南方フェトイの丘では26
「思い出したわ! わたくし、フェトイに行ったら干しナツメを買おうと思っていたの!」
場の空気や状況を一切考慮せず、王女は唐突にぱちんと手を叩いて声を上げた。
「干しナツメですか? 宮殿にもありますが」
「わたくしが食べる分はそれでいいのだけれど、キース、あなたユージフ島のものが好きでしょう?」
「私ですか?」
キースが瞬くと、王女が頷く。
「あの島はとっても遠いし、あの辺りは物騒だから荷がほとんど届かないのよね。干しナツメ、あるかしら? 先に手配しておけばよかったわ!」
「殿下、私がユージフ産のものが好きだとよく知っていましたね」
「わかるわ。とっても美味しそうに食べるのだもの」
にっこり微笑んで王女がそう言ったので、キースはやっぱり侮れないと思った。キースが食の好みを口に出すことはないのに、王女は大体把握している。子供の頃はわざと嫌いな野菜を増やされたりしたものである。キースもお返しに王女の苦手な野菜を食べさせていたが。
「殿下。光栄です」
「まだ買えていないのだから、お礼はもうちょっと待ってちょうだいな」
桃色の唇で綺麗に笑った王女は、くるりと不遜な男の方を向いた。
「そういうわけでわたくし、失礼したいわ。お姉さまを呼んできていただける?」
「そうあっさり外に出られると思っているあたり、王女には危機感というものがないらしい」
王女はキースに「わたくしのかちかちパンを潰してはダメよ」と優しく念を押した。キースが剣を抜けば、パンが犠牲になると心配したらしい。ツィーヤ・ンイバーヤに対しても「キースがパンをだめにしてしまわないよう、あなたも見張っておいてちょうだい」と語りかけていた。
もうめんどくせえからさっさと倒せばいいのに。
そう思うキースとは違い、王女はなかなか気が長い。
「あのね、わたくしを脅したとしても、父王さまが王たる権利を明け渡すことはないし、そもそもそんなことはできないの。お姉さまを捕まえたのなら、きっと同じことをおっしゃったと思うのだけれど」
少し首を傾げ、王女は人差し指を頬に当てながら困ったように言った。もちろん口に出されなかった語尾に「そんなこともわかんねーのかボケ」という意味が隠されているというのは、王宮に暮らす人間にとっては常識以前のことである。
「たとえわたくしにその権利があったとしてもよ? わたくしも王族のはしくれ、みすみす滅びると知っていて国を委ねるなど何があってもできないわ」
「さすが殿下。国を想う心は王国一ですね」
「キース、そんなに褒めないでちょうだい。干しナツメをたくさん買ってしまうじゃないの」
もうもうと怒りながらも、王女はニコニコしていた。人の褒め言葉は素直に受け取るタイプの王女である。
しかし王女が素直に放った言葉は、当然のように男には通じなかった。
「衆愚に実権は渡せないと? 自らがどれほど優秀なつもりか知らんが、先王の時代からこちら、サフィリアがどれほど繁栄した? 国土も広げぬお前らの無能さを思い知るがいい」
「そういう意味じゃないのだけれど……」
「どちらにしろ、お前の意思は関係ない。貴様らにまともな返答など期待していない。貴様らはただの交渉材料なのだから」
連れていけと男が顎で合図すると、周囲を囲んでいた人間が近寄ってきた。
「反抗しようと考えるな。血を見るぞ。大人しく部屋を出ろ」
主犯の男につられて、他の人間までが王女に払う敬意を見失ったらしい。
いっそ襲い掛かって来れば返り討ちにできるというのに、とキースが苛立っている隣で、王女はまた目をキラキラさせていた。
「牢? わ、わたくし、牢に入れられるのかしら?」
「今更怯えても遅い。さっさと行け」
華奢で儚く見えるというのは得である。キースからすると王女の声はどう聞いても期待に胸を膨らませているというのに、男たちは恐怖に怯えて震えているように見えたらしい。
「まあ。とっても怖いわ。キース、ギーちゃん、わたくしのそばを離れないでね」
わくわくという文字が浮かんでそうな顔の王女に手を貸しながら、キースは「楽しみすぎです殿下」とそっと注意した。