南方フェトイの丘では8
「……?」
王女とトゥルーテは、何が起きたのかわからずに固まる。
キースは立ち上がると、灰色の球体に剣を向けた。
「ツィーヤ・ンイバーヤ。カップとソーサーは王女所有のもの。直ちに吐き出してお返ししろ」
「……カップも食べてしまったの?!」
「吸い込んでましたよ。あの足の間から」
王女の驚いた視線を受けて、ツィーヤ・ンイバーヤはちょっと申し訳なさそうに目を伏せた。それから座り直すように身じろぎをしたかと思うと椅子の上に立ち上がる。
座面には、カップとソーサーが置かれていた。
「……キース」
「何ですか殿下」
「なんだか模様が違うわ。わたくしのカップではないみたい」
美しい桃色の花がふんだんに描かれ、繊細なバラが取っ手に付いていたカップだったはずが、置かれているカップは随分シンプルなものに変わっていた。白磁の上に黒い文字がびっしり書かれている。カップの内側まで書かれているその文字を、キースが手に持って読む。
「何が書かれているの?」
王女がキースに近付いて覗き込む。
書かれているのは古代文字。書かれている内容は、闇の冥府についてだった。
「……」
ステラ王女もキースも、古代文字について知識があるのがいけなかった。カップに書かれた文字が、意識しなくても読めてしまう。
そして目に入った数行を理解した途端、2人は悟ってしまった。
どう考えても生きた人間が知ってはいけないようなことが書かれている。
「……キース」
「はい、殿下」
王女の意志に従い、キースは持っていたカップをうっかり落とした。ついでにソーサーも手に取り、床に叩きつけるように、うっかりと落とした。下は硬めとはいえカーペットの上であったが、カップとソーサーはカシャンと音を立てて割れる。驚いて見つめていたトゥルーテにもキースの力加減がうかがえた。
キースは王女に向き直ると、胸に手を当てて丁寧に詫びた。
「申し訳ありません殿下、手を滑らせてしまいました」
「まあキース、あなたのせいじゃないわ。きっとわたくしがぶつかってしまったせいね」
「いいえ、私の不徳の致すところでございます」
「そんなことはないわ。カップは割れる運命だったのよ」
ハラハラしながら見守るトゥルーテの目の前で、王女と侍従は息の合った隠蔽工作を成し遂げた。カップとソーサーを靴で踏みつけ粉々にするキースに対して、王女はねぎらいの言葉をかけている。見合わせている両者の顔は、表情を消し去っていた。
「尖ったものが床に散らばってしまったわね。お掃除が大変だわ。ツィーヤ・ンイバーヤ」
「ギ?」
「この粉々になったものを吸い込んで消し去ってくださるかしら? 今すぐに」
「ギ、ギイ」
静かに言う王女の言葉にぴょんと椅子から飛び降りたツィーヤ・ンイバーヤが、またヒュゴッと風を起こす。
硬めのカーペットに散らばっていた、忌まわしき言葉で埋め尽くされた磁器の破片は、あっという間に毛皮の下に吸い込まれてしまった。
キースが片膝を付いて残された破片がないかを調べ、それから王女に頷く。
「ツィーヤ・ンイバーヤ。いいこと? これからは決して、器を食べてはダメよ。そしてそれ以上に、決して、絶対に、食べた器を吐き出してはいけないわ。よくって?」
「ギー?」
「よくって?」
「ギ、ギ!」
「もしまた陶器を食べたり、それを吐き出したりしたら…………二度とわたくしの宮殿には招かなくってよ」
「ギイー!!」
トゥルーテは静かな室内の雰囲気に気付かないふりをして、もう一杯お茶を淹れた。
闇の冥府に関する秘匿すべき情報は、王女と侍従の心の奥底へと厳重に仕舞われたのだった。