記念すべき最初の旅路では2
「みなさま、おはよう! とってもすてきな朝ね!」
ようやく朝日が見えてこようかという時間に、王女の笑顔は眩しすぎた。
ふたつの編み込みおさげを揺らし、踊るような足取りで通路を歩く王女は、とびっきりの微笑みを惜しみなく振り撒いている。おかげで早朝番の騎士や徹夜明けの文官、見習いの掃除婦はその眩しさに魂が飛び抜けそうになっていた。王族が気軽に「ごきげんいかが?」と挨拶してくることだけでも、お年寄りなら昇天しかねない。実際、近くにいる騎士や神官までもがコロコロ笑う王女の声と明るいオーラにフラフラと引き寄せられていた。
「殿下、さっさと出発しないと神殿に着きませんよ」
「それはいけないわね! ではみなさん、ごきげんよう! すてきな1日になりますように!」
また増えてしまった信奉者に対して、キースは持ち場へ帰れと追い払う。王族に人格者が多く、下々の者にも優しいのは王女に限った話ではないが、いかんせんステラ王女は顔が愛らしすぎた。その愛らしさは、ある種の人間が受け取ると「人形のように飾っておきたい」という欲を刺激してしまうほどで、王女は幼い頃は誘拐されたことが一度、未遂も何度かあったものだ。成長してからは少なくなったものの、今回の旅で下劣な人間が近付かないとも限らない。キースは用心に用心を重ね、剣の他に暗器をいくつか仕込んでいた。
王女が成長するとともに、キースも大きくなり力をつけている。暴漢がいたとしてひとつだけ心配なのは、キースが対処している場面を王女が見てショックを受けないかだけだった。
「キース、トゥルーテ、行きましょう! いよいよ旅立ちよ!」
「はい、殿下」
厩を前にはしゃぐ心を抑えきれない王女に、キースは頷いた。
「……ねえキース」
「はい、殿下」
「わたくし、てっきりわたくしとキースとトゥルーテの3人で旅をしていると思ったのだけれど」
「そうですよ、殿下」
馬上、隣に並びながらしれっとした顔で頷く侍従に、ステラ王女はむっと口を尖らせた。メイドは列の一番後ろで黙って手綱を握っている。
「ではどうして行く先々に近衛隊長やら第一騎士やらがいるのかしら? わたくしの気のせいだというの?」
「偶然じゃないですかね」
「しらばっくれているわねキース!」
王宮を出てしばらく、街の大通りを進んでいる王女は気付いていた。宰相のお屋敷の門前に、侯爵の馬車の影に、職人通りの軒先に、知ってるムキムキがいっぱいいるのである。
「あらあらナギル隊長、こんなところでお散歩かしら? 花壇の中にはマイユが座っているけれど落とし物でもあって? あら、あちらの2階にいらっしゃるのはお兄さまの盾と呼ばれたスール騎士かしら。まあ、テスはお花売りの格好がとっても似合っているわよ!」
誰彼構わず挨拶しているだけあって、王女は人の顔をよく覚えている。王族の身辺を守る人間とは特によく顔を合わせるので、街に溶け込もうとしている彼らを見つけるのは王女にとって絵本の間違い探しよりも簡単だったのだ。
めざとく指摘する王女に騎士たちはバツの悪そうな顔をして、キースは溜息を吐く。
「殿下、彼らは護衛です。邪魔にならないように御身をお守りしますから、お気になさらず」
「護衛をつけているだなんて、これじゃあお忍びで旅立った意味がないじゃない!」
「あんなに愛想振りまいといてお忍びで旅立ったつもりだったんですか殿下」
キースがまともなツッコミをすると、街中から声がかかる。
「第七王女さま万歳!」
「あら、ありがとう! サフィリアの民に幸あらんことを!」
「王女さまだ! サフィリア王家万歳!」
早起きな職人たちがかけた声に、王女は完璧な笑顔を返し、上品に手を振りかえした。
通りに出て見上げる人々に丁寧に視線を向けてから、王女はキースに向かって小声で問いかける。
「そういえばわたくし、王女だってバレているわね」
「そんなド派手な見た目でバレない方がおかしいですよ、殿下」
「まあ……わたくし、身分を隠そうと思って今日のドレスは地味な色にしたのに」
「ドレスの時点で地味もクソもありませんよ殿下」
王女なりに、市井に馴染んだ格好をしたつもりだったらしい。キースは王女に、庶民はたてがみを編み込んだ立派な白馬に乗ることはないと基本的なことから教える。乗合馬車の多い王都周辺では、個人で馬に乗ること自体珍しい。手綱や鞍にいやというほどタッセルが飾り付けられている時点で金持ちアピールをしているようなものだ。
「そもそも殿下は民に慕われていますから。売れまくっている肖像画で顔もバレてますし」
「嬉しいことだけれど、身分を隠す旅人としては複雑だわ」
「そもそも身分隠す必要あります?」
「旅人は身分を隠すものよ! そうね、今からでもマントを被って顔を隠すわ! そうすれば誰もわたくしに気付かないはず!」
王女はまたよくわからない持論を掲げたものの、パン屋から万歳と声を掛けられて一瞬で輝いた笑顔を振りまく作業に戻った。小さい手の指が揺れるように動いただけで、手を振られた民は喜んで両手を上げ王女を讃えている。その声に応えて、王女はまたにこにこと笑顔になる。
王女として生まれ王女として育てられたせいか、身分を隠したい割に、民からの掛け声には応えずにはいられないらしい。それを自分でも自覚したのか、王女は街並みが途切れるまで大人しく笑顔を振りまき続けたのだった。