記念すべき最初の旅路では1
トゥルーテの朝は夜明け前に始まる。
手早く身支度を済ませると、主であるステラ王女のための支度を用意する。今日は早くに出立する予定だとキースが言っていたので、まだ真っ暗なうちに起きてお目覚めの用意を整えていた。
顔を洗うための湯は沸騰したてのもの。大きなポットに注いで寝室の次の間に運び、静かに準備をしているうちに冷めて、王女を起こす頃にはちょうどよく冷めるのである。
しかしトゥルーテがいつも通りに真っ白なタオルを並べていると、急にドアが開いた。
「おはようトゥルーテ! すてきな朝ねっ!」
「ひぇっ、で、殿下……?!」
「殿下じゃなくてステラって呼んでちょうだい!」
「も、申し訳ありません、ステラさま……お、おはようございます」
「おはよう。すがすがしくって旅に向いたお天気ね!」
トゥルーテは心臓が飛び出るほど驚いた。
長年勤め上げていてこのかた、寝坊をした王女に声を掛けた経験は何度かあっても、お目覚めの用意を終わらせる前に王女がやってきたことは一度もなかったのである。トゥルーテが声を掛けるより前に目覚めても、ノックをするまではベッドでゴロゴロしている。そんな王女が、こんな早い時間に。
「申し訳ありません! ステラさま、まだお目覚めのご用意が」
「気にしなくっていいわ! わたくしは今日から旅人だもの。旅人といえば、冬の暗い朝、身を切るように冷たい川のお水で顔を洗い、無精髭を撫で付けるのよ!」
「ステラさま、今は春でございます……」
妖精のかんばせには当然無精髭もないが、トゥルーテは言及せずに洗面器にお湯を注いで冷ますことと、準備不足を少しも咎めない寛大な主へ感謝することに専念することにした。
「東の空が少しだけ明るいけれど、太陽はまだこないわね。旅立ちにぴったりだわ! キースは起きているかしら?」
「お目覚めでいらっしゃいました。その、もしステラさまがお目覚めのときに空腹でいらっしゃらなかったら、馬上でパンを食べてはいかがかと」
「まああ!! お馬に乗ってパンを食べるですって? なんてすてきな提案なの!! わたくし、イスに座らないでお食事をするのなんて初めてだわ!!」
まだロウソクが必要なほど暗い部屋の中で、トゥルーテの目には王女を中心に光が発せられたように見えた。両手を握り、大きな目を輝かせている王女は、今にも浮いてしまいそうなくらいに喜んでいる。そんな主を眺めて自分まで嬉しくなりながら、トゥルーテはキースに対して尊敬の念を抱いた。どれだけ努力しても、王女が喜ぶことを誰よりも知っているのはいつだってキースなのだ。
「とっても楽しみだわ! トゥルーテ、あなたはお馬の上でパンを食べたことがあって?」
「ありません、殿下。……あの、荷馬車のうしろに乗せてもらって、そのときに空腹で麦藁を齧ったことはありますが……」
「まあ! 荷馬車! 通りすがりの農夫に乗せていただくのよね?! わたくし、あれにも乗ってみたいとずっと思っていたのよ! 麦藁ってどんな味がするのかしら? わたくしも食べてみたいわ!」
「い、いいえ……そんなに良いものでは……」
「トゥルーテはわたくしの知らないことをたくさん知っているのね! とってもすごいわ!」
庶民の身で王族に仕えているとなると、王宮の中では辛辣な言葉をかけられることが多い。侮蔑の眼差しと共に嫌味な褒められ方をすることも珍しくはないけれど、ステラ王女はトゥルーテのことを心の底からすごいと思っていた。トゥルーテは王女のその眼差しを向けられるたびに、全て忘れて捨てたいような幼少の思い出が少し誇らしく感じた。
「ステラさま、ステラさまのほうこそ、本当に尊いお方です……私なんかを拾ってくれて、たくさん本をお読みになっていて、たくさんの人に希望を与えていて……」
「もう、トゥルーテは優秀なのだから、私なんかなんて言わないでちょうだいっていつも言っているでしょう?」
気軽にトゥルーテの肩を叩く姿は、子供の頃と変わりない。ステラ王女が第七王女であることは、神の思し召しであるようにトゥルーテは感じた。このお方がもし王陛下のはじめのお子であったなら、国の頂点に立ち、国民全ての眼差しと国土を背負い、歴史に残る統治者になっていただろう。けれど王女はそんな不用意な圧力を負うのではなく、宮殿で楽しく自由に暮らしていてほしい。
そのためにこうして働けるのは、何より幸せなことだ。トゥルーテは我が身の幸運を噛み締めた。
「さあ、そろそろ支度をしなくちゃ! もう顔を洗ってもいいかしら?」
「お、お待ちください! まだ熱いので……!」
「海の上では、旅人は顔を洗わないものなのですって」
「ステラさま、お顔はお洗いください……!!」
王女の突拍子もない発言を必死に否定しながらも、それでもトゥルーテは幸運を噛み締めていた。