神殿のそばの川のほとりでは9
「……起きないわね」
「目を回したようですね。斬り倒したわけではありませんから、殿下は近付きすぎないように」
「キース、近付いてみろと言われても近寄りがたいわよ」
仰向けに倒れ、白目をむいている化け物を王女が恐々と観察している。騎士たちが剣を突きつけて囲み、さらにキースが王女を守っているので距離はあるものの、化け物が巨大なせいで十分に迫力があった。
全員が警戒しているものの、倒れてからいくらか経ったというのに化け物は全く動かない。その場に居合わせた全員が、その化け物を観察する余裕を持てていた。
じっと見ていた王女が口火を切る。
「……なんだか、とっても汚れているわね」
「そうですね」
「最初は黒い毛皮と思ったけれど、汚れが付いていて黒いのかしら。灰色とまだらのところがあるわ」
「そうですね」
「落ち葉とか、泥とかついているし……においもなんだかすごいわ」
「そうですね」
王女は嗅いだことがなかったものの、そのにおいは生ゴミが腐ったような臭いだった。毛皮についた汚れが発しているだろう臭いはなかなかきつい。トゥルーテは王女にハンカチを差し出し、騎士たちはそっと風下を避けた。
「キース」
「はい、殿下」
「こんなに汚れてるということは、わたくしが召喚したんじゃないってことじゃないかしら? だって召喚してすぐなら、こんなに臭いがつかないでしょう?」
「どうでしょう。召喚がどういう仕組みかはわかりませんが、他の場所で薄汚く生きていたものがそのまま召喚された可能性もありますよ」
「竜を召喚するためのものだもの、間違ってもそんなところに繋がるはずない……と思いたいわ」
王女は言葉を濁した。
うず巻き図形に血を垂らしてからもうずいぶん時間が経っている。ずっと同じ場所で立っている面々は竜が来る気配がないことも、代わりに来たのがこの化け物だけだということもわかっていた。王女も受け入れがたいがわかっていた。
「で、でも、サンアリア王女はこんな存在について書き記してなかったわ。これがここに来たのはたまたまじゃないかしら」
「それはそれで問題がありますよ殿下。召喚に応じたのでなければ、この森に化け物が住み着いていたことになるのですから」
「確かにそれは大問題だわ」
大きな争いも災害もなく平和が続いているサフィリア王国内で、化け物が平然と暮らしていたとなると大事だ。それも、霊廟のすぐそばで見つかったということが知られたら、不吉の象徴だの王に翳りありだのと言う者が出てきてもおかしくはない。
「今から召喚をやり直して、竜に来てもらえないかしら。こういう事態の対処こそ、竜が必要だと思うの。竜ならきっとやっつけてくれるわよ」
「それはどうでしょう」
異議を唱えたのはもちろんキースである。ステラ王女が見上げていても、キースは化け物から目を離さなかった。
「キース、それはどういうことなの?」
「殿下、よく見てください。この化け物、神話に出てきてませんか?」
「神話に……こんなのが出てきたかしら」
王女はこの国の神話を幾度となく読み込んでいるものの、ゴミにまみれた異臭のする化け物などに覚えはなかった。
首を傾げる王女に、侍従はさらに続ける。
「“その者は巨大な体に、悪を見抜く大きなひとつ目を持ち、そしてどのような者であれ闇の冥府へ誘う巨大な手を持つ。悪事に手を染めたものはその巨大な手から逃れることかなわず、闇の冥府に食われてしまうという”……」
「冥府の書第二節に出てくる『闇の冥府へいざなうもの』のことね。巨人だと思っていたけれど、そう言われてみると確かにこの化け物も体は大きいし、目はひとつだわ。でも……手はないんじゃないかしら?」
「殿下、あちらを」
キースが示したのは、仰向けになったせいで投げ出されている化け物の足。巨体を支えるにふさわしい大きさではあるものの短いそれは、王女の視点からは汚れた毛皮でほとんど見えていなかった。
王女はキースの背中に隠れながら、足の方へ回り込む。両足が見える位置に立つと、王女にもその意味がわかった。
そこにあるのは足ではなく、巨大な手だった。指の一本一本は、王女の太ももよりも太いごつごつした手が一対、だらりと力を抜いて投げ出されている。手のひらの部分が黒いのは、地面を手で歩いていたからなのだろう。手首より上は毛皮に覆われて見えないものの、丸い本体からそのまま生えているようだ。
もしこの手に握られれば、どんな強者でも抵抗することはできないだろう。そう思わせるような手が二本もある。
「…………確かに、『闇の冥府へいざなうもの』には頭があるとも、手足と胴体があるとも、書かれてはいなかったわね」
「毛皮があるとも書かれてませんでしたが、他に特徴が合致する記述はこれまでにないかと」
事実を告げるキースに、王女もさすがに焦ってきた。
冥府も、冥府へいざなうものも、神話では竜と同じくらいに有名な存在だ。しかし、それらもまた竜と同様に、実際に目にしたという者は誰もいなかった。
もし竜を召喚できるのならば、そういった神話に出てくる存在もまた、召喚しうる存在だというのだろうか。
「……本当に『闇の冥府へいざなうもの』、番人ツィーヤ・ンィバーヤなの?」
ひとりごとのように王女が小さく呟く。
すると、白目をむいていた巨大な化け物がパチッと正気を取り戻した。
仰向けの状態からどうやったのか、勢いよくビョンと体を起こすと、巨大な目が王女を見る。
「ギィッ!!」
「……ぃやあああー!!!」
もしかしたら、化け物本人からすると、名を呼ぶ小さな友人ににっこり微笑んだつもりだったのかもしれない。
しかし巨大な目がゆっくりと弓形になる様子は誰がどう見ても背筋が凍る恐ろしさである。化け物にニタ……と不気味に笑いかけられた王女は、大きな虫を見つけた時と同じ叫び声を上げたのだった。