神殿のそばの川のほとりでは8
「ギイィ……」
重い足音を立てて、大きな化け物がキースに向き直る。
「殿下、トゥルーテと共に岩の影にお隠れください。俺が劣勢になったら迷わず神殿へ逃げるように」
「ダメよ。全員一緒じゃなければ逃げないわ。それにこの、変なものを街へ誘導するわけにはいかないもの」
「街より殿下の命です」
「わたくしの命より街の方が大事でしょう! そもそも、キースが勝てばいいだけよ!」
どう考えても不利な勝負で、ステラ王女は無茶を言った。しかしキースは、王女にそう言われたからには勝たねばならない。
剣先を化け物の目へと向けながら、キースは「わかりました」と静かに言った。
「その代わり、トゥルーテとしっかり隠れててください。邪魔ですから。トゥルーテ」
「は、はいキースさま。……あの、一応、一応なんですが」
キースの背中にしがみついている王女をそっと自分の方へ促しながら、トゥルーテは青い顔のまま恐る恐る尋ねた。
「何だ。早く言え」
「その……“それ”が竜……ということはありません……よね?」
トゥルーテの声に全員が彼女の方を向き、王女の方を見て、それから化け物を見た。
「……待って、わたくしのせいだというの?! わたくしはちゃんとした竜を呼んだはずよ! どう見てもそこにいるのは竜ではないわよね?!」
ムヴェナルカナ=サフィリア王国に伝わる神話に描かれる竜は、体は黄金、2対の翼に3対の脚、口は炎を吐き、長い尾で雷を呼ぶという空飛ぶ獣である。
それに対して化け物は、体は球体、薄汚れた毛皮に一対の足、口も尾もなく巨大な目だけ。
「確かに、竜というよりはむしろ……」
「ホコリのおばけじゃないかしら?! 乳母のリーテが昔言っていたもの! お片付けをしないとホコリが溜まって塊になり、満月になるとソウジシーロという怖いおばけになって夜な夜な足をかじるって!」
「それは嘘です殿下」
「嘘なの?! わたくしは信じてお片付けを頑張っていたのに許せないわ!」
きゃんきゃん吠える殿下を、トゥルーテは宥めながら大きな岩の方へと避難させる。
化け物は移動する王女をじっと目で追ったものの、キースが一歩近付いたのでそちらに視線を戻した。
「ギイ……」
「王女を狙うなら殺す」
「ギ……」
キースが歩を進めるのと同時に、化け物も一歩踏み出す。その背後を騎士たちが囲って、周囲には緊迫した空気が流れた。
キースは真っ黒な目を見つめ続ける。
この化け物に弱点があるとすればおそらくあの大きな目だ。毛皮に当たると剣を弾かれるならば、一撃で狙うしかない。
ゆっくりと瞬いた大きな目を、キースはじっと見つめる。黒い目もじっとキースを見つめ返し、そしてふと、視線を下げた。
黒い目が見つめているのは、平らな岩に描かれた複数のうず巻き模様だ。王女が竜の召喚のために描いたそれを、化け物が見つめている。
化け物は歩みを止めて、渦巻きを凝視していた。じっと見つめているのではなく、黒目は小刻みに揺れている。キースはその揺れが、うず巻きの線をなぞっているせいだと気が付いた。
「ギ……ギイイ……」
両脇を固めていた騎士が「まさか……」と呟いた。
化け物の目はひときわ大きいうず巻き模様を見つめ、黒目がぐるぐると揺れる。その揺れは体にまで伝染し、巨体は大きくグラグラと揺れ始めた。
「全員、離れろ」
キースが声をかけるのと同時に、大きくふらついた巨体がずしんと背後に転がる。
「ギ……」
仰向けになった巨大な目はしばらくぐるぐると回っていたものの、やがて白目をむいて動かなくなった。
「……」
全員がしばらく何も言わずに化け物を見つめる。
それから、キース、トゥルーテ、騎士たちは王女を見た。眉を寄せながら化け物を見つめていた王女は、視線に気が付いて慌てる。
「え、や、やっぱりわたくしの召喚のせいなの?!」
「……そうかもしれませんね、殿下」
キースが頷くと、王女は「納得いかないわーっ!!」と大きく叫ぶ。
全力の叫びに、小鳥が木々から飛び立った。