全てが説明つくようだとも思い始めていた。
一番近くに居た紀伊也になら、それが理解できるだろう。
「全員集合って、ワケか」
皮肉っぽく笑うと、司は体を起こして、皆を見渡した。
冷めた琥珀色の瞳は、何の感情もない虚無な眼差しをしている。
見るもの全てを拒絶していた。
「司、サラエコフの事なんだが・・」
冷ややかな瞳の二人に、些か恐縮してしまった皆の沈黙を破るかのように、翔が口を開いた。
サラエコフをあの時取り逃がしたのは、自分の責任でもあった。
まさかその代償が、こんなにも恐ろしい結果を招くとは、思ってもみなかっただけに、翔は司に申し訳なく思っていた。
「サラエコフ・・・、ヤツがどうかしたのか?」
一瞬、眉根をひそめた司だった。
最初に自宅で、電話を受け取った時の身震いした感覚が甦る。
タランチュラの毒牙にかかった筈の彼の声を聞いた時、自分がその牙を剥けられたと思った程だ。しかし、そんな事より後に起きた事の方が大きく、サラエコフの事などすっかり忘れていた。それに、ヤツは死んだ筈だった。
「翔にそいつの名前を聞いた時、思い当たる節があって、調べたんだ。ヤツの捨て身の能力ってやつをね」
和矢が代わった。
司が銃弾に倒れ、和矢が覚醒しても、何の関心も示さなかった司に不審を抱き、様子を伺っていたが、余りにも全てに対して、無防備で無気力で無関心過ぎていた。
本当にこれが、かつて自分が知っていた司だったのだろうか?
以前の司であれば、まずまともに撃たれるような事はしない。
それに、あんな事件があったとすれば、常に警戒し、和矢と紀伊也を使ってでも、すぐに調べさせ、息の根を止めている筈だ。
竹宮に事件当時のビデオを見せてもらった時、思わず目を疑ってしまった。
まるで自分から弾に当たりに行っているようなものだったのだ。
それに、司の右手首は完全に体から離れていた。
しかも、送りつけられた品物にも、さして共通点はないし、意味不明なものが多い。
最後に送られたマリア像には、何の殺気も感じなかった。
紀伊也に当時の事を聞いても、司に目立った変化は見られなかったと言っていたが、ただ何となく疲れていたようだった事は、確かだったという。
ユリアにも話を聞いたが、その当時、特に脳波の乱れもなく、順調だったが、少し前にミラノフと対した事を聞き、その名前に聞き覚えがあったので、すぐ翔に問い合わせをしたところ、ミラノフは処刑され、その兄であるサラエコフが、突然司の前に姿を現し、例の脳波撹乱で、司に復讐しようとしていた事が分かったのだ。
それは、失敗に終わったらしいが、何かひっかかるものを感じて、翔の協力を得て、彼の持つ能力について調査した結果、とんでもない事が分かったのだ。
「お前の一番弱い所に付け込んで、それを操るように、日常の生活を壊して行くんだ。心理誘導とでも言うんだろうか。ヤツはサイコキラーだったんだ」
「サイコキラー? ・・ヤツが?」
それがどうしたというのだ。
たとえそうだとしても、自分が精神破壊された訳ではないし、そう易々と能力に侵される事はない。
それに、現に自分は生きている。
サラエコフの狙いは、司を殺したいだけな筈なのだ。
「ヤツの能力を浴びた時の、感触は覚えているか?」
「ああ、忘れらんないよ。 頭の中を鎖で締め付けられたみたいなあの痛みは普通じゃ考えられない」
司は、今までに味わった事のない、激しい苦痛を思い出し、一瞬屈辱にも似た、嫌悪感を抱いた。
「最後に浴びた時は?」
「最後?」
「俺が居た時」
翔が言った。
あの時の司の悲鳴が、忘れられない。
「あの時・・・? 何か、脳に亀裂が入ったような・・・、感じだった、かな」
思い出すと、こめかみを押さえた。
が、次に顔を上げた時の司の瞳には、先程まであった筈の冷たさはどこにもなく、不思議な程落ち着いた瞳をしていた。落ち着いたというよりは、気が抜けたとでもいうようなぼんやりとした色だった。
「やっぱり・・・」
諦めたように和矢は呟くと、翔と顔を見合わせた。
「それが、司とどう関係があるんだ?」
冷たく刺すような声は、紀伊也だった。
「なぁ、紀伊也、今までお前が一番長く司と一緒に居て、一番近くに居るんだ。冷静に考えて答えてくれよ。司の一番弱いところって、何だと思う?」
「司の弱いところ・・・?」
考えた事もなかった。
弱点などないと思っていた。
しかし・・・
「秀也・・・」
唯一司が一番無防備でいられる場所だ。
司が、女に戻れて、一番安らぐ場所と考えれば、そこしかない。
それなのに、秀也は・・・ っ・・
「そうだ、秀也だよ。司は秀也をかばって撃たれた。これは見逃しようのない事実だ。けど、何で秀也が狙われたんだ? 理由がない。・・・、それと紀伊也、本当は何が原因で解散したんだ?」
え?
ふと顔を上げて司を見ると、戸惑った表情をしている。何も言いたくはないし、聞きたくもない。そんな表情だった。
紀伊也としても、同じ気持ちだった。
表向き、皆が各々違う生き方を選んでいるが、本当のところは、紀伊也も秀也とはやっていけなかった。
それは、あの指輪を見た時にはっきり分かったのだ。
「秀也は関係ないだろ。ヤツと直接当たったのはオレだ。それなのに、何で秀也が関係あんだよ」
口をつぐんだ紀伊也の代わりに、司が喰ってかかるように言う。
「それが関係あるんだ、司。秀也は変わってしまったんだろ? ・・・お前しか知らない秀也はいつから変わったんだ?」
!?
「なぁ紀伊也、お前本当に気付かなかったのか? 二人の関係。いくら関心もたないからとはいえ、何かの変化くらい気付いたって、いいんじゃないのか?」
和矢に窘められるように言われ、紀伊也は俯いてしまった。
確かに和矢の言うとおりだった。
司が生死を彷徨う中で、秀也を拒絶していると知った時、自分を責め続けた。
司と秀也の微妙な変化がどこかに必ずあった筈だ。しかし、それすら気が付かなかった。というよりむしろ、無関心を装っていたのかもしれない。・・係わり合いたくないと。
紀伊也は本当に何も知らなかった。
「北海道・・・」
ポツリ、司が呟いた。
あの、ラベンダー畑での秀也の微笑みが忘れられない。
今でも思い出すと、強く抱き締めて欲しいと思っている。
あの夜を境に、秀也は変わってしまった。
急に秀也が恐ろしく感じたが、同時に切ない程に、愛しくもあった。
本当は、今もその気持ちに変わりはない。
が、敢えて、秀也とは終わった事なのだ、と自分自身に言い聞かせねばならなかった。
想えば想う程に、胸が締め付けられて行く。
「北海道? ・・あの、撮影か?」
二人を残し、出来上がった写真集の一場面をを思い出す。
二人共に、激しい程に挑発的な眼差しだった。
司に妖しい程までの色気を感じたのは、後にも先にもあの写真だけだった。
が、ふとあの撮影から戻って来た時の司の様子がおかしかったのを思い出した。
何かぼんやりと宙を見つめる物憂げな表情に、思わずドキッとしたものだった。
スタッフの何人かも、何か今日の司からは、色気のようなものを感じると言っていたのを思い出す。
そして、あのリハーサル。
初めて司が合わなかった。
というより、様子がおかしかった。
今思えば、何かに取憑かれていたのではないかという程に、生気がなかった。
あの時は、単に疲れて体の具合でも悪いのかと、皆で心配していたのだ。
しかしあの夜は、いつものように秀也と一緒だった。
翌日の二人も、いつもと変わらなかったが、様子がおかしかったのは司の方だった。
「そう言えば、広島での件・・・」
紀伊也は、司が避ける事すらせず、それより何かに怯えていたようだった事を、皆に話した。
そして、あの爆弾事件。
しかし、あの時も皆が二人の事を心配するような事は何もなかった。
別々に過ごしていたとは言え、司の指のリングは、秀也からのプレゼントだとすっかり信じていたからだ。
あのスタジアムでの狙撃事件まで、二人の間に何かあったとは、夢にも思わなかった。
それが晃一から、意外な事実を打ち明けられ、秀也からもはっきりと「あの日に終わった」と告白された時のショックは、さすがの紀伊也も、隠し切れるものではなかった。
和矢は首を傾げた。
紀伊也の話を聞く限りでは、司にさしたるダメージは見られない。
がしかし、司の事だ。誰にも悟られないように振舞う事ができるのは、目に見えている。
ふと司に視線を移すと、両手の拳を強く握り締め、俯いて小刻みに肩を震わせているように見えた。
「司?」
紀伊也の話を黙って聞いていた司に、さかのぼるように、秀也とのしがらみが絡み付いていく。
秀也が変わってしまったと思ったあの日から、ずっと不安な夜を過ごしていた。
ほとんど毎日のように、眠れずにいたのだ。
爆弾事件の時も、秀也の所在を透視出来ないほど冷静さを欠いていたし、自分自身に余裕がなかったのも事実だった。
秀也に抱き締められていても常に遠くに感じていたし、傍近くに居ても何か見えない壁が立ちはだかっているように感じ、それ以上は近づけない、近づいてはいけない気にもなっていた。
晃一から店を出したいと相談を持ち掛けられた時も、秀也からは一言もなかった。それ故、その時はちょっとした疎外感を味わったが、それも仕方のない事だと諦めた。
しかし、秀也の口からゆかりが語られた時のショックは、とても表し切れるものではなかった。
あの時、「別れたくない」と言い切った自分は、本心からのものだったかどうかも、疑問に残る。
それが、マリア像に巻きついていた鎖だと思ったからだ。
自分が巻き付けた束縛という名の鎖だったのだ。
「俺の分析によれば、その一番の弱みに付け入って、そこから操るように周囲を巻き込んで、悪循環を作り出して行くんだ。 そしてそいつの精神を破壊して行く。つまり、そいつの運命を丸ごと変えてしまう。それも、悪い方へ」
和矢は、ちらっと司に視線を送ると、紀伊也に向いた。
「運命を変える?」
「そう。例えば、司と秀也だ。司には秀也が必要だった。それが、司の弱味だと、ヤツの気が知ったら、まずそこから破壊して行く。司本人が変わって、自分から離れて行くのでは意味がない。そこで、秀也に取憑いて、秀也から離れて行くよう仕向けるんだ。そうすると、苦しむのは司だからな」
「信じられない、そんな事が能力で出来るのか?」
「その辺の事は、本当かどうか分からないよ。実際に受けたヤツは、司一人しかいないんだ。・・・それに、俺達にだって、記憶を封印する事が出来るんだ。出来なくはないだろう」
和矢にも信じ難かった。
ただのサイコキラーなら、うつ病を起こさせ、最終的には本人の自我を破壊するだけの筈だ。結果、死に至る。こんなに手の込んだ事をしなくてもいいのだが・・・。 しかし本当に、司が操られてしまったのかどうかも、はっきりしない。
サラエコフの能力を受けたのは過去に誰もいないからだ。司が受けてしまったという確たる証拠もなかった。
「司、何があったんだ?」
兄の声に、震える瞳で見上げた。
「あの時、亮の墓の前で言ってたろ。今の自分に必要なのは、秀也だって。亮の前で言う位だ、余程好きなんだろ? そいつの事」
「・・・」
そうだ、あの時、亮の前ではっきりと、口に出して言ったのだ。
秀也が必要だと。
しかし、その秀也との関係は終わってしまったのだ。
そして、ジュリエットも
それが終わるように、仕向けたのは自分だというのか?
秀也の自分に対する気持ちを変え、ゆかりの元へと行かせてしまったのは、自分がサラエコフの気に操られ、それが秀也をも操っていたとでもいうのだろうか?
自分に送りつけられた仔猫も、バラも、マリア像も、全て自分が仕向けたとでもいうのだろうか。
でも・・・、
「・・・秀也は、関係ない」
翔を見上げたまま、震える声で言った。
「秀也がゆかりの元へ行ったのは、操られたからではない。当然の事だったんだ。オレではいけなかったんだ。アイツの望む幸せには、オレではダメなんだよ、兄さん。オレじゃ、ダメなんだっ・・・」
解ってはいた事だったが、決して認めたくはなかった。それに、本当は解りたくもなかった。
秀也を信じていた。自分に普通の幸せを与えてくれるのだと。そして、自分に課せられたしがらみから解放してくれるのだと。
だからあの時、亮の前ではっきりと言う事が出来たのだ。
認めたくない事を搾り出すかのように言い放つ司の頭の上に、翔はそっと手を乗せた。
「じゃあ司、あの指輪はっ?! あれは、もしかして秀也が操られていたからなんじゃないのかっ!? だから・・・っ・・、だってそうじゃなきゃ、いくらなんでも・・・あんな事・・するような秀也じゃないだろ? お前の知ってる秀也は、あんな秀也じゃないだろっ!?」
思い出すように言う紀伊也の言葉に、更に追い討ちをかけるように、刻まれたイニシャルが襲った。
「だ、から・・何だって言うんだ? もう、どうしたって、秀也は戻って来ないっ。オレ達が別れたのだって、ジュリエットが解散したのだって、そうなる運命だったんだっ。関係ないっ! 誰のせいでもないっ、全部オレのせいだっ! 関係ないっ! だからもう、放っておいてくれっ」
締め付けられる胸の痛みに耐えながら吐き出すように言うと、翔の手を払い除け、ベッドを降りると、覚束ない足取りで歩き出した。
「ツカサっ!?」
驚いたユリアが駆け寄ったが、それすらも払い除けると、ハンガーに掛かっていた事故で擦り切れた黒い皮のライダージャケットを引っ掴むと病室を出て行った。
「追いかけなくていいの!?」
閉じられた扉を背に、ユリアは皆を見渡すが、誰一人としてその場を動こうとしなかった。
相当追い詰められた司の精神は、崩壊寸前だったのだ。
これ以上追いかけて、何か話せば話す程に、更に追い詰めて行く事は目に見えている。
「ショウっ!?」
ユリアの悲鳴にも近い叫びに、翔はゆっくり振り向くと、切なそうな笑みを浮かべた。
「行き先は分かってる・・・」