神殿のそばの川のほとりでは10
起き上がった冥府の化け物が、一歩王女へと近付く。ゴツゴツした岩が踏まれてがりっと音を立てた。
「ままままって近寄らないでちょうだい————!!!」
「ステラさま、危ない!」
慌てて後退りをし、転びそうになった王女をトゥルーテが慌てて支える。しっかり抱き起こすと、トゥルーテは覚悟を決めた顔で王女に告げた。
「ステラさま、ご安心ください。ステラさまは、このトゥルーテが命に代えてもお守りいたしますから」
「ダメよトゥルーテ! 相手はツィーヤ・ンイバーヤなのよ! 手を出したら闇の冥府へ連れていかれてしまうわ!」
「ステラさまをお守りできるのなら、私はどうなってもかまいません」
「かまうのよー!!」
王女は化け物にビビりながらもトゥルーテを抱きしめ、トゥルーテは青い顔をしながらもナイフを構えて化け物に襲い掛かる気でいる。
お涙頂戴ものの舞台にありそうなシーンだが、キースは二人へ冷静に声を掛けた。
「殿下、トゥルーテ、落ち着いてください」
「キースも止めてちょうだい! わたくし、トゥルーテがいなかったらどうやって暮らしていけばいいの! キースもダメよ! わたくしの騎士たちも、ひとり残らず闇の冥府に行かせるわけにはいかないわ!」
「殿下、いいから」
キースが黙って指差す先を、王女が見る。その先にいる巨大な化け物は、じっと立ったまま王女を見ていた。
「……まままさか、わたくしを迎えにきたというわけなの?! わたくしは違うわよ! 生まれてこのかた、一度だって闇の冥府に呼ばれるような行いはしていないわ!」
「言い切りますね、殿下。私の記憶では若干あやしいことが何度かあったような気もしますが」
「キース、お願いだから黙っててちょうだい!」
「冗談です。殿下、このツィーヤ・ンイバーヤらしき存在をよく見てください」
再び促されて、王女はまた化け物を見る。化け物の巨大なひとつ目は、王女と目が合うとまたニィ……と弓なりに歪んだ。さながら獲物を捕らえた悪魔のようだと思ったのは、王女だけではない。
「み、見たわよキース」
「先程まで近寄ろうとしていましたが、動きを止めています」
「そ……そうね。それがどうかしたの?」
「私が見ていたところ、殿下が『近寄るな』と叫んだ瞬間にピタリと止まりました」
「ぴたりと……」
キースの言葉に、騎士たちも剣を構えたまま頷いていた。
王女の方へと踏み出されていた足……いや手は、王女の言葉を聞いたように止まった。そして化け物は周囲に敵意を持った騎士たちがいるにもかかわらず、じっと王女を見つめている。
「召喚した王女に従うつもりなのでは」
「そんな……待ってちょうだいキース、わたくしは冥府の者を召喚した覚えはないのよ」
「ではこの状況をどうご説明なさるおつもりで?」
「うぅ」
竜を召喚したというサンアリア王女の記述では、召喚した竜は王女の命令を聞いて国の平定を助けたらしい。竜が実際にどれほどの存在だったのかは不明ではあるものの、王女ひとりの腕で制御できるほどの弱い力ではなかったはずだ。
ならば、召喚の際に何かしらの法則または契約が働き、竜は無条件でサンアリア王女に従っていたのではないだろうか。
キースがそう推測すると、王女は頷いた。
「もしかしたら、ありうるかもしれないわね。つまり、ここにいるのがツィーヤ・ンイバーヤであったとしても……」
「召喚に応じたのであれば、殿下の命令を聞くのではないかと」
王女はごくりとつばきを飲み込みながら、再び化け物を見た。薄汚れた毛皮の真ん中にある大きな目は、相変わらず王女をじっと見つめている。
「『闇の冥府へいざなうもの』よ。わたくし、ムヴェナルカナ=サフィリアの王女ステラローズが命じます」
「ギィ」
「……ちょっと下がってちょうだい、後ろに」
化け物はぱちりぱちりと静かに瞬きをした。王女が少し不安を感じ始めたとき、化け物の体が揺れる。
汚れた巨体は、王女を見つめながら2歩、3歩と後ろに下がった。
どう考えても王女の言葉に反応している。