南部の気風
メキリオが井戸の中に、ロープが結び付けられたブリキのバケツを投げ入れる。少しの間をおいて、井戸の底から水の弾ける音が聞こえて来る。メキリオの合図で、アルジはクランクを手で回し、ロープのもう一方の端が固定されている巻取りドラムを回転させる。
赤茶けた岩肌の崖がアルジ達を左右から見下ろしている。ワジと呼ばれる谷底の周囲は360度不毛の大地だ。生物はアルジ達とカーベル、それと高い崖の頂上近くを悠然と飛ぶ鷲の影だけだ。せめてもの救いは、太陽が崖の向こうに隠れ、井戸のある谷底は日陰になっている事だ。
「ほら、どうした。もっと力を出せ。」
井戸の脇で中を覗き込みながら、メキリオがアルジに発破を掛ける。アルジは歯を食いしばってクランクを回す。ドラムの回転につれてロープが巻き上げられ、井戸の底からバケツがゆっくりと上がってくる。力が必要でも最初のうちは調子良く回せる。しかし、なかなかバケツは地上に上がって来ない。腕と背筋がどんどん重くなる。漸くバケツが地上に姿を現し、メキリオから合図が来る。アルジはクランクから両手を離すと肩で息をする。
「アルジ、もう1回だ。」
メキリオは、汲み上げた水をカーベルに与えると、バケツを井戸の中に放り込んで叫ぶ。
また?1回で限界。
苦労して巻き上げたロープが、バケツの重みでいとも簡単に巻き解されていく。汗を滴らせながら、アルジはその様をうつろな瞳で見ている。勢いがついた巻取りドラムはロープが弛んでも回り続け、緩んだロープを逆に巻き取りながら回転して、ロープが張った所で止まる。アルジは大きく深呼吸してから両手をクランクに掛けた。
「ここは、サニキス人の井戸だ。お前達は了解を取っているのか。」
アルジがなけなしの力を振り絞ってクランクと奮闘している最中に男の声がした。アルジは声の主を振り向く。手を離したら元の木阿弥だ。体重をあずけてクランクを止め、腕を休める。
ラクダが3頭、井戸に近づいてくるのが見える。先頭のラクダの上に声の主と思しき人影が見える。
ラクダだ!本物は初めて見る。
興奮のあまりクランクから体を離してしまいそうになって、慌てて腕で支える。
「何だ、メキリオか。2人連れだから、判らなかったよ。」
男はかすれ気味の低い声で、井戸端のメキリオに話し掛ける。
「スオウ、久し振りだ。」メキリオはラクダの上の男に挨拶する。「アルジ、早く上げてしまえ!」
一喝を受けて、アルジは急いでクランクを回す。少し休めたからか、力尽きる前にバケツが地上に姿を現す。
「アルジ、もういいぞ。」
メキリオは汲み上げたバケツから2人の水筒に水を入れる。巻き上げ機から解放されたアルジは、メキリオから自分の水筒を受け取る。メキリオの近くまでラクダに乗って来たスオウは、細い棒で器用にラクダを操って座らせる。ラクダは野太い声で喚き散らす。いかにも不満そうな声だ。声に驚いて、アルジは2、3歩飛び退く。
「なんだ、独り者だと思っていたが、こんな大きな息子がいたのか。」
ラクダを降りながら、スオウはアルジを見ている。アルジも無遠慮にスオウを観察する。皺だらけの首、浅黒い顔、黒い瞳。黒い髪の上に小さな縁なし帽が載っている。
「息子じゃない。あずかった見習いだ。」
「へぇ。坊主、名前は何て言うんだ。」
スオウはアルジに顎を突き出しながら訊く。
「アルジ。」
遠慮がなく、ずかずか土足で入って来るような物言いをする中年を不快に感じながら、素っ気なく答える。
「アルジ?…そう言えば、さっきメキリオがそう呼んでいたな。いくつだ。」
「15。」
「ふん。良いか、アルジ。ここはサニキス人の土地だ。まあ、はっきりした証文がある訳じゃないだろうが…、この辺にはサニキス人しかいない。だから、この井戸もサニキス人の物だ。決してオーベル人は使えない。俺達トルドーは例外だ。」
「何で?水を汲んでも無くならないじゃないか。こんな所で水が無けりゃ、死んじゃうよ。」
「アルジ、お前も知っているだろ。サニキス人とオーベル人は仲が悪い。宿命だな。良いか、たとえお前の連れだったとしても、オーベル人と一緒の時は、この辺の井戸は使うな。お前にも害が及ぶぞ。」
スオウは顔をアルジに近づけ、臭い息を吐きながら、人差し指をアルジの鼻先に突き出す。アルジは勢いに押されて、目を丸くする。
「スオウ、井戸は空いたぞ。使うか?」
メキリオはバケツを井戸に落とす。
「いや、俺は良い。お前達はこれからザルケスタンに向かうのか?…荷が空なのを見ると、そうだろ。俺も行くところだ。一緒に行くか。」
スオウは向きをメキリオに変える。アルジはスオウの話し相手から解放されると、ラクダをしげしげと眺めた。太くゴワゴワしそうな毛で覆われ、長い首とは不釣り合いな丸々と膨れた腹をしている。何を噛んでいるのか、涎だらけの口を始終動かして、長いまつ毛が生えた瞼を半ば閉じた眠そうな眼でこっちを見ている。
「お前、ラクダが珍しいのか。」
油断していたら、スオウの矛先が戻って来た。
「は、初めて見た。」
「そうか、じゃあ、乗ってみるか。」
スオウはアルジの腕を取りながら、ラクダを指差す。
「いい、いい。僕は馬車の方が良い。」
スオウの腕を振り払い、急いで馬車の御者台へと逃げ込む。スオウはアルジの慌てようを鼻で笑い飛ばして、それ以上しつこく絡もうとはしない。御者席に逃げ込んだアルジを一瞥して、1人悠々とラクダに跨る。
「メキリオ、ザルケスタンまでは2日の行程だ。今夜はどうするつもりだ。」
御者席に乗り込んだメキリオに向けて、スオウは声を掛ける。
「岩山の麓で野営するつもりだ。」
手綱を手に取り、スオウを振り返る。
「それなら、街道から西に外れた所に小さな町がある。そこに行こう。俺の知り合いのサニキス人が安い値段で泊めてくれる。まともな食事にありつけるぞ。」
「どうする?」
メキリオは、隣のアルジに小声で尋ねる。まともな食事と聞いて、思わずアルジの口の中は唾液でいっぱいになってくる。
「えっと、お金と時間に余裕があれば…。」
アルジの生唾を飲み込む気配に、メキリオの口元が緩む。
「ああ、それじゃあ、連れて行ってくれ。」
メキリオは大声でスオウに返事をすると、カーベルを手綱で叩いた。
デクレシアの中央で東西に連なり、国土を南北に二分する山脈で降った雨が、川となって南部を流れる。山を下った幾筋もの大小の河川は、雨の降らない大地を潤しながら、南に下るほど細くなり数が減り、遂には地表から姿を消す。その先には乾いた荒野が広がる。地下の伏流水を目掛けて掘られた井戸がそこに住む者達の命の水になる。
町までの道すがら、馬車とラクダは並んで進んだ。広漠とした荒れ地はどこが道か定かでない。道でも路傍でもごつごつとした大小の石が往来を邪魔するのは同じだ。こんな場所では車輪で動く馬車よりも四足歩行のラクダの方が向いている。車軸を傷めない様に慎重に進む馬車とは違い、ラクダは黙っていても石をよけて歩き、むしろ速い。
無口なメキリオとは対照的に、スオウは話好きだ。スオウは道中、ほぼ1人で喋り続ける。彼にとって、メキリオとアルジは、旅の孤独を紛らわす格好の話し相手だ。いつもは御者役を交代しながら進むのに、今日はスオウの相手をアルジに任せて、メキリオは御者に徹して澄ましている。何でも珍しいアルジには、退屈な御者の役よりスオウと無駄話をしている方が有難い。
スオウは色々な話をした。最初に、彼が扱う商品がナツメヤシの実で、プランテーションで仕入れてザルケスタンで売り捌いている事、今まさに、ラクダに積んだナツメヤシの実をザルケスタンに運ぶ途中な事を話した。
「どうだ、食べてみるか?」
スオウは悪戯そうな顔をして、自分のラクダに付けた革袋の中を後ろ手に探ると何やら茶色の粒を取り出し、隣を進む馬車に向かって放る。アルジはガタガタ揺れる馬車の揺れに惑わされて、危うく落としそうになりながら、その粒を受け取る。
萎びて皺だらけの茶色の実。
「食べてみろ。」
隣でスオウが促す。恐る恐るその粒を少し齧る。強い甘みが忽ち口中に広がる。こんなに甘い食べ物が世の中にあるなんて。アルジは思わず目を丸くした。スオウはその表情を見て、満足気に笑っている。
「どうだ?それがナツメヤシの実だ。」
「凄い!美味いよ、これ。毎日これに囲まれてたら幸せだよね、スオウさん。」
スオウは声高らかに笑う。
「ねえ、ナツメヤシの商売って大変なの?僕でも修業すればできるかな。毎日、好きな時にこれが食べられたら、言う事ないよ。」
「おいおい、これは商品だ。自分で食べてちゃ商売にならない。目の前にあるのにおあずけをくっている気分だぞ。それでも良いのか。」
「ちょっと自分の分を取っておけば良いんだろ。これは本当に美味しい商売かも。」
アルジは手の中に残っていた実を全て口に入れると、その甘さをゆっくりと味わう。
「そうだ、そうだ。良いぞ、アルジ。」
スオウは笑いながら囃し立てる。
「アルジ、まだ何も習得していない内から、気が早過ぎないか。」
メキリオが前を見たまま、低い声を上げる。
「分かっています。ちゃんと修業を終えてから、よく考えて決めます。」
口では、神妙な事を言う。
「やれやれ、親方メキリオ様は厳しいねぇ。」
スオウは上機嫌だ。
こんな美味い物が世の中にあるのか、本部でシェバリク会長と生活していたら、一生知らなかったに違いない。ちょっと外に出ただけで、こんな素晴らしい物に出会うんだ。デクレシア中回ればもっと凄い物がきっとある。アルジは自分の気持ちが弾んで来るのを感じる。でも何故、メキリオは不満そうなんだろう。
「ねえ、どうしてメキリオは、岩塩の商売をしているの?」
「別に理由は無い。…強いて言えば、自分の性に合っているからだ。お前には合わないかもな。まあ、南部の気風がお前に合っていれば、ナツメヤシを商うのも良いだろう。」
「南部の気風ねぇ…」
それまで大声で囃し立てたり、笑ったり、賑やかだったスオウが、一転、静かに言う。
南部の気風?このカラカラに乾いた天候の事かな?
アルジはメキリオとスオウを交互に見遣る。どちらも、前を見たまま、暫く黙っていた。
目的の町には、陽が落ちてしまう前に到着した。
メキリオ達の行く手に幾つかの家と灌木が見えてくると、前を指差してスオウが口を開いた。
「あれが目的の町ピューラだ。街道から外れているから、トルディア商会の支部も、トルドーも居ない。少なくともこの前俺が訪ねた半年前まではそうだ。サニキス人だけの小さな町。住人達は、井戸の水を汲み上げて作る僅かな作物と山羊を飼って暮らしている。…金にならない町だ。」
最初はメキリオ達に聴かせるように話し始めたが、最後は独り言の様になると押し黙った。
「金にならないなら、何でこんな町に知り合いがいるんだ?」
メキリオはスオウの言葉尻と捉えて、冷たく切り込む。
「なぁに、情報を得るのも俺達の仕事には必要だろ。そうだ、アルジ、商売で成功しようと思ったら、情報は大切だ。」スオウは話の矛先をアルジに向ける。「まずは、基本的な情報から確認するぞ。サニキス人はどうやって区別する?」
「そんなの常識じゃないか。バンダナと髪紐だ。」
アルジは勢い込んで即答する。
サニキス人の男は首にバンダナを巻いている。原色を配した色とりどりのバンダナを思い思いの巻き方で身に着けている。女は、これも原色を配した組紐を使い、髪を思い思いの形で結んでいる。原色で目立つそれらの特徴で彼等を識別するのは子供でも容易だ。
「ふん、ならば、その色の意味を知っているかい?」
スオウは悪戯っぽい笑みを浮かべて重ねて訊く。
「意味?知らない。そんなのあるの?」
アルジは素直に答える。
「黒は伝統、青は信仰、赤は結束、オレンジは情熱、そして白は正義。彼等は家ごとの配色を親から子に受け継いでいく。同じサニキス人同士ならば、配色を見れば、どこの出の人間か判るそうだ。」
スオウは自慢気だ。
「それが、商売の役に立つのか?」
メキリオが横槍を入れる。
「判るもんか。いつどんな知識が役に立つとも限らん。知っていて損する事はあるまい。」
スオウは声を大きくして反論する。それ以上、メキリオもアルジも口を開かなかったため、話はそこで切れた。
町は数えられる程度の家が町の中心と思しき道の両側にてんでにあるだけだった。その中でも、比較的大きな石造りの家の前でスオウはラクダを止めた。家の中からドアを開けて、中年の女性が顔を覗かせる。自分の家の前にラクダと馬車が停まり、その商隊の中にスオウが居るのを認めると、急いで顔を引っ込めた。
ラクダを座らせてスオウは地上に降り、家の入口に向けて歩き出す。同時に、家の入口が開いて中から小太りの男が1人、勢いよく飛び出して来る。
「スオウじゃないか。元気かい。」
男は、スオウの両腕をポンポンと叩きながら、満面の笑みを浮かべる。
「ああ、親父さんも元気そうじゃないか。」負けずに、スオウも男の肩を両手で叩く。「今日は、連れと一緒なんだ。済まないが、一緒に泊めてもらえないか。トルドーのメキリオと見習い中のアルジだ。」
「メキリオです。よろしく。」
メキリオは男に近づくと、短く握手をする。
「あ、アルジです!」
馬車の傍から、声を上げる。半分声が裏返ってしまうのが恥ずかしい。
「ああ、こんにちは。…ゆっくりしてくれ。部屋の準備をしよう。」男は、家の中に戻りかけて、振り返る。「馬車とラクダは、家の裏に回してくれ。納屋は狭くて、入りきらないが、馬草は充分にある。」
言い終わると、1人で頷いて家の中に消える。
「俺は、まず荷を家の中に入れさせてもらう。サニキス人は信仰に篤い人達だ。自分達は神様に守られた特別な民だと思っている。教義に背く悪さをすれば、天国に連れて行ってもらえないと思っているから、人の物を盗むような奴はこんな所に居ないと思うが、転ばぬ先の杖。この荷が無くなったら、俺も家族も生きていけないからな。」
スオウは残り2頭のラクダに括りつけられた荷を降ろしながら語って聞かせる。
「手伝おう。」メキリオは、直ぐにスオウの重そうな荷に手を出す。「アルジ、俺の馬車を家の裏手に回して、カーベルに草と水を与えてくれ。今日の悪路で蹄鉄を傷めている可能性がある。確認してくれ。」
「分かった。」
何をしなければならないか、イメージできる。アルジは手綱を持って、カーベルの前に回る。
「…特別な神の御加護を授かるんだ。それなりの浄財が必要なのは当たり前じゃないか。え?」
反対の道端から声が聞こえた。皺枯れた男の声は生理的に嫌悪を感じさせる。見ると、大柄の太った男が2人の痩せた男達に話している。どちらも目立つバンダナをしている。
「これ以上は無理だ。何とかしてくれ。」
1人の男が手に持った紙の包みを大男の前に差し出す。
「ああ。正しい行ないには福音を以って答えて下さる。安心してくれ。」
大男は包みを片手で取り上げて、猫撫で声を出す。
一体、あいつ等は何をしているんだ?
雰囲気から怪しい事をしているのはアルジにも判る。
2人組の内の1人が、視線に気付きアルジを見る。その男の様子を見て、大男もアルジを振り返る。
「おい、坊主。何見てるんだ。何か言いたい事でもあるのか。」
声を荒げて、大股で大男がアルジに近づいてくる。
「見られちゃ困る様な事してたんだ。」
大男が怖くない訳じゃない。でもここで引き下がれば負けだ。
「お前はサニキスじゃないな。…そうか、トルドーか。オーベルなら、そんな粗末ななりをしていないだろ。」
大男は鼻で笑う。
「トルドーで何が悪い。ちゃんとした仕事をしているんだ。」
ついつい、声が大きくなる。ちゃんとした仕事と言ったものの、自分がそれに値する役割をこなせているのか、本当は自信がない。
「は!仕事だ?お前の様な餓鬼にどんな仕事ができるって言うんだ。そうやって、馬を引いて歩くのがやっとだろ。」
「これだって、ちゃんとした仕事だ!そう言うおじさんだって、どうせ碌な仕事してないんだろ!」
「何だと、この餓鬼が。同胞を助ける崇高な仕事を侮辱する気か!」
「さっき、あの人から何か取り上げてたじゃないか!」
「おい、アルジ。何をやっている。」
大男との言い合いに気を取られていたが、騒ぎに気付いたメキリオが直ぐ傍まで来ていた。
「何だ、お前は。」
反応するのは、アルジより大男の方が先だった。
「この少年の保護者だ。」
「ふん、トルドーか。一体どういう教育をしているんだ。こいつは何もしていない俺に難癖をつけて来たんだぞ。」
今度はメキリオに詰め寄る。
「あんたはいい大人だ。そんな大人が、子供の言う事を一々まともに取り合うのか。」
「こいつは、俺の仕事を馬鹿にしたんだ。」
大男は、アルジを指差す。
「何言ってんだ、先にそっちが僕の仕事を馬鹿にしたんじゃないか。」
アルジも負けていない。
「おい、ここでサニキスを敵に回して無事に済むと思っているのか?」
大男は上から見下ろす様にメキリオに迫る。
「あんた、トルドーに対して喧嘩を売ろうっていうんだね。」
メキリオは低い落ち着いた声を出すと、下から大男を睨み上げる。
「ちょ、ちょっと…、ジェジベルさん、こんな所でやめて下さい。私の慶事に縁起が悪い。」
包みを渡した男が、弱々しい声で2人の脇から止めに入る。
「メキリオ、なんだ?何の騒ぎだ?」一度荷物を家の中に置いて戻ってきたスオウが、騒ぎを聞きつけて顔の覗かせる。メキリオと睨み合っている大男を認めて何が起きているか事情を察したようだ。「お前…」大男の顔を見つめて、そう言ったきり口をつぐんだ。
「そうだな。あんたの門出を穢しちゃいけない。ここは、あんたに免じて引き下がるとするよ。」
割って入った痩せ男に向けて話しているが、獣の様な目はメキリオを睨んでいる。大男は言い終えるなり、くるりと背を向けてその場から立ち去る。痩せ男の2人はおろおろしながら、その後ろを付いていく。
「なんだよ、謝罪も無しかよ。」
去っていく大男達の後ろ姿に、気が大きくなったアルジが呟く。
「アルジ、早く馬車を裏手に回せ。」
大男達が遠ざかるのを見届けて、何も無かったかの様にメキリオはアルジに早口で指示すると、自分はスオウの荷物運びの手伝いに戻る。スオウは暫く大男の後ろ姿を見遣っていたが、結局何も言わずに自分の荷物の世話に戻った。
夕食は、山羊の肉のシチューだった。腹一杯我慢せずに食える状況に飢えていたアルジはガツガツと腹に詰め込んだ。満腹の時に出されたら、それ程の料理では無いのかも知れない。だが、その時のアルジには至高の料理に思えた。
「若いもんの食べっぷりは、気持ちが良いね。」
家の主人は出っ張った腹を震わせて笑う。
「少しは遠慮ってものを覚えろ。」
家の者に気付かれない様に、タイミングを計ってメキリオが囁く。言われてアルジが食べるのを控えた時は、もう粗方満足した後だ。
「なあ、スオウ。さっき、ジェジベルと何かあったのか?」
主人は自分も食事を摂りながら、急に話題を振る。
「何?…ああ、ここに着いたときに、メキリオが睨み合っていた大男か?あいつ、そう言う名前なんだ。」
スオウは口から滓を飛ばしながら、周囲を憚らない声量で話す。
「さっきな、ジェジベルの使いがお前たちの素性を調べに来たよ。」
「なんだって!あいつ、何するつもりだ。」
「大丈夫、『教える事は何も無い』と言って、追い返したよ。」
「なあ、俺達と関わりがある事で、迷惑をかけちまうんじゃないか?」
スオウは少し不安気な声になる。
「ああ、気にするな。あんなサニキスの風上にも置けないような奴は、気にする事はない。」
主人は安心させる為でなく、本心から大男の事を嫌っているのだとアルジにも分かる。
「やっぱり、嫌な奴なんだ。道端でなんか胡散臭い事している感じだった。」
偉そうにアルジが声を上げる。
「お前さんがいざこざのきっかけかい?あいつに何をしたんだい?」
主人は半分呆れている。
「何もしていないよ。僕が見ていたら、勝手に寄って来て、『何見ているんだ』って突っ掛かって来たんだ。」
「余程、見られたくないところを見られたと思ったんだな。」
メキリオがぼそりと呟く。
「見られたくないもの?そうだったかな。」
アルジはその時の情景を思い浮かべながら、首を傾げる。
「坊主、何を見た。」
スオウは少し面白気だ。
「あいつが、痩せっぽちの冴えない2人の男と話してたよ。…そう、何か受け取ってた。」
アルジは天井を見上げて、その時の情景を思い浮かべる。
「そう言えば、俺とあの男の睨み合いに、その痩せた男が仲裁に入ってきた。なにか、縁起が悪いとか言っていた。」
メキリオも、自分の皿の上でスプーンを滑らせながら、その時の情景を思い浮かべている。
「縁起か…きっと、その痩せた男は、自分の門出を穢されるのを嫌ったんだ。」
主人の声のトーンは一段低くなった。
「門出?旅に出るのか?」
メキリオは訊き返す。
「そうじゃない。…ジェジベルは、斡旋業者だ。」主人が答える前に、スオウが口を挟む。「トルドーとは違う商売。俺達は物を商う。あいつは人を商う。トルドーが手を出さない商売だ。良いかアルジ、憶えておけ。俺達トルドーは、銭を使って人と商売をするが、銭も人も商品にはしない。」勢いよくテーブルに手を付いた拍子に大きな音を立てながら、スオウが立ち上がる。「さあ、寝るとしよう。明日、夜明けとともにここを立てば、午にはザルケスタンに着ける。お前はトルディア商会に寄るんだろ。そのくらいには着いた方が良いだろう。」
「ああ、市場の情報を得てからじゃないと、動きがとれん。」
スオウの言葉を受けて、メキリオが応じる。
「うむ。」
スオウは、満足気に頷く。
「すまんが、部屋は1つ、ベッドは2つしかない。」
家の主人は、済まなそうに言う。
「良いよ、僕は納屋で寝る。」
アルジは膨れた自分の腹に満足して、自分から買って出る。
「毛布を持って行け。この辺りでも夜は冷え込む。一旦部屋へ行こう。」
スオウすらアルジの申し出を止めもしないし、礼を言うでもない。
自分から言い出さずに、様子を見れば良かった。
当たり前の様な顔をしているのが、アルジにはちょっと悔しい。3人で一旦部屋に行くと、アルジは自分の荷物から、毛布だけ取り出した。
「それだけで良いか?」
メキリオの目は優しい。
「うん。」
「残念ながら半月だが、目が慣れれば、明かりがなくても困らないだろう。」
「ランプを持たせると、火事が怖い。」
スオウも同調する。
アルジは毛布を抱えると、家の勝手口から裏手に出た。納屋の傍にカーベルが繋がれている。
「やあ、カーベル。」
薄闇の中でカーベルの目が瞬いている。少し離れて、3頭のラクダが座った状態で脚を縛られている。何も繋ぐ場所がない荒野でも、ラクダが勝手に逃げ出さない様にする工夫だ。ラクダ達は首を向けて、カーベルに挨拶をしたアルジを見ている。アルジは、決してラクダに近づかない様に注意しながら移動し、納屋の中を覗いた。
月明りだけでは、納屋の中を探るには不充分だ。暗闇の中に立って、暫く目を凝らしていると、漸く納屋の中の様子が見えてくる。片側に干し草が山に積まれている。しかし、場所が狭く、いくら子供のアルジとは言え、その上に乗ろうものなら、山は農機具の上に崩れてしまいそうだ。上手くバランスがとれたとしても、バランスをとったまま、寝続けられる自信はない。アルジはそのまま納屋を出て、馬車の荷台に毛布を置くと納屋に戻り、一抱えの干し草を取って来て荷台に載せる。そうやって、干し草を2、3度納屋から荷台に運ぶと、最後に自分が荷台に上がり、運んだ干し草を均等に広げて寝床を作る。干し草の寝床の上で毛布にくるまる。塩梅良く毛布で干し草がチクチクしない。仰向けになると、半月で月光が弱い分、星の光が強く見える。雲の無い南部の夜空は視界に入る全てが満天の星の海だ。虫の声に混じって、風に乗ってどこからか誰かの祈りの声が聞こえる。アルジは目を閉じた。明日は目的地ザルケスタン。どんな街だろうか。想像を巡らせる間も無く、彼は眠りに落ちた。
「さっきは、何故話を切った。」
ベッドに寝転がり、天井を見つめたまま、メキリオはスオウに話し掛ける。
「え?何の話だ?」
もう1つのベッドに腰掛けて、靴の紐を解きながら、スオウは訊き返す。
「食事の時、言い合いになった男の話を途中で切った。」
「ん?…そう感じたか?」
「当たり前だろ。何故だ。」
スオウは靴を脱ぐと、ベッドに座ったまま、壁を見つめて話し始めた。
「あの男は斡旋業者だ。…さっき、言ったか?斡旋業者。そう言えば聞こえは良い。だが、要は人買いだ。この辺りじゃ、ろくな作物ができない。草を育てて、山羊を飼うにも水が必要だ。自力で汲み上げる水が頼りじゃ、規模は高が知れている。みんな、貧しさに耐えかねて、鉱山やプランテーションで働く方がましだ思う。働きたいと思う奴は後を絶たない。あいつはそれに付け込んで、職を探す者と会社の両方から紹介料を取っている。…こんな話、アルジに聞かせない方が良いだろ?」
「あいつには社会勉強が必要だ。…だが、急にいろんな話があっても、混乱するだけだな。」
「今から、お前と同じ眼つきにさせたい訳じゃないだろ。」
「気を遣わせたな。済まない。」
「どういたしまして。メキリオ様からそんな言葉が出るとはね。」
スオウは両手を広げて見せると、足を上げて自分のベッドの中に潜り込んだ。