記念すべき最初の旅路では11
ステラ王女が示した先、息も整えずに食堂へとやってきたのは、三十代くらいに見える背の高い女性だった。その姿を見た途端、スイティウス家の使用人は揃ってほっと安心した。もう大丈夫だ、とあからさまに息をついた者もいる。
理知的な顔立ちのその女性はひと目で状況を理解すると、つかつかと王女の方へと近付き、外套も取らぬままに深く礼をする。乱れた髪が一筋、頬にかかった。
「ステラさま」
「西ラクレー男爵夫人、いえカトレアさま。おひさしぶりね」
挨拶を済ませると、西ラクレー男爵夫人カトレアは王女を見上げ、そして再び頭を下げた。
「申し訳ございません! マイジールが大変なご無礼を」
「あら、謝らないでちょうだい。それより今、男爵に西ラクレーの素晴らしいところを教えていたところなのよ」
さあ立って立ってと王女に手を引かれて、カトレアは立ち上がる。食堂の床に座り込んでいる夫を見て、カトレアは「王女の前でなんと不躾な」と怒りの視線を送った。それに気が付いた男爵が立ち上がろうと手を動かし、家令ヨナスがそれを助けた。
カトレアは改めて王女に謝罪をしようと思ったものの、当の王女が夫の尻餅姿を全く気にしている様子はない。そばに立つキースの表情からしてひどい無礼を働いたのは事実のはずなのに、とカトレアはやや戸惑った。
にこにこした王女は、そんなカトレアに質問する。
「カトレアさま、西ラクレーの素晴らしいところって、どういうところかしら?」
「我が領地の素晴らしいところ……ですか?」
神殿へ急遽出発した王女を夫が追いかけたと知らせを聞いた夫人は、嫌な予感をひしひし感じながら慌てて自分も領地へと戻った。あらゆる惨状を想定してはいたものの、しかし、実際に到着してみると、王女はいつも通りににこにこしている。
細かな事情を聞き出したいと思いつつも、カトレアは答える。
「西ラクレーの繁栄の源は、何をよりここに住む領民でございます。様々な国から移り住み、故郷から持ち寄った加工技術を代々領主のもとでさらに磨いてまいりました。我が国随一の技術を自負する宝石加工はもちろんのこと、王都からほど近い場所でありながらサフィリア風とはまた違った街並みがあるのも、それぞれが受け継いだ技術を用いて建物を造るからでございます」
「そうね。西ラクレーは街並みもとってもかわいいわ」
「光栄にございます」
礼をしたカトレアに、王女はさらに続けた。
「これからの西ラクレーのために、何をすべきと考えていらっしゃるのかしら?」
「はい、殿下。我が領地の特性を活かし、夏冬の休暇に訪れる観光客のためにさらに充実した宿泊所を増やす予定でございます。また鉱山については王宮へ提出している計画書の通り、徐々に閉鎖していく予定でございます」
「鉱山を閉じてしまうのはどうして?」
「お恥ずかしながら、西ラクレーの領地の産物はさほど質がよくありません。無理に山を削って安物を売り捌くよりも、西ラクレーは流通と加工のみを担う土地へ変えるべきです。そのためにも、工房の徒弟を増やして宝石職人の腕を磨かせています」
百点満点の回答に、王女は満足してにっこりと微笑んだ。剣を抱えて静かに控えていたトゥルーテは、その嬉しそうな笑顔に思わずなごんでしまう。キースの視線を感じて、慌てて顔を引き締めていた。
王女がくるりと男爵の方を向く。
「男爵、お聞きになって? あなたの奥さまはちゃーんと知っていらしたでしょう?」
「は、はあ」
「西ラクレーには素晴らしい職人がたくさんいるけれど、一番素晴らしい人材はあなたの奥さまよ!」
ピンときていない様子の主人に、家令ヨナスはこめかみを揉みたくなった。王女も期待した反応ではなかったようで、むっと唇を尖らせる。
「カトレアさまは本来ならば王宮で文官長をしていてもおかしくないほどの才女なのよ! 彼女のおかげで街並みは綺麗に整えられているし、西ラクレーの職人は領外に流出することなく暮らしているし、わたくしも色んな知識を教えてもらっているのよ!」
「か、カトレアが王女に……?」
「そうよ!」
自分の企みに夢中になっていた男爵は知らなかったが、カトレアは定期的に開かれる王女のお茶会の常連であった。自らが嫁いだ土地だけでなく、王国の様々な地方や政治に詳しいカトレアの話は面白く、王女はカトレアの出席を毎回楽しみにしていたほどだった。
女性だけが参加するお茶会では、ざっくばらんな話題も出る。王女はカトレアが時折こぼす愚痴から、西ラクレー男爵が仕事を随分サボっていることを把握していたのだった。
「カトレアさまがいらしてから、領地の収入がうんと上がっているでしょう? 不思議に思わなかったの?」
「そ、それは……」
マイジールはチラリと妻を見て、それからすぐに目を逸らした。
典型的な甘やかされ貴族のマイジールは、婚約の顔合わせの時からカトレアのことを苦手に思っていた。女ながらに難解な話題を豊富に持ち、常に貴族の模範となるような生活をするカトレアは、西ラクレーで生まれ育ったマイジールよりも土地のことに詳しい。ついでに背丈もマイジールより高い。卑屈になったマイジールは結婚当初から、妻の話を聞くことよりも自分の楽しみを優先させてきたのだった。
「まったく、男爵、あなたってとっても見る目がないわ。カトレアさまと仲良くしていたら、もっと西ラクレーのことに詳しくなって、我が国がますます繁栄したでしょうに」
「……」
「しかも、こんなにすてきな奥さまが長年ずーっとあなたを愛していることも気が付かないんですって? 男爵の目には五等級の石でもはめ込まれているのかしら?」
「えっ」
「す、ステラさま!」
マイジールは王女の言葉に耳を疑い、カトレアは慌てながら王女の言葉を遮ろうとする。その横顔が真っ赤になっているのを見て、マイジールはさらに目も疑った。
マイジールとカトレアの結婚は、もちろん政略結婚だった。婚約の時点まで正式に顔を合わせたことがなく、手を取ったのは結婚式が初めて。貴族の義務として子供は3人もうけたものの、マイジールは自分の家庭をさほど輝かしいものだとは思ってはいなかった。
その気持ちは妻も同じはずだと思っていたのだ。今の今までは。
「昔からわりとパッとしなかった男爵を、カトレアさまは一目惚れしてずっと密かに想っていらしたんですってね? わたくしにはまったく理解できない気持ちだわ。キース、あなた理解できて?」
「いいえ、殿下」
「そうよね。どんなに見る目がない相手でも想っていられるだなんて、きっととっても大きな愛なのね。わたくしにはわからないけれど」
「わからないままが良いかと」
すでに20年以上を共にしてきた伴侶を見て、マイジールとカトレアは、初めて赤面しながら見つめ合っていた。飽きるほど見てきた顔だというのに、今ここにきて初めて、本当の『出会い』をしているかのような感覚さえしていた。
マイジールはじっと妻を見る。頬を赤らめている妻の目には、自分を侮蔑するような感情は全く感じられない。見下されていると感じていたのは、自分の思い込みだったのではないかという疑問が浮かんできた。
「カトレア」
「マイジール……」
マイジールが手を出し、カトレアがそこに手を重ねる。
2人の間には確かに新たな感情が芽生え、そして、2人は気が付かなかったものの、その周囲は非常にビミョーな空気が漂っていた。
キースは心の中でごちる。
なんだこの展開。
突然のめんどくさい雰囲気のなかで、王女だけがにこにことふたりを見守っていた。




