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君が好き  作者: 矢崎未紗
3/3

第3話

 夏休みが明けて残暑の厳しい九月、高校生活も残すところあとわずか。

 私の片思い歴は月日を重ねて順調に伸びる一方だけれど、一学期に比べたら佐竹くんとの距離が縮まったと思う。なぜなら、不思議なのだけど佐竹くんの方から私に話しかけてくれることが増えたからだ。

 夏休みの「思い出作り」の時のように二人きりになるということはないけれど、休み時間に私が友達と話していると、そこに佐竹くんが加わることが何度かあった。居合わせた真理は、「佐竹が話しかけてきた! 珍しい!」と目の色を輝かせて喜んでいた。それは私も同じで、何度かそうやって佐竹くんから声をかけてくれたから、そのうちに期待する心がありもしない考えを言葉にし始めた。


〝もしかしたら、もしかして〟


 佐竹くんはただのクラスメイトで、だけど私にとっては大好きな男の子。喋る時はいまだに緊張してしまうし、なんだかかわいくない返答もしてしまう。私よりも真理の方が彼と多く言葉を交わしていると、真理にその気はないことを知っていても、薄汚れた嫉妬心が頭をもたげてくる。

 それでも少しずつ少しずつ、佐竹くんと過ごす時間が降り積もっていく。報われることのない片思いだけれど、それでも私は幸せだ。佐竹くんと過ごした時間を反芻するだけで、毎日胸がドキドキして嬉しくなる。

 でも、幸せな時間が続いていたから私は忘れていたの。

 君にとって、私はなんでもない存在なんだってことを。




 ある日の昼休み、私は生物のプリントをコピーしようと思って図書館に行った。その帰り道、ふと中庭を見ると、佐竹くんと仲のいい日暮くんが、女子生徒と楽しそうに話していた。日暮くんはバスケ部だから、たぶんバスケ部のマネージャーさんかな。

 バスケ部の女子マネージャーには、各学年一人か二人ぐらいしかなれないらしい。それなのに、顔で選ばれているんじゃないかと思うくらい、どの学年のマネージャーもきれいな子が多い。だから男子部員のやる気が入るのか、うちの学校の中でもバスケ部はなかなか強豪だ。

 日暮くんはバスケ部らしく背が高くてよく笑う、笑顔が眩しいタイプのイケメンだけど、きれいなマネージャーさんと一緒にいると、普段以上にきらきら輝いているように見える。その二人の周囲だけ、別世界みたい。私みたいな平々凡々の一般人には、こうして遠くからの見学が許されるだけの空間だ。


「あっ! なあ、佐竹! 今日の部活に助っ人で出てくれよ」

「断る」

「今日、予備校はないだろ? 帰っても勉強するだけじゃんか。そんな必死にならなくても、お前の頭ならあそこの医大は大丈夫だって」

「俺の模試の成績を見ても同じことが言えるか? まだ不安教科があるんだよ」


 日暮くんたちの輪に加わったのは、ちょうど通りがかった佐竹くんだ。その瞬間、聞こえてきた会話を拾おうと、私の耳は無意識のうちに張り詰めていた。なんでもない会話だけど、佐竹くんのこととなると、どんなに小さなことでも知りたいと思ってしまうのだ。


「富岡、バスケ部はそんなに人が足りてないのか」

「そんなことないよー。慎二は斗真が部活に入ってないの、いまだにもったいないって思ってるんでしょ」

「だーって! こいつ、運動神経いいじゃん。せっかくの青春を、部活も何もしないなんてもったいなくね!?」

「部活はだるい。それに、もう三年生は引退の時期だろ。今さら部活なんてな」

「ちょっと斗真、あたしたち、そのだるい部活に結構真面目に取り組んでるんだから、そういう萎えるようなこと言わないでよ」

「富岡はバスケ部に彼氏がいるから真面目なんだろ」

「彼氏の存在は別にして、あたしはこの高校のバスケ部を心底応援してるの!」


 佐竹くんは親しげに、富岡さんという女子生徒に話しかける。そして富岡さんも、気心の知れた風に堂々と佐竹くんと言葉を交わす。名前で呼んでいるところに、佐竹くんとの距離が私よりも近しいものなんだと、私は無性にわからされた。

 格好いい佐竹くんとキラキラ輝く笑顔の日暮くんと、そしてきれいで大人っぽい富岡さん。彼らは私と同じ普通の高校生のはずなのに、まるで学園ドラマのワンシーンでも見ているような、不思議と遠い気持ちになった。


(なんだ……)


 私は中庭に背中を向けて、今し方コピーしたばかりの生物のプリントに視線を落とした。

 私は勘違いをしていた。思い上がっていた。二学期になって佐竹くんの方から話しかけてくれることが増えた気がしていたから、もしかしたら特別に思われているかもしれないなんて、勝手に期待していた。


 でも違った。そんなことなかった。クラスメイトに話しかけるなんてことは、特別なことでもなんでもない。佐竹くんはクラス内どころかほかのクラスにも当たり前のように友達がいて、それは異性も含まれていて、そして当たり前のように話しかけて会話をする。

 一学年に二百人も生徒がいれば、全然知らない、親しくない生徒がいたって不思議じゃない。高校三年間で一度も同じクラスにならず部活などで接点もなければ、知人にすら至らない生徒だっている。だから佐竹くんと同じクラスになれて、毎日同じ教室で一緒に授業を受けて時々話ができるだけで、幸運は尽きている。それ以上に幸運で特別なことなんてなくて、「もしかしたら」なんて考えることがおこがましいのだ。


(恥ずかしい……私、勝手に舞い上がってた)


 一学期に比べて話しかけられることが増えた? 当たり前だ。数か月も同じクラスで過ごしていれば、それくらい仲良くなることは不自然じゃない。佐竹くんは猫みたいだし基本的に一人が好きなようだけど、絶対に一人じゃないといやだ、というわけでもない。クラスメイトと当たり障りのない付き合いができるスマートな人だ。話しかけられたことぐらいで浮かれて思い上がっていた私が、ただ幼稚なだけだ。

 自分だけは特別かもしれないなんて、そんなことあるわけない。私なんか、佐竹くんからしたら同級生の一人にすぎない。富岡さんみたいにきれいで利発なわけでもないし、何の取柄もない凡人なんだから、佐竹くんから「特別な一人」と思われるわけがないんだ。


(ばか……ばかっ……!)


 泣くな。こんなことで泣かないで、幼稚な自分。

 私は目頭に力を入れると、顔を上げて廊下の天井を見上げた。

 泣かないで。涙なんか流れないで。

 こんなことで傷つかないで。

 いま泣いたら、きっと涙を止められない。


(授業……そう、午後も授業、あるんだから)


 鼻をすする。深く息を吸い込んで、大きく吐き出す。

 いいじゃない。思い上がりに気付けてよかった。きっと気付けないままだったら、私一人で勘違いを続けていた。誰にも知られないでよかった。友達の真理にだって、佐竹くんへの気持ちを言わないでおいてよかった。誰かに知られていたら、きっと恥ずかしくて死にそうになっていた。


(大丈夫……なんでもない)


 心の中で自己暗示みたいな呟きを繰り返して、私は教室へ歩き出そうとした。でも、そんな私の肩を誰かが軽くたたいた。


「千葉」


 名前を呼ばれ、驚いて振り向くとそれは佐竹くんだった。


「さた、け……くん?」

「なんかお前、ぼーっとしてたぞ」


 そうだ、中庭から教室へ戻るのに、この廊下は必ず通る必要がある。

 やだな。いま、佐竹くんと普通に話せる気がしない。


「う、うん、ちょっと……眠いなーって、思ってたの」


 声が震えてる。やめてよ、もっといつもみたいに普通に喋って。

 涙腺、ゆるまないで。持ちこたえて。

 佐竹くんの前で泣く資格なんて、私にはない。愚かな期待を繰り返さないで。

 もしかして、なんて考えないで。そんな希望、あるはずないんだから。

 もっと思い知ってよ。佐竹くんにとって、私なんかなんでもない存在なの。

 お願い。胸の奥、痛まないで。静かにしてて。


「チャイム、鳴っちゃうね。教室、早く行こう」


 私は佐竹くんを置いてけぼりにするかのように、足早に歩き出す。

 もともと、私のこの想いは一方的なもの。叶うはずのない、小さなもの。

 だから、きっといつか消える。大丈夫、痛いのは今だけ。

 勘違いも思い上がりも、いつか消える。大丈夫。


「おいっ」


 背後で佐竹くんが何かを言いかけたのが聞こえたけど、私は聞こえないふりをした。自分の中の感情を押し殺すことで、精一杯だった。



     ◆◇◆◇◆



 なんとなくだが、千葉に避けられている気がする。

 少し前までは、それなりにいい関係だったはずだ。少なくとも二学期に入ってから、千葉との距離はそれなりに縮めることができていると思っていた。それなのに、最近の千葉はどこかよそよそしい。わざと俺を避けているような気がする。

 そもそも、クラスメイトという以外にたいした接点もないので、そう思うこと自体が自意識過剰なのかもしれない。それでも、確かに感じる違和。俺が千葉を好きだから、あいつの妙な不自然さがこんなにも気になるのだろうか。


「彩音、お昼食べよー」


 昼休みになって、クラスメイトたちは動き出す。机を移動させてくっつけ出す者、ほかの教室へ行く者、食堂へ向かう者。その中で、俺は千葉の動きをそっと視界の隅に入れる。だが、いつかの総合学習の授業中みたいに千葉の視線が俺を盗み見るような素振りは一切ない。自然に振舞っているつもりだろうが、意識的に俺を見ないようにしているように感じられて仕方がない。


「昨日のハレトーク見た?」

「見た見た。あれ、見始めると止まらないよね。面白すぎ!」


 俺が何かしたか? 千葉の気に障るようなことをしただろうか。そのせいで、どこかおかしな空気になっているのだろうか。縮めることができていると思っていた距離は、縮まってなどいなかったのだろうか。

 いや、この距離感が――この接点のなさが、俺と千葉の関係だったはずだ。以前よりも少しだけ千葉に近付けたなんて、距離を縮められたなんて、それ自体が錯覚だったのかもしれない。


「彩音は?」

「うーん、その時間はお風呂に入ってたかな」


 千葉の声だけがやけにクリアに聞こえる。

 心地いいはずのその声から逃げるように、俺は教室を出ていった。




 逃げ込むようにして向かった食堂で昼食のランチセットを注文し、空いている席に座る。喧騒が好きではないのであまり利用しない食堂だが、完全に一人になるのが少しためらわれたので、うるさいほどに他人を感じる空間はそれなりに気持ちが落ち着いた。


(俺が何したっていうんだ)


 いや、そんな風に思うこと自体がおかしい。

 先日、廊下で話しかけた時の千葉の違和感。それからここ数日、俺を避けているかのような千葉の空気。それらは俺の気にしすぎによる思い込みかもしれないが、姿形はなくても、何か変だと小さく主張している気がする。


「よっ、佐竹。珍しいじゃん、お前が食堂を使ってるなんて」


 その時、カツ丼とカレーうどんの乗ったトレイをテーブルに置きながら、ダチの日暮が隣に座った。


「別に」

「なに、なんか教室にいづらい理由でもあった?」


 日暮は能天気そうに見えるが、結構他人を観察していて、些細な違和感をわりと早くに察知している。そして、遠慮や遠回しは好まないから、こういう時は直球で尋ねてくる。その察しの良さといい意味での無遠慮なところが、こちらが気遣う必要はないのだと、妙な楽さを与えてくれた。


「いづらい、っつーか」


 さっきの千葉。先日の千葉。もっと前の千葉。思い出すだけでも心が休まる、やわらかい空気を醸し出す千葉の存在。

 それなのに、いま感じている妙な距離感。

 言葉にしづらいそれを、なんと伝えたものか。女子のことなんて、そう迂闊に相談なんかできないぞ、小恥ずかしくて。


「千葉ちゃんのこと?」

「は?」

「二学期になってから、結構話しかけてるじゃん。惚れてんの?」

「へんにかざらないのはお前の長所だが、直球すぎるのも考えものだな。誰もがお前ほどストレートに言えると思うなよ? しかも女子のことなんて」

「つまり答えはイエスなんだな。で、なんかあったの?」


 茶化してこないだけマシか。

 俺はため息をひとつつくと、なるべく核心をぼかす言葉選びをしながら日暮に打ち明けた。


「なんか、よそよそしくなった」

「原因は?」

「わかんねぇ。最近急に……そんな気がする」

「まあ、原因らしい原因が生まれるほど仲良しってわけでもないしな」

「お前はいつ人を見てるんだ」

「いつっていうか、いつも? いいか、カッコいいゴールを決めるには、コート内の状況把握が大事なんだぜ。つまり、常に周囲を見るってことだ」


 急にバスケ部らしいことを言い出したその態度が妙に鬱陶しくて、俺は日暮の二の腕に肘打ちをお見舞いしてやった。


「いってぇな。せっかく相談に乗ってやってるのに」

「頼んでない」

「そんで、お前は今のままでいいわけ? つか、千葉ちゃんとどうなりたいわけ」


 どうなりたい?

 日暮のかざらなさすぎる渾身のストレートパンチに、俺は目が点になった。

 どうなりたい――それは考えるべきことなのか。考えてもいいのか。

 これまで俺は、千葉が持つ妙に心地いい空気感を好ましく感じていて、いつの頃からか千葉のことを好きになっていた。けど、そこで停止していた。距離が縮まりそうな気配を嬉しく思っていたわりには、具体的にどうなりたいか――つまり、告白して付き合いたいかどうかは、真剣に考えたことがなかった。


「それって……なんか答えがないといけないのか」

「まあ、普通はそうじゃね? だって好きなら一緒にいたいし、ほかの奴にとられるのも嫌じゃんか。なら告白して付き合って、彼氏になって独占しないと。あとえっちもしたいじゃん」

「黙れ童貞」

「なんだよ、照れるなよ童貞二号」


 一応、女子と付き合った経験はある。でもそれは、どうしてもと言われて断るのが面倒だったから適当に頷いただけの関係性だった。自分から手を伸ばして求めたことはない。

 だからなのか、具体的に考えると疑問符が多くて難題だった。これなら、国公立大学の赤本を片っ端から解いてる方が気楽だ。


(どうなりたい……?)


 今のような、「近付くな」オーラは出してほしくない。避けているなら、避けないでほしい。それは不覚にも、寂しいとか思ってしまうから。

 でも、だからといって急接近したいわけじゃない。少しでいいから、昨日よりも今日、今日よりも明日、千葉との距離が縮まればいいと願っている。千葉と一緒に過ごせた夏休みのあの日のような時間が、またいつか来ればいいと求めていると思う。


(つまり、一緒にいたい……のか)


 己の中にある欲望の姿を明確にとらえ、言葉にすること。それは意外と難しいのだと気付く。言葉も自覚もなしに希求するのは赤ん坊のすることだ。成長した人間なら自分が抱く欲求を、こうして理性で把握していかなければならない。


(俺は、少しでもいいから距離を縮めたい)


 今はまだ小さな願い。だがきっとこの先、それは大きくなる。独占したいとか、彼女にしたいとか。たぶん、日暮の言うように性的なこともしたいとか。


 ――好きな人ならいるんだけどね。


 そう考えたら、いつかの千葉の台詞が脳裏をよぎった。

 そうだ、千葉には好きな奴がいる。好きな奴がいる相手への気持ちは――欲求は、許されるのだろうか。


「千葉ちゃんって、好きな奴とかいるのかな」

「日暮、お前……」

「なんだよ」

「いや、人の心の中でも読めるのかと思って」

「いいねえ、そういう能力。でも、普通に疑問に思っただけだぜ?」

「いる……と、一学期に言ってた」

「あれま。でも彼氏がいるようには見えないから告白してないか、それとも告白したけど振られちゃったかだな。いいじゃん、佐竹にも勝ち目はありそうじゃん」

(勝ち目……)


 これは勝負なのか。勝ちたいのか。俺はどうしたいのか。好きな奴がいると言った千葉を、そんな奴より俺と一緒にいてくれと、勝手な願いを押し付けてもいいのだろうか。


(告ってきた女と変わらねぇな)


 付き合ってみてよ、そしたらきっとあたしのこと好きになれるから――なんて、たいそう身勝手で自信満々な告白をしてきた女子が過去にはいた。けれど、千葉に対する今の自分も、そうした身勝手な人間になってしまうような気がする。

 俺は千葉が好きで、でも千葉にとって俺はただのクラスメイト。それだけの関係でいいと思っていたはずなのに、こうして千葉との距離が遠くなると、それが寂しいなんて勝手に思ってる。

 柄じゃない。こんな風に女々しく状況を嘆くのは、俺らしくない。


「まあ、本当に千葉ちゃんがお前を避けてるのか、理由くらいははっきりさせてもいいんじゃね? 何事も〝わからない〟状態ってのが一番不愉快なものヨ」

「ばっ……突然のおネエ口調はやめろ」


 日暮の語尾がツボに入り、俺は思わず吹き出して笑ってしまう。俺にはない、俺には到底できそうにない、こういうおかしなことをしれっとやってのけるところが、日暮の面白いところだ。

 自分の心の本当の状態も曖昧なのに、他人との関係性なんていうもっと不確かなものが曖昧だと、確かに不安で不愉快になるかもしれない。白黒つけることだけが正義ではないが、俺が感じている千葉への違和感の理由くらい、確かめてみてもいいかもしれない。


「ん~、今日もカツ丼とカレーうどん最高」

「野菜が足りないんじゃないか」

「イヤっ、ママみたいなこと言わないでちょうだいっ」

「ぷっ……だから、その口調はやめろ」


 なおもふざける日暮のおかげでもやもやした気持ちがだいぶ晴れた俺は、ひとつの決心をしてから教室に戻った。



     ◆◇◆◇◆



 昼休みが終わって午後の授業が始まる数分前。教科書を出したり机を定位置に戻したりして慌ただしくなる教室の中で、私の机の上にぽとり、とたたまれたメモ用紙が落とされた。誰? と思って顔を上げると犯人は佐竹くんで、でも彼は特に何を言うでもなくささっと自分の席に座った。


(佐竹くんから?)


 私は恐る恐るそれを開いて、中身に目を通す。


【今日の放課後、特別教室棟の四階、北階段で待ってる】


 それは、佐竹くんからの呼び出しだった。


(え、どうしよう……行くべきなのかな)


 突然のことに、私はとても驚いた。そして授業が始まっても、妙にそわそわしてしまって落ち着かない。誰かに見られないように、佐竹くんがくれたメモ用紙をノートと筆箱で隠し、それをちらちら見ては、どうしようどうしようと胸の中で狼狽する。

 なんで……どうしてだろう。なんの用事かな。何を言われるのだろう。


 ここ最近、私はずっと佐竹くんを避けている。これ以上、〝もしかして〟なんて期待をしないように。佐竹くんにとっての「ただのクラスメイト」であるように。そのために、佐竹くんへ視線を向けそうになるのも必死で自制して、佐竹くんのことを考えそうになってもすぐに違うことを考えるようにして……。

 でも、そんなうわべの努力はなんの意味もない。

 だって、自制してもほかのことを考えようとしても、いつだって、気付けば私の頭の中、心の中、全部に佐竹くんがいる。佐竹くんに向いてる。佐竹くんが好きって気持ちであふれてる。

 君が好き。ただ、君が好きなだけ。それでいい。それでいいの。

 ずっとそうだと思っていた。それでいいと、自分自身に言い聞かせていた。


 でも、私はもう佐竹くんの引力につかまってしまっていて。

 離れたくないとか、もっととか。ただ好きなだけじゃ、足りなくなってる。

 何を言われるのかな。勘違いするなって言われるのかな。

 なんでもいい。何を言われてもいい。迷惑だって言われたら、きっと終わりにできる。佐竹くんにからめ取とられたこの気持ちを、佐竹くんの言葉で終わりにすることができる。どうせ叶わない想いなら、彼自身の言葉で終わりにさせてほしい。


 午後の授業がすべて終わる。そして帰りのホームルームの間に、私は覚悟を決めた。あいにく掃除当番だったので、いつもよりてきぱきと動いて掃除を終わらせる。

 そういえば一学期のあの日、珍しく掃除をしている佐竹くんと話したことがあったなあ。思えば、あれが始まりだったのかもしれない。「君が好き」という気持ちが、こんなにも大きく成長した、始まりの日。




 特別教室棟は、授業以外で使われることはほとんどない。だから放課後のこの棟は、掃除当番がいなくなれば無人に近い。それも、一番上の四階ならなおさらだ。


(佐竹くん、もういるかな)


 肩にかかっている鞄を背負い直して、私は特別教室棟の北階段を上る。一段上がるごとに心拍数が一ずつ上がっていくようだ。


(覚悟して……〝もしかして〟なんてないんだから)


 佐竹くん……。

「本当の」佐竹くんはどんな人?

 医者の息子、成績優秀、運動神経良好。イケメン、大人びてる。

 そんな上っ面じゃなくて、「本当の姿」が見たいと思った。理解したいとも。

 でも、私なんかが見たり知ったりしていいことじゃないよね。気持ち悪いよね。ただのクラスメイトから、そんな風に内面を理解したいなんて思われたら。

 ごめんね。私は、ただのクラスメイトっていうだけの存在なのにね。


「あ、の……お待たせ……しました」


 一番上の段に座ってる佐竹くんを見つけて、私は階段の中腹で足を止めた。そして、待たせたことをぎこちない声で詫びる。

 黙ったままの佐竹くんはちらりと私を見ると、視線をそらした。

 私も佐竹くんを見るにはいたたまれない気持ちなので足元の階段を見やって、あ、埃が溜まってる、今日のここの掃除当番の人は真面目に掃除をしなかったのかな、なんて場違いな感想を抱いていた。

 佐竹くんがずっと何も言わないので、私も何も言えない。いつまでこの重い沈黙が続くのだろう。そう思ったら、ようやく佐竹くんの声が聞こえた。


「なんか最近、俺のこと避けてない?」

「えっ……そ、んなこと……」

「そんなことない? 本当に?」


 佐竹くんの質問は単刀直入すぎだった。

 どうしよう。

 確かにここ最近、意識して佐竹くんを避けているんだけど、それを肯定するのってどうなの。でも追及されてしまっては、これ以上わざとらしく否定することもできない。


「俺が、お前に何かしたか。何か気に障ること、したのか」

「しっ……してないよっ! 別に、佐竹くんは……何も」


 そう、何もしてないよ。

 二学期に入ってから、佐竹くんは私に話しかけてくれるようになった。でもそれは私にだけじゃない。親しい人が相手なら当たり前。日暮くんと一緒にいたバスケ部の富岡さんにも、佐竹くんは普通に話しかける。「私だけ特別扱いなのかも」なんて、ありもしないことを私が勝手に妄想していただけ。佐竹くんが私の気に障るようなことをしたなんて、あるはずがない。


 佐竹くんはまたしばらく黙ると、すっと立ち上がって階段を下りてきた。

 私は条件反射のように、佐竹くんが階段を下りるのに合わせて階段を下りてしまう。背後の段差をちらちらと確認しながら、まるで佐竹くんから逃げるように。

 そうして、私は踊り場の壁に背中をくっつけてしまった。

 もう、逃げ場所はない。佐竹くんがゆっくりと、私との距離を詰めてくる。


「千葉」


 首を曲げて見上げなければならないほどの距離まで、佐竹くんが近付いた。私は佐竹くんの目を一瞬だけ見たけれど、ずっと視線を合わせていることなんて無理で、佐竹くんの肩越しにいま下りた階段を見つめる。

 心臓が、バクバクとうるさいくらいに高鳴っていた。


 こんなにも近くに佐竹くんがいる。鼻に感じるのは、佐竹くんの汗の匂いなのかな。それとも香水? 放課後の特別教室棟はシーンとしていて、どこかの運動部の掛け声がとても遠くから残響のように聞こえるだけで、ほかに音はない。いまここで一番大きな音を出しているのは、私の心臓かもしれないと思うほどだ。

 佐竹くんは私の左肩超しに、壁に右手を付いた。そして、上半身を少しだけ私に向かって傾けてくる。佐竹くんのひたいとさらさらな前髪が、私の左肩に乗る。


「俺を避けるな。俺は、もっとお前と一緒にいたい」


 耳の近くで聞こえた佐竹くんの声。それは普段教室で聞くよりも驚くほどセクシーで、だけど震えているようにも思えた。いつもの自信に満ちあふれた佐竹くんが出すなんて想像もできないような切なさをはらんでいた。


「え、っと……」


 佐竹くんが言ったことを、私はオーバーヒートしそうな思考回路で一生懸命理解しようとした。でも心に浮かぶのは、佐竹くんがどうしてそんなことを言ったのかということよりも、「嬉しい」という気持ちだった。

 ねえ、佐竹くん。私、思い上がってもいいの? 舞い上がってもいいの?

〝もしかして、佐竹くんに好かれているかもしれない〟なんて勘違いをしていいの? 自分だけは特別かもしれないなんて、自惚れてもいいの?


「私も……」


 勇気を。人生で一番の勇気を振り絞る。


「私も……佐竹くんと一緒にいたい」


 痛い。

 切なくて、胸が痛い。

 気持ちを言葉にして紡ぐって、こんなにも痛いことだっけ。

 喉から出てくる自分の声を聞きながら、私は痛くて仕方なかった。

 佐竹くんも、こんな風に痛かっただろうか。

 切なくて、痛くて、それでもさっきの言葉を紡いでくれたのだろうか。

 ああ、もしそうなら、私は一生大事にしよう。

 佐竹くんがくれた言葉を、佐竹くんの声を、忘れないように。

 死ぬまでずっと憶えていよう。私の一番大事な宝物にしよう。


 佐竹くんは何も言わなかった。

 無言のまま、佐竹くんは首を少しだけ動かして、私の首元に寄ってきた。そのしぐさは、まるですり寄ってくる猫みたいだ。

 これが、「本当の」佐竹くんなのかもしれない。実は臆病な気持ちを抱えていて、でも恐れずに進もうとする。そして、安心すると人に甘えたくなる佐竹くん。

 私と一緒にいたいと言ってくれた佐竹くんのその心がどんな大きさでどんな色で、どんな思いで満ちているのか、私にはまだわからない。でもこの日、ほかに誰もいない場所でひっそりと、私たちの関係は確かに動いた。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 爽やか、きゅんです♡
2023/05/29 16:10 退会済み
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