桃色珊瑚の宮殿の中では6
「3日で神殿へ行くなら、うち2日は移動になります。トゥルーテ、とにかく着心地の良いドレスを多めに用意するように。それから靴は」
「ちょっと待ってちょうだいっ!」
キースが指示しようとするのを遮った王女は、本棚に駆け寄って一冊のノートを持ってきた。表紙にやたらとレースが貼り付けられたその本は王女の読書ノートである。
「お気遣いありがとうキース、でもわたくし、きちんと予習したの。旅に出るのに必要なものをここに書き記しておいたわ」
「……殿下、ちなみに何を参考になさったんですか?」
「もちろん、冒険物語よ!」
自信満々な王女を見て、キースとトゥルーテは「やっぱりな」と思った。日記代わりに本の感想を書いているノートに、実用的な旅の持ち物がどれほど書かれているというのだろうか。
「まずはこれね! 伝説の剣!」
「あの、ステラさま。剣……ですか?」
「そうよ。複数の本で出てきたのだから間違いないわ。先祖より受け継がれし伝説の剣を握り、主人公は旅に出るのよ!」
夜明けのような希望に満ちた紫の目は、また高みを見上げていた。
トゥルーテは恐る恐る尋ねる。
「で、でもステラさまは、剣をお持ちになったことがないのでは?」
「あら、そんなことなくってよトゥルーテ。わたくし、剣のお稽古もしたことがあるの。ねえキース?」
「あれは剣舞ですし、あの剣は模造剣な上に最も軽い木材を削ったものです」
「そうなの? でも、騎士の叙任で使うものは握ったことがあるわ。あれは本物ではなくて?」
「素材は本物ですが刃も付けてないし、あんな細っこくて無意味に宝石の付いたのを振るったらすぐ折れますよ」
「まあ、そうだったの! 知らなかったわ!」
心外そうな顔で驚いている王女は、自分が剣を使えるものだと気軽に思い込んでいたらしい。自己評価が高い。
キースは腰元に付けている剣を外して差し出した。もちろん鞘はついたままである。
「殿下、剣といえば、普通はこういうのです。殿下ひとりでは持てません」
「そうかしら? ちょっと持たせてちょうだい」
「落としますよ」
大丈夫よ、と微笑んで従者の手にある剣を右手で握った王女は、笑顔のまましばらく固まった。たおやかな所作で左手を添えるも、剣は従者の手の上でちょっと浮いた程度である。
トゥルーテはハラハラしながら王女のそばで構えた。王女が倒れたときに支えねばと両手を広げている。
「……とっても重いわ!」
「これでも軽い方ですよ」
「そうなの? だから騎士は筋肉があんなにたくさんついているのね。キースは重くないの?」
「慣れてますから」
「まあ……どうしましょう。剣を持っていくのは難しいみたい」
トゥルーテは、王女が真剣な顔をして困っていることに胸を痛めた。細腕で剣が持てないことは本人以外はわかりきっていたけれど、王女が眉を下げて悲しそうにしているところを見るとつい同情してしまう。
いっそ私が剣を携えて参りますとトゥルーテが答えようとした瞬間、先にキースが口を開いた。
「殿下、剣は私が持っていくので心配はないかと」
「……キース、ついてきてくれるの?」
「むしろひとりで行く気だったことに驚きを隠せませんが。私はあなたの侍従ですよ」
王女が単身で王宮を出ようとしたら流石に総出で止められる。
ひとり旅の物語は図書室に仕入れないように進言しようと決めているキースに、王女はとびきりの笑顔で微笑んだ。
「ありがとう! 実はちょっと不安だったの。キースがいるならとっても心強いわ!」
「ちょっとの不安しかなかったのも驚きですが、御身はお守りいたします」
「そうよね。キースはわたくしの侍従だものね!」
夕方なのに朝日が差し込んできたかと思うような笑顔を振りまいた王女に、キースは僅かに笑みを見せた。
いい感じな主従の絆を見せつけられ、トゥルーテは胸元をぎゅっと握りながら勇気を振り絞る。
「あ、あっ、あのっ! わ、私も同行させてくださいませ……!!」
「まあトゥルーテ、あなたもついてきてくれるというの?」
「わた、私も殿下……ステラさまのメイドですからっ……! 私でもしよろしければ、身の回りのお世話をさせてくださいませ!」
王女はぱちぱちと瞬くと、固く握られたトゥルーテの手をそっと自らの両手で包んだ。
「私が安心してお世話をお願いできるのはあなたしかいないわ、トゥルーテ。一緒に来てくれる?」
「は、はいっ! よろこんでっ!」
「そういえば、トゥルーテは街で生まれたのよね。わたくしは街のことはよくわかっていないから、教えてもらえると嬉しいわ」
「……が、がんばります……!!」
尊敬する王女に手を握られ、頼りにされ、トゥルーテはこの場で死んでもいいと一瞬思った。しかし直後に我に返る。今ここで死ぬわけにはいかない。この王女を無事に旅路から宮殿へと導くまでは死ねない。
キラキラと喜ぶ王女に、強い決心を固めるメイド。侍従はそれを特に何の感慨もなく見つめていた。トゥルーテが王女に感激しているのはいつものことだし、王女がどこかへ行くならばこのメンバーは必須である。
「殿下、ひとまず荷造りを済ませましょう。明日出発するなら今日は早く寝る必要がありますから」
「そうね! では剣の他に必要なものを揃えましょう!」
王女がノートのページを捲る。
「次に必要なのは……ええと、『巡る王の旅』に出てきた持ち物なら、剣の他には燃え盛るような復讐心だけでよかった、とあるわ!」
「殿下、これ復讐の旅じゃないんで。次」
「次は……『少年航海記』なら、固くなったパンと、航海図だけを握りしめて船に飛び乗っていたわ!」
「次」
凶手に倒れた師匠のマント、弑された父王の玉璽、託された宝地図。たったひとりの家族である青鳥。
王女が読み上げる持ち物リストをことごとく却下しながら、キースはこの国に住まう全ての作家に対して「旅の持ち物はもっと具体的に描写しろ」と手紙を書くことにした。