記念すべき最初の旅路では6
キースの予想通り、馬車は神殿へ向かう道を逸れて、しれっと西ラクレーにあるスイティウス邸へと到着した。
屋敷で働く者はみな、早馬の連絡を受けてから息をつく間もなく高貴なお方を迎えるための準備に奔走していた。貴族の屋敷としてある程度の準備は整えてあるものの、当然ながら王族を迎えられるほどの用意はしていない。馬車の到着が一秒でも遅くなりますようにと願いながら全力を尽くし、とうとうその影を見つけて使用人たちは身なりを整えながら出迎えへと走った。
日が傾きかけた前庭に馬車がゆっくりと止まる。我が国に多い金髪ながら異国風の顔立ちで人を寄せ付けない表情の男がまず現れ、暗い青の目で周囲を一瞥した。スイティウス邸の家令ヨナスはその口から「失格だ」と断罪されそうな気がしてヒヤリとしたが、彼は何も言わずに視線を馬車へと戻す。一言二言話して手を伸ばすと、そこに白く細い手が重ねられた。
侍従に手を取られ、体重を感じさせぬふんわりとした動作で地面へと降り立った様子は、まさに神話に描かれる天の御使降臨の場面そのものだった。茜がかった空の下で、絹糸のような髪は結われていても柔らかく揺れる。式典での様子を描いた肖像画よりは随分と簡素な服装ではあったものの、本人が宝石のように輝きその価値はむしろ強調されているように感じた。明るい金色の髪はティアラなど必要とせず、細い首元はネックレスを必要とせず、大きな紫の目はそのものが宝石よりも輝いている。
ふと顔を上げて侍従に微笑み、それから優雅な眼差しが自分たちへ注がれた瞬間、家令ヨナスはおのずと膝をついてこうべを垂れていた。
これが王族というものなのか、と震える胸の内に驚く。
「丁寧なお出迎えをありがとう。みなさまのご親切に感謝いたします。わたくし、一晩だけお邪魔いたしますわね」
「……」
長年家令を務めてきたヨナスは、来客を前にして初めて返事の言葉を見失った。主人が話し始めたので場が乱れることはなかったが、王女一行が通り過ぎてから深く息を吐く。
立ち上がり周囲を見ると、いつの間にか他の者も膝をついて礼をしていた。メイドなどはポーッとして心だけが王女へついていっているような様子である。
ヨナスは自分もそうなりそうな気持ちを叱咤して、もてなしに無礼がないように再度周囲に注意を促すことにした。
「とっ……ても疲れたわ!!」
最も上等な客室に通された王女は、ドアが閉まるなり神々しいオーラを脱ぎ捨ててベッドに背中から倒れ込んだ。小さな足が靴を投げ出したので、トゥルーテが慌ててそれを受け止める。その様子に、キースはいつも通り行儀が悪いと小言を漏らした。
「このお屋敷、小さいけれど意外に趣味はいいわね。確かちょっと趣味のお悪い先々代が建てたと聞いていたけれど、庭も内装もすてきだわ」
「壁は最近変えたようですね。飾られている芸術品の年代からして、趣味を変えたのはおそらく代替わりしてからでしょう」
「男爵がやったんじゃないわね。トゥルーテ。お風呂の用意をしてくれるかしら?」
「はい、ステラさま。ただいまご用意いたします」
「待って、その前にやっぱりお茶をちょうだい! なんだか喉がとっても乾くの。太陽に体中の水分を吸われたみたい」
「長い間馬にお乗りでしたから……すぐにご用意いたしますね」
「ありがとうトゥルーテ。あなたもキースもたくさん飲むといいわ」
トゥルーテはキースを見上げ、無言で医師が必要なのではと問うた。キースが首を振ると、心配そうに王女を見ながらもお茶の準備を始める。
宮殿で引きこもる王女には過酷な旅路と形容しても過言ではなかったが、それでも医師が必要なほどではないようだ。ただし、足には限界がきているようだ。王女は行儀悪くうつ伏せになってベッドサイドににじり寄り、置かれた王女の手荷物に手を伸ばして例のノートを広げていた。
「長旅で足が疲労したときには、マッサージをするといいらしいの。わたくし、調べてきたのよ」
「冒険物語をですか」
「失礼ねキース! ちゃんと医療の本を読んだわ!」
王女、こう見えて物語以外の本も読んでいたらしい。キースは旅に関する専門書を仕入れるように図書室に提案することにした。
王女はベッドに座り込み、靴下も脱ぎ捨ててからノートを指でなぞる。
「ええと、まず疲労を感じる部分全体をほぐすように揉むのね。体の全部が疲れているけれど、まずは足だけでも大丈夫かしら? キース、どう思う?」
「大丈夫ですよ」
「そう。じゃあ、足をほぐすように揉むわ」
王女の手が、白い足に触れる。
添えるように触れてしばらくしたのち、王女はキースを見上げた。
「ほぐすように揉むって、どんな感じかしら?」
「やや力を入れて揉むような具合です」
「やや……ややってどれくらいなの? これくらい?」
「おそらく力が足りないかと」
王女はもちろん自分でマッサージをした経験などなかった。そもそも握力がないので、自分では疲れを押し流すほど足を揉むことはできないだろう。キースはメイドに声をかけた。
「トゥルーテ、お茶は私がやる」
「は、はい。ステラさま、私がお揉みしてよろしいでしょうか?」
「トゥルーテ、あなたマッサージもできるの? すごいじゃない!」
近寄ってきたトゥルーテは、きょとんとした顔をしてからちょっと眉尻を下げた。
「あの……毎晩、させていただいていますが……あれではお気に召していただけておりませんか?」
「えっそうなの? いつ?」
「お風呂のときです」
「まあ、あれがそうなの? わたくし、あれは体を洗っているだけだと思っていたわ!」
もちろん自分で体を洗ったことのない王女は、泡まみれできめ細やかに身体中を揉まれることをごく普通の入浴ルーティンだと思っていた。誰もわざわざマッサージであると教えなかったし、トゥルーテも「お体を洗わせていただきます」としか言っていなかったせいかもしれない。そもそも、トゥルーテがゴッドハンドを身につけていたせいで、王女は入浴中はほとんど夢心地で何も考えていなかった。
「あれがほぐすように揉むなのね! わたくしにも教えてちょうだい!」
「あ、あの、ステラさま、私がやらせていただきますので……」
「旅人たるもの、夜中に滑り込んだ安い宿屋で自分の足を乱暴に揉みほぐさなくてはいけないのよ!」
「ら、乱暴なんてダメです! 第一、ステラさまが安い宿屋に泊まるなどありえませんから……!」
さっきまで威厳ある王女の風格で民の心を撃ち抜きまくっていたとは思えないやりとりである。
キースはその間にお茶を用意し、備え付けられているバスルームやトイレなどを一通り見て回った。普段から掃除が行き届いているようだし、リネン類も申し分ない。欲深な主人の割には、隅々まできちんと金をかけているのが意外なほどだった。
「殿下、早くこれ飲んで風呂に入ってください」
まだ夕食が控えている。あの男爵に風呂上がりの気配を嗅ぎ取らせないためにも、キースは早々に王女とメイドをバスルームに追い込むことにした。