8.「死がこんなに優しいのであれば、」
突然、全ての音が消えた。
静寂が何もかもを飲み込んで攫っていった。
いったい何が起きたのか全く分からない。コポリと口から漏れた空気が気泡となって上へ上へと昇っていく。見えないそれがどこまで行くのか、想像もつかなかった。
不思議と恐怖はなかった。
自分は水中を漂っている。
断言は出来ないけれども、きっとそうだろうなと思った。どうしてここにいるのだろうといった疑問ははっきりとした形になることはなかった。それでも変わらず恐怖はない。呼吸は陸にいるときと同じように出来た。
心地良い水が皮膚を滑り落ちていく。
正確に言えば"水のようなもの"だった。なんて言えばいいのか、母の温もりとでもいうのだろうか。固体でも液体でもない、優しさに溢れた暖かなものが身体を包んでいた。
なんだか良い気持ちだ。
愛情に満ちたそれが徐々に思考を溶かしていき、やがて同化していく。身体はゆっくりと沈んでいった。
そうしてどれくらいの時間が経ったのか。
沈むばかりで一向に地には着かない。それともすでに自分は周りとひとつになって、五感のほとんどを失ってしまったのだろうか。辺りは真っ暗で、自分だけが存在しているのは分かる。
嫌だなぁ死ぬの。
死にたくないなぁ。
ゆらゆらとクラゲのように漂いながら、言葉が漏れた。
空気がほんの少しだけ、涼しくなったような気がする。ひんやりとした柔らかな水は、変わらず自分を離そうとしない。とろけた思考から出た言葉は、音になることなく水中に消えていった。
それでも死が音を立てずにひっそりとやってきた、と漠然と思った。想像していた苛烈さはなく、儚く、むしろ優しさすらあった。受け入れることは容易だろう。
でも、それでも自分は。
生きたいとは思えないが、死にたいとも思えない。
だって死ぬのは、多分すごく痛いはずだ。手をほんの少しかすっただけで泣きそうになる自分が、そんな痛みに耐えれるはずがない。
だから、死にたくない。
これが死なんて到底思えなかった。
もし仮にそうだとしたら、次の瞬間には真綿で首を絞められてしまったり、生きながらじわじわと身体が溶けていってしまうのではないだろうか。
コポリ、とまたひとつ気泡が昇っていく。
生きていくだけで痛くて苦しいのだ。
死は、もっともっと痛くて苦しくて、仕方がないはずだ。
根拠はない。
どうやってその考えにたどり着いたのか、経緯も思い出せない。そう思うことが、自分の唯一の生きる道だったのか。
あぁもう、どうしてこうなっちゃったのかな。
毎日毎日、周りの人間に紛れて"普通"に生きていたはずなのに。だってそうでもしないと世の中は受けいれてくれないから。人間は社会から外れたら生きてはいけないから。
音もなく身体の輪郭が戻っていく。
溶けていたはずのそれが、やがて形になる。
慣れるまで大変だったな。
色々な人の真似を続けて、不要なものは剥ぎ取って。そうしてどうにかオリジナルを作り上げていく。やっと出来たツギハギだらけの小さな塊が自分だ。
徐々に記憶を取り戻していく。
身体は沈んだままだった。
死に間際には走馬灯が走ると言う。
自分にははないのかな。頑張って走らせるものじゃないと思うけれども、思い出を探ろうにも何も出てこない。
むしろ頭の中が霧がかかったように、記憶の輪郭がぼやけてしまう。形を成してないそれが思い出とでも言うのか。あぁそれって何だか、何だかとっても、虚しいことじゃないのだろうか。
いつのまにか、身体を包んでいたそれは心地良いとは言えなくなっていた。
底冷えする寒さが容赦なく体温を奪っていき、肌を突き刺していく。痛みとでも言える冷たさに身をよじった。そうして肺に何かが入った。
衝動的に肺に残ってる空気を吐き出そうとするものの、それすら困難なことに気がつく。
苦しさに身悶え無意識に手を動かそうとするが、上か下かも分からない。目を開くことも出来ない。足元で闇が手招きしていることだけが感覚で分かった。
光が、太陽が、今は無性に恋しかった。
瞼の裏に映っている微かな光を頼りに、闇雲に手を伸ばす。届かないと分かりながらも手を伸ばしていると、光が徐々に大きくなっていくのが分かった。
もう一息、もう一息、と腕を振り上げる。
やがて輝きが瞼を通して身体を突き刺した。
堰き止められていた水が決壊したのかと思った。
ヒグっと潰れた蛙みたいな声が出て、血管が激しく唸る。口の周りがよだれでベタベタだ。あれ、今何をしていたんだっけ。
焦点が合わず視界がぼんやりとしている。
金色の蛇がいる。呼吸が思うように出来ない。あぁもしかして意識が飛んでいたのか。夢を見ていたのかも。そうして徐々に自分の状況を思い出した。
トンッとつま先が床に着いた。
地に触れるのが久々のように思えた。心なしか首を締め付けている力が緩まったように感じる。意識を取り戻したのは偶然ではなかったようだ。今更殺すのが惜しくなったのだろうか。そんなわけはないと分かりながらも、助かる道を自然と考えてしまう。
変わらず身体は釣り上げられている状態だった。
それでもいくらか呼吸が楽になった。激しく咳きこみながら見上げる。頭上にある蛇の頭はあまりに大きく、その表情を見ることは出来なかった。
「最後に言い残すことはある?」
リンダちゃんが尋ねてきた。
尾によって再び首が締め上げられ身体が持ち上がる。器用に身体を捻らせた蛇と無理やり目線が合う。視界は金色の蠢く瞳で埋まり、むっつの瞳は鋭く爛々としていた。
あぁこの答えを聞きたかったんだ。
優しいなとぼんやりと思う。自分が家畜を殺すとき、きっと最後の時間なんて与えないだろう。
二度尋ねられたが、結局最後の言葉は思いつかなかった。
あぁ、でも、もし、もし何か言うとしたら。
「おつ……かれ、さま……」
人生おつかれ、自分。
ポツリと蚊の鳴くような声がこぼれ落ちた。
出てきた言葉は労いの言葉だった。意図など全くなく、どうしてその言葉が出てきたのか自分でも不思議だった。
あぁ、でも自分は生きることに疲れていたのだろう。
死にたくはないけれど、みんなの頭の中にある"普通"という人間像を模索するばかりの人生にきっと限界が来ていた。"普通"の人だったらそんなことに力を使わないのだろうけれども、自分にとっては毎日が努力の連続だった。
毎日生きることに一生懸命だった自分へ。
来世は蝉とか蟻とか無機物とか、その辺のタンポポとか。誰にも邪魔されなくて邪魔することがない存在になりたい。欲張ったりしないから、誰かの一番になりたいとか言わないから。
グッと首を絞めていた力が強くなって、更に身体が持ち上がった。
大蛇が舌なめずりをして、大きく口を開けた。喉の先は底無し沼のように真っ暗で、自分はそこに呑まれていくのだろう。死ぬってどんな感じなのかなぁ、やっぱり痛いのかなぁ。視界が徐々に暗くなり光と途切れる刹那、その隅に人影を見つけた。
あぁロボさんか。
掃除の手を止めているロボさんと目が合った。助けてくれるなんて微塵も期待してないけれども。
あれ。
ロボさんどうしたの。
どうしてそんな顔をしているの。
そんな顔が出来るんだ。ロボさんは驚いたような困ったような悲しそうな、なんとも形容し難い表情をしている。本当にどうして? あぁでもその理由は聞けないや。
ぬるりと生温い粘膜が頭を包みこんだ。
光が入らないそこはひたすらに暗かった。良かった、思っていたよりも怖くない。温かなものに包まれているせいだろうか。むしろ安心感すら感じてしまう。子宮にいるときってこんな感じだったのかな。
飲み込まれていない脚だけが肌寒い。とは言えほんの秒後には全身口の中だろう。外からは酷く優しげな声が聞こえてきた。
「生きたまま丸呑みにしてあげる。とろけて骨になるまで、ずっと子守唄を歌ってあげるわ」
寂しくないようにね、とリンダちゃんは言った。
うるさいな、余計なお世話だよ。