彼女の事情
朝早く、アルジは寒さで目を覚ました。麻袋を集めてくるまっていたが、焚火の火が衰えると寒気が足先や背中から襲ってきた。
エショナ!
不意に、エショナが夜の間に消えてしまった様な気がして飛び起きる。エショナが寝ていた方向を振り向けば、彼女はアルジが着せた上着を着たまま、アルジの毛布にくるまって寝込んでいる。アルジは胸を撫で下ろし、エショナの寝顔に見入った。昨日、暗い表情に終始したのとは違う、穏やかな表情で目を瞑る彼女の顔を一度見てしまったら、視線が釘付けになり、どうしても目が離せない。彼女に気付かれる事なくずっと見ていられる機会など、そうそう無いだろう。若いつるりとした白い顔も、耳元に流れるおくれ毛もアルジを惑わすには充分だ。不意にエショナの口元が動く。もしも彼女が目を開けて、アルジが見ているのに気付いたら、気持ちを見透かされてしまいそうで慌てて眼を逸らす。
今度は周囲を見回す。薄い朝霧が周囲に立ち込め、草原に佇むカーベルの輪郭がぼんやり見えている。メキリオは、丸めた背中をこちらに見せて、まだ寝ている。焚火はおきと灰になっている。アルジは麻袋を手に取り、焚火に近付いて座り直し、両手を焚火にかざす。
気付けば、エショナが目を覚まし、アルジの様子を見ている。
「おはよう。」
両手を焚火にかざしたまま、アルジはエショナに声を掛ける。エショナは返事をせずに黙ってアルジを見ている。寝ていた時と同じ穏やかな表情だ。アルジは自分の中で何か柔らかい気持ちが広がっていくのを感じた。
「幌の垂れ布は下げておく。エショナは一言も喋るな。」
野営地を出発して暫くすると、メキリオはそう言って、御者台と荷台の間の垂れ布を下げた。メキリオはそれ以上何も言わないが、酷く神経質になっているのが分かる。暫く森の中を進むと、開墾された牧草地に変わり、その先に町が見えて来る。家々の漆喰壁が白い。背の高い建物も幾つか望見され、久し振りに人の気配を感じて、何となくアルジはほっとする。
町の広場でメキリオは馬車を停めさせた。
「ここでお前達は待っていろ。」
メキリオは、低い声で短くアルジに指示を出す。見回せば、確かにバンダナ男も組紐を髪に結んだ女性もいない。行き交う人がトルドーでないとすれば、皆オーベル人だろう。
「この町にギルドは無いの?」
メキリオにつられて、アルジもこそこそと話す。
「本街道から外れた、こんな田舎町にまでギルドは無い。」
「この町には止まらないで通り過ぎちゃったら駄目?」
「まだ誰も昨日の村の状況を知らせていないかも知れない。警察に寄って話だけする。それに俺達の昼飯も調達しないとな。」
「うん…、分かった。」
渋々だ。
「良いか、知らない人と喧嘩するなよ。」
メキリオは顔をアルジに近づけて言う。
「喧嘩なんかしないよ。」
「なんでも自分が正しいなんて思うな。あの子の為に黙っていろ。」
メキリオは目で後ろの荷台を指す。
「良いよ、分かったから、早く行って来てよ。」
アルジはメキリオを御者台から押し出す。
メキリオは馬車を降りると、警察の建物を探して周囲をうろつき、あたりをつけて建物の中に入った。
「あの、知らせたい事があるんだ。」
警察の中では3人の男が椅子に座って仕事をしている。入ったところにカウンターがあり、その近くの机に座っている若い男はまだ下っ端だろう。1番奥の、窓を背に大きな机に陣取っているのが、恐らく1番偉い奴だ。
「はい、何ですか?」
カウンターに近い若者が応対する。
「峠から降りて来る途中の村が焼き討ちに遭っていた。住民が殺されて、どの家も焼かれた後だった。」
「なんだって!」
若者は椅子から立ち上がって、カウンターに身を乗り出す。
「どうしたんだ?」
奥の偉い男が若者の騒ぎを聞いて、声を掛ける。若者は自分の上司たる男を振り返る。
「ミシュラ村が襲撃されたそうです。」
「だから前から警告していたのに。あんな森の中で暮らしていれば、格好の標的になってしまうって。移住を勧めたのに、彼等が頑なに拒んだ結果がこれだ。」
偉い男は椅子に座ったまま、太った体を揺すりながら大声で叫んだ。
「まだ、知らせる者は居なかったのですね。」
メキリオは一応確認する。人通りの少ない道だ。まだ知らせる者がいなくても不思議ではない。
「見たのはいつですか?」
若者がメキリオを振り返って尋ねる。
「昨日の午後です。その時にはもう、粗方家は焼け落ちていましたから、襲撃はその前の夜のうちだったと思います。」
「そうですか。」
若者は立ったまま、自分の机の上でメモを取る。
「情報をありがとう。捜査はこちらでやるから。」
偉い男がまた、口を挟む。
「まずは救援に向かわないのですか?」
メキリオは落ち着いて偉い男に尋ねる。
「ん?勿論、捜査隊を編成して向かわせるよ。誰か生存者を見掛けたかね?」
偉い男の目が鋭くメキリオを見据える。
「いいえ。皆殺しですよ。酷いものだ。あれは、『同盟』の仕業でしょう。」
メキリオも睨み返す。
「誰がやったかは、捜査してから判断する。何故、君は『同盟』の仕業だと言えるんだね。…君はトルドーか?サニキスじゃないし、その風体はオーベルでもないだろう。こんな田舎の街道を通るトルドーは珍しい。ところで君が犯人でない証明ができるか。」
偉い男は、張りのある声で言い放つと、机の上のカップを持ち上げ、冷めたコーヒーを口に流し込む。
「そう言う事は、まず現場を見てから言ってもらおう。私の名はメキリオだ。逃げも隠れもしない。もし疑いがあるならば、トルディア商会に言ってくれ。いつでもここに引き返して来る。」
メキリオは怒りを抑えきれずに仁王立ちして言い放つ。若い男はメキリオと偉い男を交互に見ておろおろしている。
「ふん、良いだろう。人の金を掠め取るくらいしかできない小者達の集団だ。これ以上、立場を悪くする前に立ち去りたまえ。」
偉い男は、徐に席を立ちながら凄んで見せる。如何にも底の浅い男だ。
「ええ、そうします。」
メキリオは、若い男に軽く挨拶して警察を後にした。
アルジはイライラしながら、メキリオの帰りを御者席の上で待っていた。注意深く広場を行き交う人を見ていたが、南部で沢山見掛けたバンダナも組紐も見当たらない。幹線街道から外れている町ならば、トルドーは居るか居ないかレベルだろう。みんなオーベル人と言う事になる。もしかすると、あの村を襲った一味が混ざっているかも知れない。万一、難癖をつけられて、エショナの存在を知られるような事態になったら取り返しがつかない。目立つ幌馬車を小さくできる訳でもない。只々、自分自身が空気の一部になれるよう、じっと動かずに身を丸めているのが精いっぱいだ。
漸くメキリオの姿が広場に現れる。片手に昼飯と思しき包みを提げ、小走りで馬車に近付いて来て、一気に飛び乗る。
「すぐに出るぞ。良いか。」
「良いよ。準備はできている。」
メキリオは、自身で手綱を握りカーベルを動かす。
「昼飯だ。」包みをアルジに渡す。「昼飯は馬車の上で走りながら摂る。1番近いギルドのある町まで止まらずに行くぞ。カーベルには可哀想だが頑張ってもらおう。」
「何かあったの?急いでいるよね。」
メキリオは鼻で笑う。
「アルジの事を言えないな。俺も堪え性が無い。」
「何だか分からないけど、きっと間違っていないよ。メキリオはやるべき事をしたんだと思うよ。」
「生意気な口を利くな。何が正しいかなんて、誰にも分からないぞ。」
言葉とは裏腹に、メキリオの表情は何故か楽しそうに見えた。
馬車を走らせながら、メキリオは北部の事情をアルジに話して聞かせた。荷台にエショナが居る事も当然意識していた事だろう。時々、アルジに後ろからつけて来る者がいないか、確認させたりもした。
雨が降らず、土地が痩せている南部に比べ、山脈で区切られた北部は、水が豊富で土地も肥えている。貧しいサニキス人が主体の南部に対して、この恵まれた土地にはオーベル人が多く住んでいる。北はオーベルの土地だと主張する一部の過激な連中が『北部同盟』を名乗り、治安の行き届かない田舎を中心にサニキス人に危害を加えている。一方、サニキス人の中にも対抗するグループが『解放戦線』を結成し、報復とばかりにオーベル人を襲っている。国の役人達はこれを阻止しようとしているが、北で国境を接する隣国ネシーリアとの国境紛争が絶えず、国内の辺境まで治安を維持できない状態が続いている。政府の主体がオーベル人だから、治安対策に力が入らないと考える者もいる。特にサニキス人の中には、そう確信している者が多い。互いのやり口はどんどんエスカレートして、今回、村丸ごと殺戮するような事態が発生した。これが公になれば、今度は『解放戦線』による報復が行われるだろう…
「殆どの人はこんな惨劇とは無関係だ。オーベル人もサニキス人も平和に暮らしたいだけさ。ただ、何かあると、『オーベル人にやられた』、『サニキス人の仕業だ』と、そこに結び付けて煽り立てる奴等がいる。そうじゃない。悪い奴が悪い事をしているだけだ。悪い奴はオーベルにもサニキスにも、きっとトルドーにだって等しく居る。」
興奮気味だったメキリオは一気にそこまで話すと、今度は口をつぐんで、只管カーベルを走らせた。
ギルドのある町に滑り込んだのは、まだ夕方には早い時間だった。一刻も早くシャルアに着いて岩塩を売り捌きたいと言っていたくせに、この日はもうこれ以上先に進むつもりがメキリオには無い。
「部屋はあるが、1部屋に2人しか入れない。1人は別の部屋だね。2部屋分の料金がかかるが良いかい?」
トルディア商会支部の男は不愛想にメキリオに説明する。
「ああ、良いさ。飯と寝床があれば充分だ。」
メキリオはあっさり了解する。
「部屋は2部屋だ。アルジ、エショナの面倒を見てやれ。」
メキリオは待っていたアルジ達の所に戻ると平然と告げる。
「面倒なんて見なくても、エショナなら、ちゃんと1人でできるだろ。」
アルジも平気で反論する。
「何を言っているんだ。身の回りの世話をしろと言っているんじゃない。ショックな事があって、まだ2日目だ。独りにさせる訳にはいくまい?お前が一緒の部屋に泊まるんだ。」
「ちょっと待った!おかしな事を言っているのはメキリオだろ。」アルジは慌てて食い下がる。「ここは男部屋と女部屋。常識だろ。」
「そんな常識なんか無い。第一、子供部屋だ。大人の男女ならいざ知らず、アルジじゃ、何の心配も要らない。」
どう見ても、メキリオはふざけている。
「な、なに冗談言っているんだ。ほんとに問題が起きたら、どうするつもりだ。大体、エショナが承知する訳がないじゃないか。」
アルジは、顔が熱くなってくるのを自覚する。
「エショナ、アルジと相部屋は嫌かい?」
メキリオは変な猫撫で声を出す。
「…別に。身を守る術は心得ていますから。」
本気だ。エショナは本気で答えている。
「だそうだ。夜中に目が覚めた時、お前が安心させてやれ。」
メキリオも本気だ。アルジは覚悟を決めた。それでも胸がざわついている。
「分かった。…本当に良いんだな。」
アルジは顔を伏せて、上目遣いに2人を交互に見る。
「ああ。アルジ、俺の信用を裏切るなよ。」
「だったら、こんな提案するな!」
メキリオは自分の荷物を担ぐと、ニヤついた顔を隠そうともせず、先にたって部屋へ向かった。
アルジとエショナが入った部屋は細長く、2つのベッドは離れて据えられてあった。アルジはそれを見て何だか少し安心する。早い時間に宿に入ったため、メキリオ達に思わぬ余裕が生まれた。久し振りに体を洗う事にする。男女の区別なく、順番にシャワーを使う。アルジは先に体を洗い部屋に戻った。次にエショナがシャワーを浴びに行ったが、部屋に1人で待っていると、何だか後ろめたい気分になってくる。そわそわと部屋の中を歩き回るうちに、テーブルの上の組紐が目に入る。エショナが髪を解いて置いて行ったのだ。
あんなに外すのを拒んだ組紐。当たり前だが、髪を洗うとなれば、こうも容易く外してしまうのか。
アルジはテーブルに近寄って、組紐を仔細に観察する。手に取るのは、何か罪を犯す様でできない。赤と橙と白の糸で巧みに編まれて、1本の太い紐になっている。単純な組み合わせではなく、どういう仕組みか想像もできないが、途中から赤が強くなるように赤い糸の本数が増え、両端では白が強くなるように白い糸の数が増えている様だ。
突然、背後でドアが開く。その音に慌ててアルジは振り返る。エショナがまだ湿っている髪を気にしながら部屋に姿を見せる。髪を後ろで束ねたエショナの姿しか知らないアルジには、栗色の髪が緩やかに波打ちながら広がって、両肩まで滑り落ちる様はとても新鮮だ。
「ああ、御免、組紐を見せてもらっていた。」
アルジは取り繕う事をせずに正直に話す。エショナは黙って組紐をテーブルから取り上げると、まだ湿ったままの髪を束ねて、後ろ手で器用に縛る。髪を解いたエショナの姿は一瞬で幻になる。
「アルジ、御免なさい。助けてもらったのに、お礼を言えてなかった。」
ベッドに座ったエショナは両手を膝の上に置いている。
「良いよ。そう言ってくれるだけで。」
メキリオとエショナが言い争いを始めた時にはどうなるかと思ったけどね。
喉まで出掛けた言葉を何とか飲み込む。
「ありがとう。後で、メキリオさんにもお礼を言うね。」
「まだ途中だよ。エショナを安全な所まで連れて行った時にしよう。」
「うん…。」
エショナの表情がまた暗く沈んでくる。
「色には意味があるんだってね。前にスオウっていうトルドー仲間の小父さんに教えてもらったよ。」その場を和ませようと、アルジは思いついた事を話す。「ええと、黒が伝統、青が信仰、赤が結束、オレンジは…、白は正義だ。」
「オレンジは情熱。」
「そう!オレンジは情熱だ。エショナのは赤とオレンジと白だね。家ごとに配色が決まっていて、代々受け継いでいくって聞いたよ。」
「私の組紐は、小さい頃、母に貰ったの。母の形見。だから、絶対無くしたくない。」
そうか、あの時倒れていた女性が。アルジは村で見た高齢女性の遺体を思い返す。
「だから、あんなに外すのを拒んだんだ。」
「女の子は、祝福されるべき日に母親から組紐を貰うの。夜10時を過ぎたら、誰にも見られない様に母と娘2人だけになれる場所を選んで、組紐が渡される。次の日から女の子は自分の髪を組紐で結わって、サニキスの女性の仲間入りをした事をみんなに祝ってもらうの。でも、小さかったから、10時過ぎまで起きているのは大変。お昼寝をして、準備するけど、待ちきれなくて。」
こんな楽しそうなエショナの表情は、出会ってから初めて見た。アルジは黙ったままエショナを見つめる。
「御免、面白くなかったね。」
照れ笑いも素敵だ。
「そんな事ないよ。組紐が大事な理由がすごく良く分かったよ。」
「ねえ、今度はアルジの話を聞かせて。アルジとメキリオさんはどういう関係なの?」
質問には答えずに、アルジは自分のシャツの襟に手を突っ込んで、首から下げた石を取り出す。エショナの方に掲げて見せると、部屋のランプの明かりを映して青い石が輝く。黄色いランプの光の中でも濃い青い光を放っている。
「エショナにとっての組紐が、僕にはこの石かな。多分、母親の形見なんだ。」
エショナが息を飲む。
「御免なさい。私、自分の事ばかりで…」
「別にそんなんじゃないよ。僕も言わなかったし。第一、僕の場合は、自分の両親の記憶が無いんだ。物心つくって言うのかな。気付いたら、普通にトルディア商会の本部で暮らしていたんだ。でも、寂しくは無かったよ。同じ境遇の仲間が何人もいたし、カペルって友達と毎日一緒だった。遊ぶ時も、仕事の時も。」
石を自分でも眺めて、半分照れながら、とつとつと話す。エショナは済まなそうな顔をして、黙って聴いている。
「それでね、小さい頃から聞かされていたんだ。15歳になったらトルドーの修行を始めるって。それで、今年からメキリオの下で修業を始めた所さ。」
最後は元気よく話して、アルジは取って置きの笑顔を作って見せる。
「そうなの。メキリオさんを呼び捨てにしているけど、それじゃあ、師匠なんじゃない?」
「うん、そうなんだけど。」アルジは頭を掻く。「最初は『さん』を付けたり、『師匠』って呼んだりしたけど、嫌だって言うんだ。」
「ふうん。いつもクールな感じだけど、恥ずかしがり屋さんなのね。」
「たぶんね。」
エショナも笑顔になる。
こんな笑顔を見たかったんだ。
「…じゃあ、アルジは15歳なのね。」
「そうだよ。えっと、エショナはいくつ?」
「私は17歳。2つ年上ね。」
「そっか、そうなんだ。」
「何?いくつだと思っていたの?」
「別に。…あ、漸く晴れた。」
アルジは、窓から見える夜空を見上げ、星の瞬きを見付けて話を逸らす。峠を越えた日からずっと雨は降らないけれど、曇り空が続いていた。
「そうね。明日は、幌を外して走るの?」
「ううん、きっと外さない。急に雨が降ってくる事があるって言っていたから。岩塩が駄目になったら、大変だからね。こんな偉そうな事、ホントは言えない。だって、これが1回目の旅だから。」
アルジは何だかふわふわした気持ちのまま、いつもよりも口数が増えている自分を意識していた。何だか、黙っていられない。
「最初の旅か…。アルジは怖くなかった?」
「何が?」
「今までトルディア商会の本部で暮らしていたのでしょ?トルドーの修行に初めて出るのが怖くなかった?」
「全然。却ってワクワクしたよ。今まで知らない町や景色が見られるし、自分で稼いで、何でも好きな物が買えるんだ。凄いよ。」
「…そう。」
何故かエショナの表情は冴えない。無理もないかも知れない。自分の意思とは関係なく、独り、身寄りのない旅に放り出されてしまったのだから。
「大丈夫、心配しないで。僕が…メキリオはベテランのトルドーだから心配ないよ。」
エショナは下を向いたまま、黙って小さく頷く。
「今日、早くギルドに入ってしまったから、明日は早出だって、メキリオが言っていたっけ。そろそろ寝ようか。次、いつベッドで寝られるか分からないよ。」
アルジは暗い雰囲気を吹き飛ばそうと、できるだけ明るく話す。無理をするから、何だか大声になり、喉がヒリヒリする。
「そうね。お休み。」
エショナはのそのそと自分の寝床に潜り込む。
「お休み。」
アルジも自分の寝床に潜り込んだが、メキリオと泊まるいつもとは違う、甘い香りが鼻先をくすぐり、とても寝られそうになかった。
その夜を境に、エショナは2人の男と良く話すようになった。幌から外に出る時は、フードを被るようにメキリオから厳しく言われていたけれど、エショナを連れている緊張はどんどん緩み、メキリオが荷台の岩塩の上で横になり、御者台にアルジとエショナが並んで座る光景も見られる様になった。アルジは手綱を握りながら、エショナに何かと話し掛け、エショナも楽し気に応対する。メキリオは2人の後ろ姿を荷台からぼんやりを眺めていた。
毎夜、町のギルドに泊まった。南部と違い北部は、人口が多く町の数も多い。メキリオは意識して野宿を避けていた。ギルドの建物の中に入っても、借りた部屋の中に入るまで、エショナにはフードを脱がない様に何度も注意した。度々2部屋に分かれたが、いつもエショナとアルジを一緒の部屋にした。
「いいか、何かあったら、お前がエショナを守るんだ。」
メキリオはアルジの耳元で囁くと背中を叩いた。メキリオの警戒はアルジには伝わらない。思い掛けず少女が旅に加わり、アルジはワクワクしている。今夜はエショナと部屋で星空を見上げながらもっと楽しい話をしようと、そんな事ばかり考えている。
「ねえ、アルジ聞いてくれる?」
部屋で落ち着くと、エショナは改まってアルジと向かい合って座り、優しい声で話し出す。女性からこんな風に話し掛けられるのは初めてだ。アルジは俄かに落ち着かなくなる。
「実は私、家族で旅に出るところだったの。北部に住んでいるサニキス人は、いろんな形で迫害されてきた。今回の事だけじゃない。いろんな事でオーベル人は私達を差別している。子供の通う学校だって、オーベル人とサニキス人は別。サニキス人の通う学校は壊れかけの校舎に僅かな備品でやり繰りしている。実りの多い肥えた土地はオーベル人に独占され、私達は山奥で肩を寄せ合って、つましい暮らしをしてきた。」
エショナの表情は話し始めこそ穏やかだったが、話が進むにつれ険しくなり、激しい口調になっていく。最初の鼓動の高鳴りとは違う緊迫感がアルジを襲う。
「北部の山岳地帯に暮らす私達サニキス人は、隣国に逃げる計画をしている。デクレシア政府は出国を認めていないけど、これまでに大勢の仲間が密出国した。私の家族も1人が先月、隣国セニエスランドに出たの。そして今週漸く向こうで生活できる見通しが立ったって連絡があったところだったのに…」
エショナは俯いて、涙を堪えているようだ。部屋のランプの明かりでは、陰になってアルジには良く見えない。
「セニエスランドって、どこだい?」
エショナが黙ってしまったので、おずおずとアルジは訊く。ずっとカルーの町から出た事が無かったアルジには、隣国はおろか、デクレシアの中も知らない事ばかりだ。
「この国の西隣の国。メキリオさんの言っていた、紛争をしているネシーリアとは別の国。サニキス人だからって、迫害されない国だって聞いた。」
「そこには、どうやって行くの?」
「詳しくは知らない。聞いていたのは、山沿いに西へ行って、岩だらけの峠を越えれば着けるって。国境を越えた所にある、レクスウェルって町で家族が待っている筈。」
この時初めて、アルジはエショナを安全な所まで連れて行った後のエショナの境遇について思い至った。森の中の村が襲撃され、エショナは頼れる家族を亡くした。たとえ、サニキス人が暮らすテリトリーに彼女を連れて行ったところで、そこに彼女の居場所は無い。
「その…、隣の国にいる家族以外に、この国で頼れる人はいる?」
答えが予想できるだけに、質問には勇気がいる。エショナは俯いたまま、首を横に振る。
「親戚とか。」
あの村でずっと暮らしていたとしたら、親戚もあの村で殺されてしまっただろう。
「知り合いとか…。」
知り合いも同じ事だ。口にしてしまってから、アルジは後悔する。
「…もう、レクスウェルにいる1人だけ。」
エショナの消えそうな声が心に痛い。メキリオも自分も、何も考えていなかった。兎に角安全な場所までエショナを連れて行けば、後はなんとかなると思っていた。そんな生易しいものじゃない。知らない土地で、知らない人達に囲まれて、そこからエショナ1人でどうやって隣の国まで行けと言うのだ。これじゃあ、エショナとメキリオが言い争ったあの森の中で見捨てても、シャルアに行って別れても、さしたる差は無い。
アルジは強く両の拳を握る。
自分の気持ちを満足させるためにエショナを助けたのか。そのまま見捨てて行けば、自分が後悔するから救ったのか。違う。違う筈だ。
「僕に任せて。もう、エショナを悲しいめに会わせない。」
何も計画など無かった。どうすれば良いかも分からない。ただ、気持ちは本当だ。自分には何もないけど、全てを犠牲にしても彼女を助けようと決めた気持ちは本当だ。