空色の陰
翌日も待ちになった。メキリオは商会の意向を汲んで、3日間は待つと決めた。蓄えがある訳じゃない。長く留まれば、無駄な出費が嵩む。アルジという、底なし沼の様に食物を飲み込む育ち盛りの見習いが一緒なら尚更だ。やる事が無くなったメキリオは支部で骨休めを決め込む。アルジはエネルギーを持て余す。メキリオは厄介払いを兼ねて、アルジに昼飯代を渡して、市内に出る事を許可した。
「いいか、無駄遣いするんじゃないぞ。銭が無くなっても、今日はそれ以上、渡さんからな。」
メキリオはアルジを睨みつけて、人差し指を突き出して宣告する。
「ああ、分かった。」
自由に街中を闊歩できると聞いて、出掛ける前からソワソワしている。
「道に迷うなよ。」
メキリオの言葉が終わらない内に、アルジは部屋を飛び出した。広間のソルキーヌの前は「行ってきます。」と静かに挨拶して通り過ぎる。薄暗い支部の建物から明るい陽射しの中に出て、大きく深呼吸をする。
やっぱり、太陽の下で動いているのが僕だ。
最初は昨日行った岩塩市場に行こうと思っていたが、行き交う人の流れの速さに付いて行けない自分の歩幅を意識したら気が変わった。気になる路地を適当に曲がり、金細工の商店は、どうせ買わないだろうと高を括られながらも構わず覗いてみて、広場の石像を間近で見上げ、壁際まで下がって全体を眺め、サニキス人の独特な宗教施設は、余所者が汚さない様に離れて通り過ぎ、街を見下ろす尖塔には、汗を掻きながら螺旋階段を上って、階上の見張り台で暑い乾いた風に吹かれてみた。そうしている内に腹が減ってきた。そう言えば、ピューラの宿で食べた山羊肉は最高だった。これだけ大きな街だ。きっと、もっと旨い物があるに違いない。アルジは食い物を探して、街の中を徘徊し始める。そう言う時に限って飯屋は見つからない。どうやら、この辺りは住居地区らしい。飯屋どころか、商店すら見当たらない。
良い匂いがする。香辛料と共に焼ける肉の匂い…。きっと、匂いのする方向に店があるに違いない。アルジは空気の流れに乗ってくる、匂いの方向を定めて歩き出す。路地を抜けて、広めの通りに出た。馬車が通れる石畳の道だ。匂いの在り処が分かった。肉の塊を数個ずつ串に刺して焼いている。その串を持ち上げた婦人が、子供が持つ皿の上にその串を置こうとしていた。串を焼いているのは男だ。恐らく、婦人の夫であり、子供の父親だろう。子供は皿を持ったまま、婦人の顔を見上げている。アルジに背を向けているからその表情は分からない。でも、婦人の優しい表情を見れば、子供の表情も容易に想像できた。
お店じゃないや。
アルジの動きは彼等親子を見たまま止まった。
「どうしたんだい。」
背後からの声に、アルジは振り返る。間近に老人の顔を見て、思わず声が漏れそうになる。全身に白い布を巻き、白髪髭に囲まれた口元、何よりも皴と一体になってしまった両の眼には見覚えがある。
「…なんだ、昨日の小父さんか。」
安堵したアルジの表情を見て、皴の中の眼が笑っている。
「お腹が減っちゃったんだけど、どこか食べられる所を知りませんか?」
アルジは、昨日会ったばかりの老人にできるだけ丁寧に訊く。
「そうか、腹が減ったのかい。…よし、案内してあげよう。」
老人はくるりと背中を向けると、手振りで付いてくるように合図する。2人は並んで石畳の街路を歩いた。老人は道すがら、アルジの名前を訊いた。自分の事はドーゼルだと名乗った。
「アルジはトルドーかい。」
「うん。ドーゼルさんもトルドーじゃないですか?」
「ほう、どうしてそう思う?」
「バンダナをしていないし…」
「バンダナをしていないのなら、オーベル人も同じだ。」
「トルディア商会の…ギルドのマザーが同じ様な白い布の服装をしていました。」
ドーゼルは、自分の横を歩くアルジを見下ろして皴と白髭でできた顔で笑顔を作る。
「アルジは頭が良いな。大切な事だ。」
「トルドーなんですか?何を扱っているんですか?やっぱり、岩塩。」
「ザルケスタンは岩塩の街だ。トルドーだけじゃない。ここに住むサニキス人もオーベル人も殆どが岩塩に関わって生活している。だけど、アルジはスオウにも会ったんじゃないかい?」
「ドーゼルさんは凄いな。何で知っているんですか?」
「私の事は、『爺さん』で構わないよ。敬語も要らない。昨日、スオウのラクダと君の馬車が並んで進んでいるのを見掛けたからね。」
「なんだ。でも、スオウさんとも知り合いなんですね。やっぱりトルドーだ。」
「…どうだ、ここにしようか。」
ドーゼルは、焼いた鶏肉の絵の看板が下がっている店を指差す。旨そうに黄金色になった肉が、今も店頭で焼かれているのが見える。
「ドーゼルさん、凄い店知っているんだ。ありがとう。」
アルジは口一杯に唾液が出てくるのを感じながら、ドーゼルに礼を言うと、店先へと走る。焼いている鶏肉は、どれも脂で輝やいている。まずは自分の懐を探り、メキリオに貰った銭を確かめる。
「銭を気にしているのか。爺さんに任せておけ。」
アルジの後から来たドーゼルは、アルジの腕を掴んで店の中へと入ろうとする。皴だらけの老人とは思えない力で引っ張られて、アルジはよろけながらも抵抗する。
「いえ、会ったばっかりの人にそこまでしてもらってもお礼ができません。」
「水臭い事を言うな。トルドー同士じゃないか。」
無理矢理引き摺り込んだアルジを席に着けると、勝手に料理一切を注文する。料理は、さして待たずにテーブルに運ばれて来た。
「ザルケスタンはどうだい?」
鶏を頬張るアルジを眺めながら、自分は酒を舐め舐め老人が徐に訊く。
「うん、凄い街だ。人が一杯いて、ずっとお祭りしているみたいだ。昨日、市場に連れて行ってもらって、いろんな人と話をしたけど、みんな親切にしてくれたよ。」
「そうか。そりゃ、いい出会いをしたな。」
アルジは一つ、気になっている事を訊かずにはいられない。
「えーと、ドーゼルさん。」
「『爺さん』で良いと言っているだろ。」
「じゃあ、ドーゼル爺さん。スオウさんを知っているって事は、メキリオさんも知っている?」
「アルジは、メキリオに付いて修行をしているんだろ。あの男の因果だ。」
「ねえ、メキリオさんってどんな人?」
アルジは食欲が満たされてくると、話にのめり込む。
「なんだ、一緒に居て分らんのか?」
「うん、何だかね。あんまり喋らないし。メキリオさんが手綱を握っていると、馬車を停めるまで、一言も喋らない時もある。」
「ほう。…あいつは、今まで長い間、1人で旅をしてきた。喋らないのが身に沁み込んでしまったんだろう。」
「スオウさんも1人で商売しているけど、沢山話してくれたよ。」
「ははは、スオウはこの街に家がある。女房、子供と暮らしておるからな。」老人は楽し気に笑うと、旨そうに酒を舐める。「何故、メキリオの事が知りたい。」
何故?と言われると、アルジは答えに窮した。一緒に居て、この人はどんな人だろうと無意識に思っていた。理由なんか無い。
「メキリオはみなしごだった。」
老人はテーブルの表面を見つめている。唐突な物言いで、アルジが言葉を理解するのに一瞬間が空いた。
この爺さんは何でも知っている。なんでそんなに詳しく知っているんだろう。
アルジは皴と髭で構成された老人の顔を見つめた。
「僕も親がいない。」
アルジの口から何のためらいも無く言葉が出た。どうせ、黙っていてもこの爺さんは分かっている。そうして、こっちがどうするかで人を計っている。そんな気がする。だったら、みんなさらけ出してしまおう。
「何故そんな事を言う。」
ドーゼルは顔中の皴で笑顔を表現する。
「ドーゼル爺さんは何故、メキリオさんの事を言ったの?」
アルジの切り替えしを受けて、老人はのけ反ると声を上げて笑った。
「こりゃ、私の負けだ。アルジは一人前のトルドーだ。」
アルジは楽しそうに笑う老人を暫くそのまま放っておいた。老人が笑っている間に残っていた鶏肉を口に頬張る。
「メキリオはもっと陽気な男だった。」笑う事に満足すると、老人は勝手に語り出す。「そうさ、アルジ、今のお前の様に活気溢れた男だった。」
「じゃあ、何で今の様になったの?」
「さあなぁ…そこまでは知らん。気付いたら今のメキリオになっていた。」
ドーゼルはもぞもぞと口髭を動かして唸った。
「ふうん…じゃあ、僕もあんな風になるのかな。」
嫌だな。
口に出さないが、何だか詰まらない人生に思えてならない。
「そうとは限らんだろう。アルジは、どんなトルドーになりたい?」
「んー、まだ何とも。…これから、修行する中で決めていく。ただ、早く一人前になりたい。自分で何でも決められるように早くなりたい。」
今日、こうして街を歩いた様に。アルジは物心ついたときには、もうトルディア商会で暮らしていた。誰に言われた訳じゃなかったが、いつも負い目を感じて生きてきた。誰かの世話になっている。それが自分を縛っていた。
「メキリオと一緒の旅は嫌か?」
「そうじゃないよ。親切に教えてくれるし、僕の商売の師匠だよ。ただ、ちょっと陰気なだけさ。…そうだ、メキリオさんは、僕に呼び捨てにしろって言うんだ。最初は、『メキリオさん』とか、『親方』とか言ったんだけど、気持ち悪いって嫌がるんだ。何でだろう?」
「そうか。あいつはそんな奴さ。放っておけ。詰まらない拘りだ。」
突然、男が1人、開け放たれた店の入り口から転げ込む。アルジは入り口を背に座っていたから、激しい物音と男の荒い息遣いを聞いて驚く。振り返ったアルジのすぐ目の前の床に膝をついて、肩で息をする男がいる。白い襟無しのシャツは土埃で所々茶色く染まり、汗まみれだ。首に巻いたバンダナも土埃と汗にまみれて色褪せ、見る影もない。
男に気付いた店主が奥から出てくる。
「さあ、仕事の邪魔だ。出て行ってくれ。」
太い腕で男の腕を握り、強引に立たせようとする。
「済まない、匿ってくれ。」
日に焼けた男は、重い瞼の両目ですがるように店主を見上げる。
「冗談じゃない。関わるのは御免だ。」
店主は男を店の外へ引き摺って行く。太った店主の首に巻かれた色鮮やかなバンダナが、アルジの目の前を通り過ぎて行く。
同じサニキス人なのになんて冷たいんだ。
声を上げようとしたアルジの腕をドーゼルが引っ張る。アルジが振り返ると、黙って首を横に振る。
「でも…」
腕をつかむ手に更に力が籠る。抗おうとするアルジを、老人の皴の中の瞳が許さない。そうしている内に男は街路に放り出される。男は路上にへたり込み、悲哀に満ちた表情で店主を見上げる。
「いやあ、ご迷惑をお掛けしてすいません。」
皴枯れ声の太った大男が彼等に近付く。
あの男だ。ピューラの町で言い争いをした、いけ好かない男。
「さあ、戻りますよ。これ以上手間がかかると、何があっても私は保証できないから。」
大男は路上の男の腕を掴み、男の顔に自分の顔を近づけて凄む。男はがっくりと肩を落とし、よろよろと力無く立ち上がる。大男は男の背中に腕を回し、来た道を戻って行く。物事が片付いたと踏んだ店主は、2人を振り返りもせずに、さっさと店の奥に戻って来る。
「アルジ、そろそろ帰ろう。ギルドに戻るんだろ。送っていくよ。」
老人は残っていた酒を一気に煽ると立ち上がった。
帰りの道すがら、アルジは怒っていた。
「あいつは悪い奴だ。ザルケスタンに来る前の町であいつを見たんだ。町の隅で何か悪い事をしていたんだ。今日だって、男の人を無理やり連れて行っちゃった。」
アルジは老人に止められた鬱憤を晴らさずにはいられない。
「アルジの言う様に悪い人かも知れないが、無理やりは連れて行かなかったと思うぞ。男の人は観念して付いて行った様に見えたけどね。違うかい?」
「きっと、逆らえない何かがあるんだ。前の町で見た時も、男の人達はあいつに怯えている様だった。なんかとんでもない事をしているに決まってる。」
話している内に、だんだん怒りが増してくる。
「確かに怯えていたね。それで、もし私が止めなかったら、どうするつもりだったんだい。」
「そりゃ、勿論、あの男の人を助けるんだ。少しくらい体が大きい奴が相手だって、ビビったりしないんだから。」
「アルジは勇ましいんだな。助けるって言っても、私等に何ができる?あの大きな奴と喧嘩でもするかい?アルジは勇ましくても、私の様な老人では相手にならないよ。」
「ドーゼル爺さんには迷惑かけられないよ。僕1人で相手になる。結局、負けたとしても、あの男の人が逃げる時間ぐらい稼げるだろ。」
アルジは、ファイティングボーズを取ると、右の拳を前に繰り出す。
「おおう、立派な覚悟だ。アルジが戦っている間にあの男が逃げたとして、逃げ切れないだろ。もう、よろよろだった。早晩捕まってしまう。」
「…あの店のおやじさんだって冷たいよ。同じサニキス人が困っているのに、放り出しちゃうなんてさ。」
「うむ、冷たい。でも、冷たくしなければならない事情もあると思わないかい?あそこで男を助けたら、累が店主にも及ぶ。店主だけじゃない。下手をしたら店だって危ない。そんな危険な賭けができるかな。」
いちいち反論する老人に最初は苛立ちを感じていたが、少し頭が冷めたアルジは思い至る。
「ドーゼル爺さんは、何か事情を知っているの?」
老人は口髭を動かして笑みを作ると、前を見て歩きながら話し出した。
「あー、そうだなぁ。少しは事情が分かっている。だから、アルジの様に真っ直ぐに行動に移せないのさ。爺さんにはちょっとアルジが羨ましいよ。…あの男、店に逃げ込んで来た男がいたろ?あれは、岩塩鉱山から逃げて来たのさ。この辺の痩せた土地じゃあ生活が苦しい。生活の苦しさから抜け出そうと、纏まった金と引き換えに男達は山で働く。少しでも家族に楽をさせようとしてね。別に考えが甘い訳じゃない。山で働くのが辛いのはみんな理解している。それでも、露天掘りとは言え、炎天下の毎日の重労働は過酷だ。耐え切れなくなって、現実から逃げ出す者が出る。そういう事さ。逃げたあの男は、内では分かっているのさ。逃げてもどうにもならない事を。逃げる先なんか無い事を。」
「店のおやじさんも知っているのかな。」
「ああ。ザルケスタンで暮らしている者は、大概事情を理解している。それだけ、逃げて来る男が多いって事さ。」
「そうなんだ…助けても無駄だって事だね。」
「うーん、男の為になるとは言えないね。」
「じゃあ、僕が悪い人だって思った奴は、逃げた人を岩塩鉱山に戻すのが仕事なんだ。」
「今回はそうさ。でも、アルジがその前に見た仕事はまた別の仕事の様だね。どっちにしても、あいつは岩塩鉱山に人を駆り立てる番犬の役割をしているって訳さ。」
老人は、わざとあざとい言い方をした。
「番犬…牧場主の代わりに羊を追い立てている感じかな。」
「ヒャヒャヒャ、ああ良い表現だ。そう、番犬と言うより、牧羊犬だね。主人の顔色を窺う犬は、命じられた目的を実行するためなら、いくらでも冷酷になれる。主人は目的を命じただけで、やり方は犬が勝手に決めた事だと思い込む。主人も犬もお互い責任は自分に無いと思っている。誰かの責任にして自分を納得させられれば、人間はどんな残酷な事も成し遂げられるもんだ。…そうなると、主人がどんな奴等か気にならないかい?」
「主人?昨日、ドーゼル爺さんと会った時に見た馬車の人達?別に。気にならないけど。」
「やっぱり頭が良いね。それなら良い。気にしない方が良い。真っ直ぐなアルジが一人前のトルドーになるのには関係の無い事だから。」老人は1人で勝手に頷く。「アルジ、空を見上げてごらん。」
老人は自らも空を見上げている。言われて見上げたアルジの眼に左右の建物で切り取られた細長い青空が広がっている。
「雲1つ無い、あの空のどこかに光の差さない暗い陰があると言ったら、アルジは信じられるかい?」
アルジには老人が言いたい事が分からない。黙って空を見上げ続けている。
「底抜けに明るい空に隠れた陰があっても、眩しくて見付けられない。不思議じゃないさ。たとえその存在を知らなくても何の不都合も無い。自分の人生を不自由なく暮らしていける。でも、もし本当に見えない陰があるとしたら。そして、その陰が見えるかも知れないとなったら。アルジ、お前はその陰を見ようとするかい?」
「何だか分からないけど、本当にそんな物があるなら、見てみたいと思うよ。」
「もしかしたら、それがアルジをもっと幸福にするかも知れないし、或いは酷い不幸にするかも知れない。唯一断言できるのは、知らなかった時とはきっと違う人生になるって事さ。見ようとするかどうかは、アルジが決める事だ。」
アルジは答えなかった。そんなもんあるのかな?陽が傾いて青さを増した、自らの頭上に広がる青空にはそんな気配はまるで無い。
老人は歩みを止める。アルジは、今度は何かと老人を見遣る。老人は前方を指差した。
「ほら、このまま行けばギルドだ。見えるだろ。ここでお別れだ。今日は楽しかった。これから先も気を付けてな。」
アルジの目にも石造りの支部の建物が見える。
「うん。ドーゼル爺さんも元気で。」
アルジは意識して元気良く挨拶する。
「ああ、そうだ。今日私と会った事は、メキリオには黙っていた方が良い。」
老人はそう言うと、アルジが歩き出すよりも早く、今来た道を戻って行った。