森の中
始めはカルーからザルケスタンまでの道程を巻き戻すようなものだ。乾燥した荒野が乾いた草原に変わり、やがて樹木が増え、人々の暮らしが道すがら散見されるようになる。メキリオとアルジは御者を交代しながら、真っ直ぐに北を目指した。岩塩の購入に予想以上の金を使ってしまったから、ギルドに泊まる事も節約して、野宿の連続だ。荷の重さを考慮して、慎重に休憩を多く取りながら進む。幹線街道は、山脈の最も低い峠を求めて大きく迂回する。最短距離で首都を目指すメキリオは、途中から幹線街道を外れ、利用者の少ない脇道に入り、一気に山脈越えを目論む。
やがて、眼前に山脈が見えてくる。デクレシアの国土を南北に二分する山脈だ。あの山脈を越えた向こうに首都シャルアがある。山頂に万年雪を頂く峰が連なる光景は、遠望するだけなら心を癒す光景に違いないが、山襞を縫い、峠を越える過酷な山道を、重い岩塩を積んだ馬車で越えるならば、どんな危険が待っていてもおかしくない。山体が日に日に大きくなるにつれ、未だ経験した事の無いその試練を想像して、手綱を握るアルジの気持ちは高鳴っていった。
山脈の麓に広がる森の中で丸1日峠越えの準備をした。カーベルに充分な休養を取らせ、傷んだ馬車の補修を行なう。万一にも山道の途中で動けなくなったら、命にかかわる事態だ。坂道の傾斜や振動で荷が偏らないよう、しっかりとロープで固定する。メキリオはいつにも増して真剣な顔で、アルジに峠越えの注意事項を教え、復唱させた。
「良いか、峠越えにかかったら、一気に行く。険しい山道で日が暮れるのは危険だ。朝、ここを出たら、夕方までには峠を越えて、北の森に入る。峠まではお前が手綱を握れ。俺は、馬車を降りて道の安全を確認する。道を踏み外せば、谷底に落ちてしまう場所も多い。慎重に操れ。」
そうか。やっぱりそんな危険が待っているのか。
アルジは1つ大きく頷く。
そんな事を言われたら、アルジだって心配になってくる。
「上り坂は厳しいんだろ。カーベルは大丈夫?」
「大丈夫だ。値が高かったから、いつもより岩塩は少ないくらいだ。それより、幌をちゃんと付けろよ。北からの風が山に当たって雲になる。山の中は大抵天気が悪い。坂道もぬかるんでいる事が多いから、ゆっくり慎重にだ。」
次の日の朝、朝霧が立ち込める森を2人は出発した。陽が高くなれば霧が晴れるだろうとアルジは想像していたが、道が上り坂になり、山に入る頃になっても一向に晴れない。それどころか、山道が険しくなるにつれ、霧は空気の流れに乗って渦を巻いて押し寄せる。視界を奪われ、安全確認のため、メキリオが馬車を降りて先導する。押し寄せる霧はそんなメキリオの姿すら霞ませてしまうくらいだ。
おいおい、本当に大丈夫なのか?
手綱を握りしめる手に思わず力が入る。
「メキリオ、この速さで良いか?」
不安で何か話さずには居られなくなり、薄っすらとしか見えないメキリオに向けて叫ぶ。
「ああ、いいぞ。そのまま進め。」
馬車と路面の両方を見回すメキリオの声は落ち着いている。それだけで少しは安心できる。カーベルの息遣いが激しくなってきているのが、鼻の周りの霧の動きで分かる。高度が上がるにつれ、何だか肌寒くもなって来た。道はいよいよ狭い。一方はごつごつとした岩肌が迫り、一方はどこまで深いか分からない谷に霧が溜まっている。
「メキリオ、本当に大丈夫か?一度、停まって確認しないか?」
アルジは兎に角、この緊張から逃れたくて仕方ない。
「駄目だ。上り坂は一気に行く。途中で停まると、再始動が難しい。左に大きく曲がるぞ。綴れ織りに上って行くからな。」
メキリオは、まだ落ち着いている。その声だけがアルジの気持ちを支えている。
「待て、停めろ。」
左に折れて進み始めた所で、メキリオの緊張した声が飛んだ。アルジは慌てて、カーベルを止めて、馬車にブレーキを掛ける。
なんだ?さっき停めるなって言ったじゃないか。
一気にアルジの緊張が高まる。
「降りて来い。」
メキリオは馬車の後ろに回って2組のロープを持ち出す。ロープの一方を馬車に結び付け、2つの内1つのロープの端をアルジに渡す。よく見ると、ロープの先端には2つの大きな輪が作られている。
「これを、こうして輪に両腕を通して、肩に掛けるんだ。」
もう1つのロープを使い、輪の1つ1つに自分の腕を通して、肩に掛けて見せる。アルジも見様見真似で腕を通して肩に掛ける。
「ここが一番傾斜のきつい所だ。あいにくの天候で道もぬかるんでいる。カーベルの踏ん張りが利かない。俺達も馬車を引くぞ。」
1頭と2人で馬車を引っ張り上げるのか。
「カーベルの操作は?」
「俺が馬と並んで扱う。お前は、俺が合図したらブレーキを外し、必死になってロープを引っ張れ。文字通り馬車馬の様にな。」
メキリオは口元を緩めて笑ったが、眼は笑っていない。
「分かった。」
アルジは1つ大きく深呼吸すると、馬車のブレーキの傍に行く。
「良いぞ。外せ!」
メキリオの声がする。アルジはブレーキを外す。
「それ、カーベル踏ん張れ!」
メキリオが素手でカーベルを叩くと、カーベルは電気でも流れたように、全身の筋肉を波打たせる。
「アルジ、引っ張っているか、力を出せ!」
カーベルを間に挟んでお互いに姿が見えない。声から、メキリオが力んでいるのが分かる。
やってるよ。
アルジは心の中で返事を返しながら、無言で引っ張った。
どのくらい馬車を引っ張っていただろうか。峠に差し掛かる手前まで2人はカーベルと一緒に馬車を引き上げた。アルジは足に力が入らなくなっていた。必死で力を出したお陰で、山道に対する恐怖はどこかに消し飛んでしまった。
「休憩しよう。」
峠に着いた所で、メキリオは初めて休憩を口にした。霧は一向に晴れない。晴れていれば眼下に広がる森を見渡す事ができたのだろうが、今はさざ波の様な霧のうねりが北から南へと峠道を通り過ぎていく。
「いつもこんな思いして峠越えするのか?」
アルジはへとへとになった体を御者台の上に横たえながら訊く。これからメキリオの下で修業する間、これを繰り返すと思うと、気が遠くなりそうだ。
「いつもじゃない。幹線街道は、もう少しましだ。だけど、そっちは遠回りだ。急ぐ時はこの道を使う。」
メキリオも馬車に腰掛けて、水筒の水を飲みながら答える。
「そうなんだ…。今度急ぐ旅を選択しそうになったら、全力で阻止するよ。」
「そうか。憶えておく。」メキリオは寝転がっているアルジを起こして自分も御者席に座る。「ここからは、俺が手綱を持つ。下りはもっと危ない。スピードが出過ぎると、取り返しがつかない。上手くブレーキを使いながら、降りていくんだ。俺のやり方をよく見ておけ。」
「うん。」
もう、力仕事をしなくて済むと思えば、お安い御用だ。
「麓まで一気に下る。その前にここで飯にしよう。カーベルは麓に行って水をやる。」
もう、充分働いた。アルジは黙って頷いた。
霧は高度が下がるにつれて晴れた。霧が無くなったのではなく、雲の高さから下に降りて来たという方が正しい。頭上には灰色の雲が低く垂れ込め、いつ雨となって落ちて来ないとも限らない。周囲に木が増え、やがて針葉樹の森の中に入って行く。森の中でメキリオは慌てて馬車を停めた。
目の前には村があった。道の両側に石と木材で造られた小振りの家が立ち並んでいる。どれ一つとして、まともに残っている家はない。木材の部分が燃え、今も黒く炭化した柱から煙がたち上っている。道には何やら家の中から引き摺り出された家具が散乱している。何かが荒れ狂った現場には、人の気配が感じられない。
「ゆっくり進むぞ。何か襲って来たらカーベルを走らせる。気を抜かずに周囲を窺え。」
メキリオの緊張がアルジにも伝わる。
「ここを通らないと駄目?」
「一本道だ。通らずには行けない。」
メキリオはゆっくりカーベルを進める。メキリオもアルジも周囲の様子に注意する。両側に並ぶ家は悉く火が掛けられ、中にはまだ燻っている家もある。炎で屋根が落ち、窓ガラスも割れている。
「人だ。」
アルジは思わず息を飲む。崩れた壁の脇に倒れているのは男だ。うつ伏せの背中に大きな切創があり、周りに血が溢れている。傍に女性も倒れている。馬車を進めながら1軒1軒見て行けば、そこここに倒れた人がいる。中には子供の姿もある。どれも死んでいるようだ。ゆっくりと馬車を進めて、村の反対側のはずれまで来ると、メキリオは馬車を停めた。馬車を降りたメキリオは、今通った村を振り返って、麦わら帽子を外す。
「誰か、生きているかも知れないよ。」
自分ではとても倒れている人を確認する勇気など無いが、アルジは、何故かそう言わなければいけない気がした。
「…ああ、もう襲撃した連中が戻ってくる恐れも無いだろう。」
メキリオは村を見たまま、突っ立っている。
そうか、こんな事をした人間がいるんだ。
メキリオに言われて、アルジは当たり前の事実に思い至る。これは紛れもなく、人の仕業だ。
「良いか、アルジ。気をしっかり持て。1軒ずつ家の中まで入って、息のある人がいないか確認するんだ。」
「え?…どうやって?」
「1人ずつ仰向けにして、呼吸しているか確認する。」
「そんな事…」
「良いから、やるんだ。男だろ。」
メキリオにそう言われては、返す言葉が見付からない。
あんな事、言わなけれりゃ良かった。
「俺は、通りのこっち側を見る。お前は通りの向こう側を見てくれ。」
メキリオは指差して指示する。アルジは、覚悟を決めて馬車から飛び降りると、最初の家に向かって走り出す。足に力が入らずフラフラするのは、さっきの峠までの山道のせいか、それとも武者震いか。
「良いか、危ないと思ったら、手を出すな。できる範囲でくまなく調べるんだ。」
背後でメキリオが叫ぶ声が聞こえる。一体どのくらい確認すれば正解なのか分からない指示だが、それを不思議に思う余裕などアルジには無い。
「誰か居ますか?」
恐る恐る最初の家に入って行く。勿論答える声などない。家の中を見回るのにドアを開ける必要はない。半分焼け落ち、壁が無くなった家の中は、足の踏み場に気を付けて一巡すれば事が足りる。死体の多くは、家の中よりも玄関や庭先にあった。メキリオは仰向けにして呼吸を確認しろと言ったが、その必要は無かった。どれも冷たく、体が硬くなっている事で判別できる。老人、中年の夫婦、小さい子供…。例外なく鋭い刃物で切られた傷が、生々しく口を開けている。気分が悪いというよりも、何か歯の根が合わなくなるような恐ろしさに全身を支配されながら、アルジは必死で家から家に渡って行った。
最後の家を見終わると、アルジは道に出た。一体、どれだけの死体を見ただろう。これだけの仕業、1人や2人でできる訳がない。この村を襲った凄まじい大きさの人のエネルギーを想像して、アルジはめまいを感じ、その場に座り込んだ。
「どうだ?誰か生きている者は居たか。」
傍らにメキリオがやってきて、弾む息で話す。きっと、メキリオも絶望的な光景を見て来たに違いない。アルジは地面を見つめたまま、首を横に振る。何度も何度も、メキリオが次の言葉を発するまで首を横に振り続けた。
「そうか。この村でカーベルを休憩させたかったが、悠長な事はしていられない。水を汲んで飲ませたら、すぐに出よう。」
メキリオは反対側の村はずれに停めた馬車に向けて歩き出す。アルジも腰を上げると、トボトボとそれに付いて行く。
馬車を停めた村はずれに井戸があった。道から外れた森との境近くにある井戸は、襲撃の被害を免れて、使える状態で残っている。
「よかった。…アルジ、さあ、水汲みだ。」
メキリオは馬車から持ってきた木桶を井戸の傍に置くと、アルジに井戸の水汲みを指示する。井戸は、埃や土が入らない様に、木の蓋がされている。アルジは井戸の脇に立って、2つ割になっている木の蓋の一方を持ち上げ、井戸の釣瓶を落とすだけの隙間を作る。
「ん?」
中の水の状態を見ようと覗き込んで、アルジは異変に気付いた。暗い井戸の中の壁で、何かが動いた様に見えた。目を凝らしてみるが、暗くてよく分からない。仕方なく、2つ割の木の蓋を1つずつ順に取り払い、もう一度井戸の中を覗き込んだ。
「人だ!人がいる!」
アルジは思わず叫んだ。井戸の壁に窪みがあり、そこに人がうずくまっている。それが人と分かるまで、心臓が飛び出しそうだった。メキリオも井戸の中を覗き込む。井戸の壁、地面から少し低い位置に窪みがあり、女性が1人、膝を抱える形で丸くなって入っている。こっちから手を伸ばしただけでは届かない。向こうも手を伸ばしてくれれば、引き上げる事が充分可能だ。
「どうやって入ったんだろう。」
呟くアルジを上目遣いに見ている目が差し込む日の光を受けて輝いている。
「襲撃に気付いた誰かが、ここに匿ったんだ。」
メキリオは意外に落ち着いている。
「メキリオ、引き上げてあげようよ。…ほら、手を出して。」
アルジが1番近い所に移動して両手を伸ばすが、とても届かない。メキリオに隣に来る様に促し、一緒に手を伸ばさせる。メキリオの腕でも女性の少し上までだ。やはり女性に上がろうとする意志があって、手を出してくれないと引き上げられない。
「もう大丈夫、僕達は通りかかった商人だ。安心して上がっておいでよ。」手を一杯に伸ばしながら、アルジが呼びかける。「ほら、メキリオも何か言って。」
メキリオは腕を伸ばしはしても、声を掛けようとはしない。
「さあ、大丈夫だから。僕等を信じて。」
女性は、暫く眩しそうにアルジ達を見上げているだけだったが、決心したのか両手を出し、メキリオとアルジの手を掴む。
「ちゃんと踏ん張れ、自分が落ちちまうぞ。」
両手で女性の片腕を掴んで、メキリオがアルジに声をかける。
「分かってるって。『せいの』で一気に引き上げよう。良いかい?」
アルジは腰を落とし、膝を井戸の外壁に密着させると、背筋に力を入れる体制を作る。
「せいの!」
2人は力を合わせて引き上げる。両手を男達に掴まれた状態で女性は井戸の中で宙吊りになる。更に力を込めて引き上げ、女性の二の腕まで井戸の壁の上に出る。女性が自分の腕で、井戸の縁を掴む。メキリオが一方の腕で、女性のズボンの帯を掴んで一気に引き上げる。勢い余って、女性が井戸端に転げ出ると同時にアルジは尻餅をついた。女性は微かに震えている。十代後半の若い娘。深緑のシャツに黒のズボンを穿いている。自分のシャツの襟元を掴む両手がアルジ達への警戒を暗示する。怯えた青い瞳が忙しなく周囲を見回す。栗色の髪は後ろでポニーテールに纏められ、鮮やかな組紐で縛られている。
アルジは、彼女の青い瞳と白い頬を見ただけで動けなくなった。頬にかかるおくれ毛が、後ろで束ねられて軽く波打つたおやかな髪が、彼を捉えて離さない。
「アルジ、何している。水を汲むんだ。」
少女とアルジを見下ろすメキリオの目は冷たい。
「あ、ああ。」
我に返ると立ち上がり、井戸に釣瓶を落とす。少女は2人の男の様子を窺っていたが、自分に注意が向いていないと分かると、急いで立ち上がり駆け出す。
「あ、ちょっと!」
アルジは上げかけたロープの手を止めて呼び掛ける。
「気にするな。早く上げろ。」
少女が走って行った村の方を気にしながら、急いで釣瓶を上げる。木桶に水を移すと、メキリオは桶を持って馬車へ歩いていく。
「あの人、どこに行ったかな。」
メキリオの後ろを付いて行きながら、アルジは少女の消えた方を見ている。
「気になるのか。気が済むなら、探してみろ。」
なんだか、メキリオは不機嫌だ。
「うん。」
そう言いながらも、馬車の傍までメキリオに付いて行ったが、どうにも気になる。意を決してアルジは村の中へ走り出す。声を出して探そうにも、少女の名前を知らない。「おーい」とか「どこだぁ」とか遠慮がちに小さな声を出して道を歩き、両側の家に動く少女の姿を探す。時間はかからなかった。程無く、1軒の家の前、2体の亡骸を前にへたり込む姿が見える。アルジはゆっくりと彼女の傍らに近付いた。
少女は声を押し殺して泣いている。自分の頬を流れる涙を拭う両手の指が震えている。彼女の背後から見下ろすアルジに、その表情は見えない。もうそれ以上、彼女に近付く事ができない。声も掛けられない。ただ、背後に立ち、少女の小さな背中を見つめる。横たわる亡骸は高齢の夫婦の様だ。男は背中に刺し傷があり、血が周囲に広がっている。女は脇腹を大きく切られ、横向きになって倒れている。
「あんた、次の町まで送っていく。馬車でも着くのは明日になる。早く支度してくれ。」
メキリオがやって来て事務的に告げる。その冷たい言い方にアルジの腹の中から熱いものが湧き上がってくる。
「なんだよ、その言い方は!見れば分かるだろ、そんな言い方しかできないのかよ。」
「日が暮れるまでそう時間はない。こんな所で夜を迎える訳に行かない。」
「なんで!さっき、襲撃した連中はもう戻って来ないって言ったじゃないか。ここに居ても安全だろ!」
「カーベルの馬草はどうする。草地がある所までは行かなければならない。夜の山道は危険だ。日暮れ前までに辿り着くんだ。」
「だからって、よくこんな時にそんな事が言えるな。もう少し待ってくれても良いだろ!」
「…良いです。置いて行って下さい。」
あまりに微かで、一瞬、人の声だと分からないくらいの少女の声。
「え?」
思わずアルジは、少女を見下ろして訊き返す。
「置いて行く訳にはいかない。さっきも言ったが、一番近い町でも遠い。森の中で迷ったら命の保証はない。次に通る人がいつ来るかも分からない。」
メキリオは冷静に少女に告げる。ザルケスタンからシャルアへの最短距離のこの道は、峠がきつく、幹線から外れている。往来する人の数は少ない。
「そ、そうだよ。置いて行けないよ…。だからって、そんなに無神経に急き立てるメキリオが悪いんじゃないか!」
アルジはどう対応するのが良いのか分からなくなっている。
「良いです。大丈夫ですから。」
今度ははっきりと声が聞こえる。
「だからって…」
アルジはそこまで言ったが、継ぐ言葉が無い。メキリオも押し黙っている。2人は暫く黙って少女を見守っていた。やがて、少女は2人の存在を気にしないかの様に、ブツブツと小さい声で何かを呟き始める。最初、アルジには何が起きたか理解できなかったが、言葉の断片から死者を弔う為の言葉なのだと気付く。メキリオは少女の脇まで歩み寄り、しゃがんで少女の顔を覗き込んだ。
「良いかい、この2人を土に埋めてあげよう。サニキスのやり方を俺は知らないが、できるだけの事をする。それで許してくれ。」
少女は呟きをやめない。2体の亡骸に片手ずつ載せて呟いている。メキリオの提案を了承したとも拒否したとも分からない。
「アルジ、この子に付き添っていてやってくれ。」メキリオは立ち上がると、アルジの脇に来て、低い声で言う。「俺は、墓穴を掘って来る。」
「え?…分かった。」
アルジは、年上のメキリオに強く言ってしまった事を、少し後悔した。
メキリオが墓穴を掘る間、アルジは少女の後ろに立って彼女を見守っていた。メキリオは穴を掘り終わると、馬車にあった空の麻袋を切り開いて、1枚の布にしたものを2枚用意する。それぞれに遺体を乗せて、墓穴までメキリオとアルジで運んで穴の中に安置した。少女は2人の行動に抵抗する事なく、墓穴まで2人に付いて歩いた。遺体の上に麻袋をもう1枚ずつ被せる。少女はどこからか花を摘んで来て遺体の上に載せた。
ああ、なるほど。こうして花を捧げるのは、自然な気持ちの表れなんだ。
アルジはこの前、メキリオと共に旅の途中で行なった行為を思い返した。
土が掛けられるとき、少女はまた泣いた。今度は、土を掛けるアルジが正面から見える位置で、顔を両手で覆い、声を押し殺して泣いた。メキリオと交互に土を掛けながら、アルジは何度も少女の様子を盗み見た。自分とは関係ない人の死なのに、彼女を見ていると、何故か酷く胸が締め付けられて苦しい。彼女の傍らに寄って慰めたい気持ちを追い払いながら土を掛けた。
「前に3人は窮屈だ。荷台に乗ってくれ。」
2人の遺体を埋め終えた頃には陽が傾きかけていた。これ以上何かをしていると、本当に身動きが取れなくなってしまう。メキリオはアルジと少女を急かす。荷台は岩塩が入った袋が一面に敷き詰められ、人の入る隙間が無い。このままじゃ、ごつごつした袋の上に座らなければならない。
「もう、危ない路面はないだろ?袋を寄せて場所を作る。」
アルジは先に荷台に乗り込んで、御者台に近い隅の袋を除けて、人が座れる空間を作る。そうしてできた場所に、自分の毛布を四つ折りにして敷く。メキリオは馬車の後ろで途中までその様子を見ていたが、アルジが毛布を取り出したのを見届けると、自分は馬車の前に回り、御者台に上っていく。
「えーっと…。」荷台から馬車の後ろに立っている少女を見て、アルジは恥ずかし気に話し出す。「名前、教えてもらえないかな。ほら、声を掛けるのに、何て呼んで良いか困るから。…あの、僕はアルジ。馬車の前に行った小父さんがメキリオって言うんだ。」
少女は反応せずに黙ってアルジを見ている。拒否していない。きっと何か迷っているんだ。
「それで、君は?」
アルジは、笑顔を作りながら促す。
「エショナ。」
小さな声だが、少女ははっきりと口にする。
「エショナ?…そうか。えっと、エショナ。こっちに上がって。僕は御者席に行くから。」
アルジの背後にある、御者台と荷台を隔てる垂れ布を親指で指してもう一度笑顔を作る。エショナと名乗った少女は、ゆっくりと荷台の枠に手を掛けて乗り込む。アルジはそれを見て頷くと、垂れ布を捲って御者台に移る。
「良いか?もう行くぞ。」
アルジは御者席に座るとメキリオを見た。やっぱりまだ不機嫌そうだ。
「ああ、良いよ。僕が手綱を持つかい?」
「いや、良い。お前は相手をしてやれ。布は巻き上げておけ。」
メキリオはカーベルを走らせた。
メキリオが馬車を停めた時には、もうすっかり暗くなり、どうにか道と森の境が分かる程度になっていた。カーベルを馬車から解放し、長めのロープで木につないで、周りの草を食べられるようにした。メキリオ達は、大きめの木に囲まれた、下草が無い場所に火を起こして夕食にする。
ここまでの道すがら、アルジは何度も馬車の中を振り返ってエショナに話し掛けたが、エショナは口を開かなかった。辛うじて頷いたり、首を横に振ったりするぐらいだ。火が起きると、アルジは火から少し離れた場所に麻袋を敷き、その上に自分の毛布を四つ折りに畳んで、エショナを座らせた。干し肉を炙って彼女に与え、紅茶を淹れたカップを手渡す。メキリオは甲斐甲斐しくエショナの世話を焼くアルジを放って、1人で自分の食事をした。
空は終始晴れなかった。重たげな雲が覆い、夜になっても月も星も見えない。3人の誰一人空を見上げはしなかったが、重たい空は、そうでなくても暗い森の中を一層暗いものにしていた。
あの死んでいた2人はエショナの両親?エショナはあの村で育ったの?
幾つもの質問がアルジの胸の中に去来した。でも結局、そのどれも口に出さなかった。
「もっと食べるかい?」
口をついて出る言葉は、当たり障りの無い、その場を繕うための言葉だけ。それでも、アルジは何か話す事を見付けては、エショナに話し掛けた。
「その組紐を外せないか。」
食事を終えて、木にもたれたメキリオが不意に切り出す。エショナの髪を後ろで纏めている組紐を指しているのは、アルジでも分かる。それまでエショナにばかり気を取られて、メキリオの存在を忘れていたアルジは、メキリオがいつの間にかエショナの様子を窺っていた事に気付いて驚く。何故だか、メキリオはエショナを避けていると勝手に決め付けていた。ずっと俯いていたエショナが、顔を上げてメキリオを見る。暫く3人はそのまま動きを止めた。
「…できません。」
エショナは悲しみにくれているとばかり思っていたアルジが、はっとする程しっかりした声。
「何故?」
間髪を入れず、メキリオが切り込む。
「だって…、サニキス人だから。」
ためらい勝ちに口を開いたが、最後はきっぱりと言い切る。強い意志がその青い瞳に宿っている。
「なにもサニキスを捨てろとは言っていない。君を次の町まで連れて行って、無事に保護してもらうまでの間だけだ。」
「これは」エショナは右手を自分の頭の後ろに回して、まとめた髪を触る。「サニキスの魂です。簡単に外せるものではありません。」
「全く、君達は融通が利かないな。だから…」
メキリオは、言いかけた言葉を飲み込むと、苦虫を噛んだ様な顔で視線を落とす。
「一方的に要求して、文句を言うなんて失礼じゃないですか。何故そんな要求をするのか言いもしないで。」
エショナは怒っている。さっきまで悲しんでいた可憐な少女が、今自らが本当は強い存在である事を示している。色々な事が急に変わってしまい、アルジは只おろおろするばかりだ。
「良いか、俺達はトルドーだ。サニキスだ、オーベルだと争う輪の外の人間だ。君達の厄介事に巻き込まれるのはまっぴらだ。」
「私は助けてと頼んでいません。邪魔ならば、置いて行って下さい。」
「ちょっと、ちょっと待ってよ!」漸くアルジは二人の会話に割って入る。「さっき、あんなに一生懸命生存者を探したじゃないか。それはこんな事を言うつもりでやったんじゃないだろ。」
まず、メキリオを諭そう。そっちの方が、勝手が分かっている。
メキリオはふて腐れているのか返事をしない。
「えっと、エショナ。御免なさい。メキリオは悪い人じゃないんだ。ただ、言い方がぶっきらぼうで。」
エショナにはどう接して良いか、まだ分からない。兎に角このまま別れてしまう事態は避けたい。
「悪い人じゃない事は分かっています。そんな事を言っているのじゃありません。」
「そうだね。どう言ったら良いのかな。」
エショナに機嫌を直してもらいたい。多分、アルジが考えているのはそれだけだ。
「アルジ、気にする事はない。自分の命よりもサニキスの誇りの方が大事だと言う奴など放っておけ。」
メキリオが火に油を注ぐ。
「ちょっと、やめてくれよ!」
「脅しに屈して誇りを捨てる様な真似はしません。」エショナもメキリオの挑発にすんなりと乗る。「オーベルのやっている事を非難もせずに、私に悪態をつくあなたの常識を疑います。」
「ここにオーベルはいない。だから非難したくてもできないだけだ。でも明日隣町に行けば、オーベルはわんさか居るぞ。お前が独りぼっちだと分かったら、それこそお前の身に何があっても不思議じゃないぞ。」
「ちょっと、ちょっと、ちょっと!待った、待った!」
アルジは焚火のすぐ側まで身を乗り出し、2人の間で両手を広げて、交互に2人を見る。2人は睨み合ったままだが、それでも黙らせる事には成功する。
「メキリオ、やっぱりエショナを心配しているじゃないか。」
やっぱり、まずはメキリオからだ。こっちを黙らせないと収まらない。メキリオは只むくれた顔でエショナを睨んでいる。
「メキリオが言いたいのは、こういう事だろ。エショナがサニキス人だと分かる格好で隣町に行けは、あの村を襲った奴等に捕まるかも知れない。…そうだろ?」
「こんな若い娘が身寄りも無く1人で居てみろ。格好の標的だ。今日の村の死体の中に年頃の娘が無かった理由が分かっているか。」
メキリオの言いたい事の真意がアルジに初めて分かる。
「そうなんだ。…じゃあ、尚更、エショナを独りにする事なんかできない。僕等で守ってあげなきゃ。」
「いつまでだ。ずっと連れてなんて行けない。第一、さっき言ったろ。厄介事に巻き込まれる。トルドーの俺達がサニキスの娘を連れていたら、みんな不思議に思う。オーベルからはサニキスに与する者だと烙印を押され、サニキスからは娘をたらし込んだと誤解される。」
「もう、良いです。そんなに邪魔ならここで消えます。」
エショナがヒステリックな声を上げる。
「エショナ、邪魔じゃない。僕は見捨てない。君を助ける。」アルジはエショナを振り返ると、できるだけ落ち着いて言う。エショナの目に溜まった涙が焚火の明かりで瞬いている。アルジは、エショナに笑って見せると、メキリオに向き直った。
「ねえ、メキリオ。僕は諦めない。エショナをここで助けなかったら、きっとずっと後悔する。メキリオだって同じだろ?だから、こうやって、いろんな話をするんだ。」
メキリオは黙っている。2人の間に割って入ったアルジを真っ直ぐに見ている。怒っていない。本当は不機嫌な訳じゃない。アルジはメキリオの表情を見て、彼の気持ちを探ろうとする。
「隣町はオーベルでいっぱいだって言ったけど、北部にだって、サニキスの町はあるだろ?幌を掛けた荷台に隠して、そこまで連れて行ってやろうよ。ここまでしたんだ。やりきらなかったら、トルドーの面汚しだ。」
アルジは平静を装っているが、頭の中はフル回転だ。脇の下を汗が流れる。
「お前も森の中に居るって事か…」
メキリオは俯くと誰に言うでもなく呟く。暫くそうして、何か考え込んでいた。
「やれやれ、仕方ないな。」
メキリオは大袈裟に溜息をついて両手を広げる。急な変わりようで、アルジはどう対応して良いか分からない。
「良いか、この子を安全な場所へ連れて行くまでだ。そこでお別れだ。何か頭を隠す物は無いか。帽子とか…帽子じゃ、その紐は隠せないな。スカーフの様な…、ええと、エショナと言ったか?組紐を外さなければ良いんだろ?頭を隠すのは良いか。」
メキリオとアルジはエショナの反応を見る。エショナは黙ったまま頷く。
「よし。」
「それなら、僕のフードが付いた上着はどうかな?フードを被ってしまえば、分からないよ。」
アルジは勢い込んで、メキリオに提案する。
「出してみろ。」
アルジは、急いで馬車へ走って行き、荷台に上る。暗くて自分の荷物を見つけるのに苦労したが、目当ての上着を引き摺り出すと、勇んで戻って来て、焚火の光で見えるように広げて見せる。
「着せてみろ。」
メキリオに言われて、アルジはまず、上着の匂いを嗅いだ。自分の匂いは自分では分からない。着せて良いものやら、エショナの反応を窺っている。エショナは拒否する素振りもしないが、積極的に手を伸ばす事もしない。
「早く。」
メキリオに促されて、アルジはエショナに近付くと、エショナの頭から上着を被せる。エショナは立ち上がって上着を着る。少し大きい。袖が長くて、指先だけしか出てこない。エショナが袖口を折っている間に、アルジは後ろに回ってフードをエショナの頭に被せる。フードを被せ過ぎると目まで見えない。アルジはエショナの顔を覗き込んで、フードの被り方を調整する。メキリオはそんな2人の様子を黙って眺めている。
「どうだい?」
大きいなりに上着を着たエショナを見ながら、アルジはメキリオに訊く。
「まあ、いいだろう。良いか、人前に出るときは必ずその服を着ているんだ。」
「ちょっと臭いかな。御免ね。」
メキリオに聞こえない様に、アルジはエショナに囁く。
「それから、サニキス人の町が近くに無い訳じゃないが、そんな所に寄っている時間は無い。岩塩を売り捌くのが優先だ。アルジ、お前は自分の商売を忘れたのか?シャルアに行けば、治安は良い。サニキス人だって沢山住んでいる。そこまで一緒に連れて行く。それで良いか?」
アルジの表情は俄かに明るくなる。
「うん、ああ、良いよ。シャルアまで連れて行くんだね。」アルジはメキリオに何度も頷いてからエショナを振り返る。「シャルアまで一緒に行こう。良いかい?」
フードを被ったエショナの顔を覗き込みながら、アルジは笑顔を作る。エショナは悲し気な顔のままで、小さく頷く。
「良かったら、今日はもう寝ろ。明日の朝はアルジが御者の番だ。後ろを振り返ってばかりだったら、ぶっ飛ばすからな。」
メキリオは言いたいだけ言うと、自分の寝床を作り、焚火に背を向けて寝転がる。エショナとアルジも、それぞれに寝場所を見つけて横になる。アルジは自分の毛布をエショナに渡してしまったから、馬車から持ち出した空の麻袋にくるまる。横になって上を見ると、雲で覆われた空には何の光も無い。周囲の木が焚火の光にぼんやりを浮かび上がって、暗い夜空との境を知らしめている。
「お休み。」
そう言ったのは、機嫌が良くなったアルジだけだった。