白い花
最初にメキリオは、自分の商売の話をアルジに教えた。南部の町ザルケスタンで岩塩を仕入れて、北部の首都シャルアに運んで得意先に売る。この国、デクレシアを南北に縦断する長い行程になるが、単価の安い岩塩の輸送は盗難に遭う危険が無くて安全だ。生活の必需品だから需要は無くならない。南部の採掘量も充分だから、利ざやは少ないが安定した利益が見込めると話した。
「トルドーはみんな、岩塩を商っているんですか?」
轍の掘れた荒れた道がどこまでも続く。わずかな風でも土埃が舞い上がり、正面から顔を襲ってくる。絶えず上下左右に揺れる馬車に慣れていないアルジは、時々姿勢を変えたり、尻の下に手を敷いて痛む尻を庇っている。
「そんな事は無い。むしろ、地味な岩塩を商売の対象に選ぶトルドーは少ない。お前も独り立ちしたら、何を商うかは自分で選べ。」メキリオは半ば笑っている。「トルドーは皆、トルディア商会に所属している。食品を扱う者、布や衣服を扱う者、金銀、宝石を扱う者も居る。国中のあらゆる町にトルディア商会の支部がある。俺達は支部の事をギルドと呼んでいる。そこでは、色んな品物を扱うトルドー同士が出会う。お前が居た本部だと、尚更沢山のトルドーに出会った筈だ。そうじゃなかったか?」
「んー、いつも旅のトルドーが沢山やって来て親父さん…シェバリク会長と良く話をしていたけど、僕は馬の世話や馬車の手入れが役割だったから、積み荷は気にした事が無かった。」
「ははは、そうか。熱心に手伝いをしていたからか、遊んでばかりでろくに馬車を気にしていなかったのか、どっちだ。」
どう見ても、メキリオはアルジが真面目に働いていたとは思っていない。
「そりゃ、ちゃんと仕事をしていたよ。仕事に集中してた…んだと思う。」
どうも、いろいろ思い返してみると自信がない。
「そうか、これからは、自分の生活が懸かっている。サボっても誰も叱りはしないが、食っていけなくなるぞ。」
「分かっているよ。」
いつもカペルがちょっかいを出すから、手伝いに集中できなかっただけさ。
アルジは、自分に言い訳しながら俯いていた。メキリオは、アルジの話し方に余所余所しさが消えた事に満足していた。
デクレシア国の中央で南北に国土を分かつ様にそびえる山脈にぶつかった北からの恒常風は、上昇気流となって山脈一体に雨を降らせる。山を越えた風は、今度は乾いた風となって、南部の大地を渡って行く。その風に背中を押されてカーベルの引く馬車は進む。
アルジは、馬の扱いをメキリオに教えてもらい、メキリオと交替で御者を務めた。ずっと本部で育ったアルジにとって、旅の初めは全てが新鮮で刺激的だった。何の変哲もない風景すら例外ではない。馬車の上から眺める景色は、同じ様に見えながら少しずつ移ろっていく。カルー市を出てから数日は、大小の町が点在し、街道沿いには手入れの行き届いた麦畑や果樹園が広がっていて、そこに暮らす人々の活気が感じられる。山脈から流れ下る大きな河から引いた運河が何本も走り、その周りには背の高い木が風になびいている。日が暮れれば近くの町に入り、そこにある支部に行って、安い値段で部屋を借りる事ができた。尻の痛さに悩まされながらも、曲りなりにもベッドと呼べる家具の中で、夢を見る事も忘れて眠った。
やがて人の住む町はまばらになって行く。それにつれて畑や果樹園、運河の数が減り、草原ばかりが続く様になる。ちぎれた雲がぽつりぽつりと浮かぶ青空の下、緩やかに隆起した丘を覆う草原の中を道は蛇行しながら続いている。所々に広葉樹がひと塊の小さな林になって、草の海に浮かぶ島の様だ。昼の日射しは遮る物の無い草原の草の葉の上で反射して、手綱を操るアルジの目を傷めつける。夕暮れになれば、草原も道も馬も全てが朱に染まる。変化の乏しい風景は、馬車の旅に慣れて気が緩み始めたアルジを飽きさせた。メキリオが御者を務めている間、時に馬車の荷台で空を眺め、或いは、御者席でうたた寝して転げ落ちそうになり、メキリオにひどく叱られもした。
初めて野宿も経験した。火の起こし方を学び、干し肉を火で炙って食べた。いつも言葉の少ないメキリオは更に無口になった。焚火と向き合っていると、自分の背後にある暗闇が、何だかとても気になる。背中がざわついて居心地が悪い。アルジは兎に角何でも良いからメキリオに話し掛ける。それでもメキリオは、「ああ」とか、「そう」とか最低限の短い言葉しか発しない。シェバリクが持たせてくれた毛布を解いて包まり、気持ちが落ち着いてくると、アルジも無口になった。火の番の仕方を教えてもらいながら夜が更ける。背の高い木のシルエットに縁取られた星空が見下ろしている。交代で火の番をするつもりが不覚にも寝込んでしまって夜明けを迎えた。メキリオに揺すられて飛び起きたが、それ以上怒られはしなかった。ただ、ごつごつした地面の上で寝た体は、動く度にそこら中酷く軋んだ。
ある日の昼間、メキリオは道端の空き地に馬車を停めた。
「カーベルに馬草をやる?」
馬車が止まるなり、馬車を飛び降りながらアルジが訊く。
「いや、まだ良い。それよりもアルジも手伝ってくれ。」
メキリオは手綱を近くの木に結びつける。
何を?
アルジは意味が理解できずにメキリオを振り返る。メキリオはアルジに見向きもせず、馬車を離れて街道を横断して行く。付いて行けば分かるのだろうと解釈して、アルジも街道を横切る。街道脇の小高い土手に登ると、その向こうは広々とした草原が広がっている。名も知らない背丈の低い草が一斉に白い花をつけ、日を一杯に浴びて輝いている。草原の上を渡る風に吹かれて、花同士調子を合わせて揺れている。メキリオは、土手から草原の中へ、ためらいもせず降りて行く。
「何するの?」
メキリオに追いつきながら、彼を見上げて訊く。
「花を摘むぞ。」
「花?」
「そうだ。足元に沢山咲いているだろ。」
アルジは言われるまま、足元に広がる花の波を見回す。
「花の摘み方は教えなくても分かるよな。」
「花だけを摘む?株ごと引っこ抜く?」
アルジの問いをメキリオが鼻で笑う。
「男の子だな。花摘みをして遊んだ事は無いか。本部に女の子は居なかったか。」
「そんなの、居ない。男が女と一緒に遊んだりするもんか。」
アルジは憤慨している。
「そうか、それは済まない。でも、本部に女の子は居なくても、カルーの街中には女の子もいるだろ。女の子の知り合いは居ないのか?」
メキリオは面白そうにアルジの表情を覗き込む。
「居ないったら。これでも手伝いで忙しかったんだ。」
「こうやって」メキリオはその場にしゃがみ込むと、1本花を摘んで見せる。「…手でまとめて握るくらいの茎を残して摘んでくれ。」
アルジはそれを見て軽く頷くと、腰を屈めて花を摘み始める。
「できるだけ、綺麗に咲いている花を選んでくれよ。」
アルジが摘み始めるのを確認してから、メキリオも自分の作業に専念する。
「どのくらい摘めば良いんだ?」
2、3本摘んだ所で、メキリオを振り返って訊く。
「そうだな…、片手で掴めるだけ摘んでくれ。」
「分かった。…これって、商売に必要?」
アルジは足元を見回し、見栄えの良い花を選んで摘んでいく。
「必要な事だ。…商売じゃない。むしろ、人間として必要な事だ。」
花を摘むのが?
アルジは不思議に思ったが、それを口にはしなかった。時折、メキリオの様子を窺いながら、花を摘む。
「どうだ?沢山摘めたか?」
メキリオは片手に花の束を持って立ち上がり、背筋を伸ばす。アルジは片手に集めた花の束を高く掲げて、メキリオに示す。
「うん。まあ、そんなもんだろう。」満足気に笑みを見せてメキリオは1つ頷く。「さあ、萎れない内に出掛けるとしよう。」
そう決めてしまうと、メキリオは片手に花束を持って、元来た土手へと大股で歩いていく。アルジが素直に付いて来ると疑いもしない。
何に使う?
アルジは喉まで出掛かったが、何故か訊いても答えてくれる気がしない。自分が握っている白い花束を遠ざけてみたり、裏返しみたりして一通り眺めながら、黙ってメキリオの後に続いた。2人は花が傷まない様に、花束を馬車の荷台の隅にそっと置く。それをそのままにして、馬車に飛び乗り走らせる。花の使い道を気にしながらも、黙って手綱を操るメキリオの横で、アルジも黙っていた。次に馬車を停めるまで、そう長くはかからなかった。今度は小川の畔に馬車を入れると、メキリオはカーベルを馬車から外した。
「カーベルを休ませてやろう。この先、水場は殆ど無くなる。ここでカーベルの体を洗ってやるんだ。…アルジ、お前にできるか?」
「勿論!本部じゃ、馬の世話が自分の仕事だったって言ったろ。」
「そうだったな。じゃあ、任せたぞ。俺は、近くの丘まで行って来る。」
何しに?
気にはなるが、これも訊かずに済ます。
メキリオは荷台から鎌と麻袋を持ち出すと、ついでに隅にまとめて置いた白い花の束から1輪摘み上げる。
「1つ、貰っていくぞ。」
メキリオはそう言って、麦わら帽子を脱いで網目の綻びに茎を通し、花を落とさないように気を付けながら頭に被る。
何だか、女性に会いに行くみたいだ。
アルジはメキリオの様子を横目で見ながら、カーベルの手綱を引いて小川に導く。いつもはアルジを馬鹿にして言う事をなかなかきかないのに、洗ってもらえると知ってか知らずか、カーベルは素直に引かれて行く。少年と馬の後ろ姿を微笑みをもって見送ってから、メキリオは緩やかな登り坂の小径に向かう。
白い雲が浮かんでいても、雨雲になる事は滅多に無い。雲に遮られない強い日差しが小径を行くメキリオを苦しめる。まばらに立つ照葉樹の木陰に入る度、休みたい誘惑に襲われながらも気持ちを立て直して、どこまでも続きそうなだらだらとした坂道を登って行く。全身が汗まみれになる頃に、忍耐を試される上り坂が漸く終わり、丘の上に出る。小高い丘の上にも馬車が通れる広い道があり、道の両脇には照葉樹の林が広がっている。メキリオは少しでも涼を得ようと木陰で立ち止まり、首筋の汗を袖口で拭う。樹木の根は地中深くに存在する地下水まで届いても、下草の貧弱な根ではかなわない。照葉樹の根元に下草は育たず、固い赤土がむき出しになっている。メキリオは、暫く木陰で休んでいたが、意を決して歩き出す。道沿いに並ぶ照葉樹を1本1本、丹念に、まるで樹木を品評する様に、幹の根元から枝振りまで確かめる。やがてその中の1本の前で立ち止まると、少し離れて眩しそうに枝葉まで見上げ、次には、近づいてポンポンとその幹を叩いてみる。その後で、道沿いからその木の裏側に回り込む。木陰で麦わら帽子を脱ぎ、その網目から白い花を抜いて赤い地面の上にそっと置いた。上体を起こして麦わら帽子を胸に抱き、地面に置いた白い花を見下ろす。時折吹く風に木漏れ日が揺れる。メキリオの麻の服の裾も、麦わら帽子のつばのほつれた藁の先も揺れる。赤い土の上で白い花も微かに揺れている。
メキリオは口元に笑みを浮かべると、麦わら帽子を被り直してその場を離れる。もう振り返らない。鎌が入った麻袋の紐を自分の肩から降ろし、手に持ち直すと、丘を反対側に降りて行く。その先の窪地には水が湧き、柔らかい、カーベルが好む草が密生している筈だ。
アルジはカーベルを小川の中に引き入れると、桶で水をかけてやり、ブラシで隈なく擦ってやった。カーベルを洗い終わって、自分の体も水に浸したタオルで拭う。川岸に座り、両足を水の流れに浸して、ぼんやりと空を見上げてメキリオを待つ。振り返ってみれば、カルー市を出てからずっとメキリオと一緒に居た。こうして独りで見知らぬ土地に放り出されたと実感する事は無かった。いつかメキリオの元を離れて独りで商売をするようになれば、嫌でも独りきりだ。頼れる相手は居ない。そうでなくても、例えば、メキリオに何かがあってこのまま戻って来なければ、ここが何処で、何処に向かえば町があるかも知らないまま、自分で行動を起こさなければならない。途轍もない不安と僅かな解放感が全身の血を沸き上がらせる。アルジは、その感情を噛み締めながら目を閉じた。
今まで経験した事も無い、遠く隔絶された孤独に自分は耐えられるのだろうか。見知らぬ街の雑踏、青い空を映して澄む湖、丘から見下ろす広漠とした不毛の原野…馬車を駆り、うねりながら視界の彼方まで続く道を行き、未だ出会った事の無い人達と言葉を交わす…アルジは想像の中で自由に旅をする。
「どうだ、終わったか。」
目を開けると、青空を背景に麦わら帽子の輪郭がシルエットになっている。
「ああ、ばっちりだ。カーベルも機嫌が良い。」
「さあ、出掛けるぞ。」
メキリオは1つ頷くと、カーベルの手綱を拾い上げる。
「え?もう出掛けるんだ。」
アルジは足を流れから上げて、慌てて水を拭う。
「次の場所はすぐ近くだ。そこまで行ってから俺達も休憩にしよう。」
メキリオはカーベルを土手に引き上げ、馬車に繋ぐ。アルジは急いで靴を履くと土手を駆け上がり、御者台に飛び乗った。
メキリオは暫く馬車を走らせて、再び道端の空き地に馬車を停めた。林に囲まれた空き地は広く、奥にレンガ造りの煙突が、半ば崩れて煤けた姿を晒している。アルジは周囲の林から見下ろされている様なこの空間に何か異様な雰囲気を感じ、辺りを見回した。
「さあ、カーベルには草をやろう。桶を持ってきてくれ。」
メキリオはさっき自分が刈って来た草の入った麻袋を抱え上げる。言われて、アルジも荷馬車の後ろに回り、荷台から木桶を引き摺りだす。
「今度は、あの白い花を使うぞ。」
カーベルが桶に入れた草を夢中で食べ始めると、メキリオはアルジを見下ろして馬車の荷台を指差す。
使う?
自分が商人として活躍する夢想に囚われたままだったアルジは、すっかり白い花の事など忘れていた。使うイメージが想像できないまま、メキリオの後に付いて荷馬車の後ろに回り直す。
メキリオは荷台の隅の白い花の束をまとめて両手で取り上げると、2つに分けて、一方をアルジに差し出す。アルジは差し出されるまま、両手で受け取る。花がこぼれ落ちそうになって、慌てて持ち直す。花は摘まれてから時間が経ち、少し萎びてきている。1つ2つと束から花が項垂れる。アルジは何度も持ち直して花束を纏め直す。
メキリオは先に立ち、空き地の奥、林に向けて歩いて行く。振り返らない。アルジに声を掛けもしない。付いて来るのが当たり前の様に、ただ前を向いて進んでいく。アルジは、その広い背中の麻服の汗染みを見上げながら、後を付いて行く。空き地の奥、レンガ造りの煙突が大きく見える所まで行って、メキリオは止まった。目の前の地面を見下ろしている。彼の目の前にはレンガを並べた低い基壇がある。何かの基礎の様だ。少しずつ色が違うレンガを並べて、四角く平らな壇になっている。できてからかなりの歳月が流れたのだろう。壇の角は欠け、表面をうっすらとコケが覆っている。その向こう、これもレンガを低く積み上げて作った、いくつもの四角い区画が見える。今は無いが、恐らくその上に家が建っていたのだろう。
アルジが追いつき、メキリオの隣に並ぶのを待って、メキリオは持っていた花束をレンガの基壇の上に置いた。黒ずんだ茶色いレンガとコケの緑を背景に白い花が浮かんでいる様だ。
「お前の花も同じ様に置いてくれ。」
促されて、アルジも花束をレンガの上に置く。
「これ、お墓なの?」
アルジはレンガの基壇からメキリオに視線を移す。メキリオは答えない。頷く訳でも、首を横に振るでもない。ただ、アルジを見下ろしている。
「花はこのためだったんだ。トルドーはこうやって死んだ人に挨拶するんだ。」
「トルドーだからという訳じゃない。これは人間なら自然と行なう当たり前の行動だ。」
「ここに眠っているのは誰?メキリオの知り合い?」
「そうだな…、ここには誰も眠っていない。ただ思い出の場所だ。今の俺ができ上がる上で、大きな転機をくれた恩人と言えるかも知れない人との。」
「良い人だったんだ。」
「さあ、良く知らない。オーベル人とは住む社会が違う。」
「オーベル人?トルドーじゃないんだ。」
「オーベル人もサニキス人も自分達の墓地を持っていて、そこに葬られる。ここは単なるモニュメントだ。俺自身を戒めるための。だからこうして、毎年寄る事にしている。…アルジもこの場所を覚えて、こうして花を供えてくれないか。」
メキリオは花が置かれた基壇を見つめている。出会ってから、指示ばかりして来たメキリオが、こんな言い方をするのは何か不思議だ。
「花を摘んで、ここに供えれば良いんだね。」
「ああ、そうだ。」
「うん、分かった。」
「そうか。」メキリオは勝手に1つ頷くと、アルジに顔を向ける。「よし、俺達も休憩しよう。腹減ってないか?」
メキリオは身を翻し、馬車に向かって走り出す。それを見たアルジも走り出すと、メキリオより先に馬車に着こうと全力を出した。