南方フェトイの丘では3
「ちょっとおおお!! あなたを庭園に連れてくるまでにわたくしがどれだけ苦労したと思ってるの?!」
「実際動いたのは私ですけどね」
「キースも言ってあげてちょうだい!! あの苦労を! こんな形で泡にしてしまうだなんて!!」
ずんずん近寄ったステラ王女は、灰色の毛皮をぽこぽこたたき始めた。剣ですらびくともしない灰色の化け物ツィーヤ・ンイバーヤは王女の拳をすべて受け止め、戸惑った顔をしている。
「ギッギイッ」
「言い訳をするんじゃありません! 人を食べてしまうなんてとっても悪いことよ!! 吐き出して罪を償いなさいな!!」
「殿下、お手が傷付きます」
「放してちょうだいキース! わたくしはこれからこのお馬鹿さんに食べられてしまったあわれなむくろを取り戻し、丁重に弔いをせねばならないのよ!」
「ギイ……ギ……」
さあ吐き出しなさいと詰め寄られた巨大な化け物は、困って細めた目をキースや王太子に向け、それからギイイと鳴いた。
灰色の毛に覆われた球体の体がブルルッと震え、その下からズルンと人間が出てくる。ベトベトの唾液をまとった真っ白な頭が出てきて、王女は飛び上がってキースにしがみついた。
血の気のない顔の額部分に、真っ黒なインクで描いたような目がある。
「きゃあああ!! いきなり何をするのよー!」
「殿下が吐けと言ったからでは?」
「ギッ」
「もっとそーっと吐いてちょうだい!」
「ギー……?」
納得のいかない目をしたツィーヤ・ンイバーヤは、吐き出した物体から距離をとる。うららかな午後の庭園にぬらぬら光る唾液とそれに包まれた人体は、その場の全員の気分を台無しにするに充分だった。
王女は投げ出された四肢になるべく目を逸らしつつ、兄君の前に膝をついた。
「お……お兄さま。ツィーヤ・ンイバーヤの罪は、連れてきたわたくしの罪。王家に仕える尊い騎士の命を奪ってしまったこと、心よりお詫び申し上げますわ」
「うぅ……」
「ひゃあっ!」
突然聞こえてきたうめき声に、王女はまた飛び上がって振り返る。その愛らしい紫の目がとらえたのは、呻きながら震えている、唾液まみれの人間だった。
王女が息を呑み、そして周囲の人間がざわつく。
「生きているわ! ちょっとあなた、しっかりしてちょうだい!」
「殿下」
「第七王女殿下! どうかそれ以上お近付きになりませんよう!」
キースが王女を止めると同時に、王太子の背後にいた騎士の数人が剣を持って王女と唾液まみれの騎士の間に入り込んだ。騎士たちは呻いている人間に手を貸すこともなく、剣を持ったまま取り囲んでいる。
「どういうことなの?」
「殿下。あれはおそらく、王太子殿下のご用意なさった重罪人ですよ」
「重罪人?」
キースが視線を向けると、静かに騒動を見守っていた王太子が頷く。
「その通り。ツィーヤ・ンイバーヤを名乗るものを見極めるために、私が用意させた罪人だ。死刑の宣告を受けている者だが、罪を免ずる代わりにこの場に来る提案を受け入れた」
「ではお兄さま、この者はつまり、闇の冥府の住人となるべき者ということですの?」
「そうだ。『闇の冥府へいざなうもの』であれば、罪を見透かし見逃すことはないはず。……流石に食らうとは思わなかったが」
重い罪を犯した者は、『闇の冥府へいざなうもの』の手からは逃れられない。
神話にはそう書かれているし、実際に、ツィーヤ・ンイバーヤの巨大な手は罪人を逃しはしなかった。ただ、神話には「捕まえた者はツィーヤ・ンイバーヤがムシャムシャ食う」とは記されていなかったのである。かつて太古の昔にツィーヤ・ンイバーヤを目にした者も、流石にこのえげつない光景を書き残すことに抵抗があったのかもしれない。
王太子は遠き日に思いを馳せ、神話を書き記した者の苦労を偲んだ。時代は違えど、この光景を後世に残すべきかという問題に直面した同志として。