神殿のそばの川のほとりでは12
巨大な化け物・ツィーヤ・ンイバーヤは、隣を見るためにくるりと向きを変えた。
「ギ……」
「そうよ。早く入ってちょうだいな」
ちょっと困ったような巨大な目玉を気にせず、ステラ王女はきっぱりと言った。王女が指しているのは、すぐそばにある川である。
大きな岩の間をざばざばと流れる川を見て、化け物はまた王女を見た。
「ギイィ……」
「入らないと街へと連れていけないわ。あなたちょっと汚れすぎだもの。どうして日頃からお風呂に入らなかったの?」
「ギー……」
「毛皮がとっても臭うわ。いい? このまま王宮へ連れていったら、お姉さまたちにわたくしが怒られてしまうのよ」
さすがに順応しすぎではないか。
自分よりも大きな化け物に対して説教を繰り広げている王女を眺めながら、キースはそう思った。
先程まで叫んでいた王女は、連れて帰る決心をしたことで何かしら吹っ切れたらしい。化け物を不潔呼ばわりして水浴びをさせようとしていた。ツィーヤ・ンイバーヤは水に入ることに抵抗があるのか大きな岩の上で躊躇しているが、王女はそれを叱り飛ばして入らせようとしていた。
王女ほど割り切れない他の者たちは、そんな王女を若干引いた目で見ている。騎士たちはまだ警戒を解けないため複雑な表情で剣を向けているし、トゥルーテは王女が近付きすぎているのではと心配で顔が青い。
「もう! はやくお入りなさい!」
「ギー!」
巨大な目をぎゅっと瞑ったツィーヤ・ンイバーヤが、大きな体をどぼんと川に浸けた。汚れた毛皮が濡れてさらに黒っぽくなる。
「きちんと頭の先まで洗って汚れを落として……あなた手がないわね。いえ、手はあるけれど足になっているわね」
「ギィ」
「しかたがないわ。わたくしが手伝って」
「殿下。騎士にやらせます」
「あら、そう? 大変だけれどお願いできるかしら?」
キースの申し出で、王女は騎士たちを見る。どんなに奇妙な願いでも、王女の頼みなら騎士たちは頷くしかなかった。見張りと手伝いに分かれて、鎧とブーツを脱いだ者が川へと入っていく。ツィーヤ・ンイバーヤは手伝いを許容したらしく、ちゃぷんと一段低く川に浸かった。川底に座ったらしい。目に水が入りそうだからか、目を細めているので不気味さが増していた。
「殿下」
「なあにキース。やっぱり石鹸がいるかしら?」
「もしかして殿下、御自ら手伝おうとしていらっしゃったのでは」
「そうよ。わたくしが連れて帰ると決めたのだから、世話くらいは自分でしないといけないわ。前にお茶会でワシリ夫人から聞いたもの」
「ワシリ夫人が拾ったのは犬でしたけどね」
「そういえばわたくし、犬は拾ったことがないわね」
騎士たちは腕を捲り、ギーギー唸っているツィーヤ・ンイバーヤの毛皮についた枯れ葉や泥をほぐし取っている。川下へは汚れた水が流れていた。チュニックに汚れがついているので、仕立て直しが必要かもしれないとキースは思う。
「殿下が拾うのは人間ばかりですからね」
「ちょっと待って、わたくし人間なんて拾ってないわよ」
「拾っているでしょう」
キースが自分を指してからトゥルーテを指す。トゥルーテは水の飛び跳ねで王女のドレスが汚れないよう布を広げながら頷いた。
「……よく覚えてないけれど、ふたりとも拾ったかしら?」
「殿下、あの状況はどう見ても拾ったとしか形容できませんよ」
「私もですステラさま。トゥルーテはステラさまに拾われて幸せです」
「そう? ならよかったわ。あなたたちが満足して暮らせているなら、ツィーヤ・ンイバーヤもそう心配することはないわね」
「我々人間と『闇の冥府へいざなうもの』を同じにしないでもらえますか殿下」
騎士たちは取れない汚れに覚悟を決めたらしく、数人で両手を使って毛皮を揉み始めた。水が届かないからと仰向けにされたツィーヤ・ンイバーヤは、ギーギー鳴きながら両手をバタバタさせている。
「殿下。本当にあれを王宮へ連れていく気ですか? 王や王太子は簡単に受け入れないかと」
「怒られるでしょうね。でも、ツィーヤ・ンイバーヤをこんなところに置いてけぼりにしていくわけにはいかないもの。またとぼとぼされたら困るし」
「下手をすれば、殿下が闇の冥府に招かれていると言われなき謗りを受けることになるやもしれません」
「わたくしは気にしないわよ。それに、王宮に置いておけないとなったら旅に出る口実ができるじゃないの!」
「それが目的なんですね」
「そ、それだけじゃないわよ!」
あからさまにぎくりとした王女は、ツィーヤ・ンイバーヤを保護する正当な理由とやらを並べ始めた。
今回の旅だけでは、王女は満足しなかったらしい。
キースはため息を吐きながら、王宮がこの冥府の化け物を受け入れてくれるように最大限の根回しをすることにした。