4.「すり潰されてひき肉になるのは、死後火葬されることと何が違うのだろう」
空を見上げて、四方八方を見渡す。
「HOTEL」と書かれた似たり寄ったりの建物ばかりだった。見飽きた景色にため息が漏れる。それでも時間は待ってはくれない。気を取り直そうと首をコキリと鳴らし前を向く。そうして意気揚々と上げた脚は早速行き場を失くした。いくつか建物を超えた先にある人影が目に入ったせいだった。うわぁ、しまった。
他の建物に比べ地味な色をした小豆色の建物。
もちろん派手な建物と用途は同じだろう。その入り口前に三つ編みの少女が佇んでいた。セーラー服を着ていて今時珍しくスカートの丈が膝下まである。お手本のような瓶底眼鏡と目が合って、ガラスの向こうの目が大きく開かれた。そうだよね、きまずいよね。
どうしようもない気持ちになって、顔を下に向けたまま足早に少女の前を通り過ぎた。
横を通る瞬間、視界の隅で少女も同じように下を向いていた。なんてことはない、本日五度目の鉢合わせだった。
なにもかもこの地図のせいだ。
少女の横を通り過ぎて、握っている紙に目を落とす。昨日リンダちゃんに押し付けられたチラシだった。ザラザラとした薄い紙に書いている内容は何度見ても変わらない。デフォルメされた地図は変わらず解読が出来なかった。
いや、失礼なことを承知で言うけれども、今までこの地図でお店に辿り着けた人はいるのだろうか。
手元の腕時計を見ると約束の時間まで残り約五分。ワシッと心臓が掴まれたような感じがした。無性に地団駄を踏みたい。余裕を持って学校を出たはずだったのに。
うしろを見るとラブホテルの前にいた少女はいつの間にかいなくなっていた。
どうやらお相手は見つかったらしい。一抜けが羨ましいと素直に思った。
もうこうなったら最後の手段だ。
チラシの横にはお店の連絡先らしきものが書かれている。電話は得意じゃない。相手の表情が見えないまま会話をするのはひどく恐ろしい感じがする。電話の声が本物じゃないと知ってから、ますます使うのが億劫になった。
とは言え今はそんなことを言っている場合ではない。
携帯を取り出して数字を入力していく。潔く発信ボタンを押した。耳を傾けると、すぐに呼び出し音が鳴り始めた。
二コール目に差しかかったとき、ふと顔をあげた。
「エッ」目の前の道路を挟んだ先にある建物の入り口に目が行く。"二階コンカフェです"と小さく書かれた看板があった。カッと顔に血が昇るのが分かり、始まったばかりの呼び出し音を反射的に切った。
どうして気がつかなかったのだろう、多分きっとあそこだ。
自分の直感を信じて看板がある建物に向かって走り出す。勢いのままに建物に飛び込んだ。
そこは小さなエントランスがあるだけの薄暗い建物だった。
隅には古びた自動販売機がポツンとある。幽霊のようにぼんやりと光を放っていて何とも不気味だった。外とは違うひんやりとした空気に身体が震える。アッ、何か踏んだ。足元をまるまると太ったネズミが目の前を走り抜けて行く。思わずジリと後ずさった。
二階への階段はすぐに見つけることが出来た。
エレベーターがその横にあったが、待ってる時間すら惜しい。階段へ向かって歩き出すとペタペタと床と靴が張り付いた。清掃が行き届いてないのが分かる。
そうしてたどり着いた階段はやけに重々しい石の階段だった。
非常階段に近いそれは外に剥き出しで、雨風を防げない作りになっていた。隣のビルが影になっているせいか外の暖かさを全く感じない。湿っぽい空気を吸い込みながら階段を登ると、タバコの灰や吸い殻がやたらと目についた。見た目以上に急な階段に気をつけながら、なんとか駆け上がった。
そうして二階に到着するとすぐ脇に飲食店らしき入り口が見えた。
扉には「あかずきんの森」と書かれた扉が掛かってある。あれ、こんな店名だったっけ。そう思うものの他にそれらしき扉は見当たらない。ええいままよ、と勢いのままにその扉を開けた。
「遅れてごめんなさい私十七時に面接の予約していた者なんですけど……!」
途切れ途切れの掠れた声しか出なかった。
階段を勢いよく登ったせいだ。手を膝につき足元を見ながら荒い息を吐く。「あれぇだれー? アルファー? ゴメンいま手が離せないんだぁ」パチパチと何か火を起こすような音に混じって、高い声が聞こえてきた。光がない床を見て、電気がついていないことに気がついた。
「すぐ行くから待っててぇ」
間延びした声が続く。
甘ったるい声だなと思いながら息を落ち着かせる。乱れた呼吸が落ち着いた頃、ようやく店内を見渡した。
あぁ、しまった。
どうやら自分の直感は外れたらしい。店内は薄暗く様子が分からないが、赤色と桃色とを基調したファンシーな雰囲気なのは分かる。カウンターの上には造花が飾られていた。
リンダちゃんの格好とは似ても似つかない内装に、慌てて声を上げた。
「あの、ごめんなさい、もしかしたら間違ったかもしれません……」
見えない主人に向かって言おうした声は、やはり掠れてしまって空中に溶けて消えた。
息が上がって声が喉に張りついている。コンコンと小さな咳をして息を整えた。ふと眉間に皺が寄る。あれ、気のせいかな。胸がムカムカする違和感に、改めて鼻に意識を集中させた。
ウッと脇目も振らずに鼻を押さえた。
どうして気がつかなかったのだろう。
生臭い香りが店内に充満している。それを無理やり誤魔化すように、花のような香りを重ねている。チーズを発酵させたような、生ゴミが腐ったような、大便を煮詰めたような、いやいやどれも経験はないのだけれども。
とにかく誤魔化すには無理がある香りを何とかしようとした結果、むしろ考える中で最悪な香りのマリアージュが完成されていた。
仕方がなく息を止めていると、数分もしないうちに声の主人らしい少女がバーカウンターから登場した。
ズルリと何か引きずるような音がする。見ると、人目を惹きつける赤いワンピースを着た少女だった。「おまたせ!」バチっと目が会うや否や、少女は顔を綻ばせて笑った。
酸欠でぼんやりとした頭で、漠然とお菓子みたいな子だと思った。
もしくは全身食べることができる砂糖菓子の妖精。
味は輸入品のキャンディーみたいに舌に残る甘いやつ。もちろんそんなわけないのだけれども。
ポキッと折れちゃいそうな細い手足は繊細すぎるメレンゲ菓子。
彼女の頭上高くに二つに結んだ桃色の髪は、何度も練って光沢ができた飴細工で。それがふわふわと腰元を漂っている様子が着色料いっぱいの綿菓子にも見える。
陶器のように白い肌に嵌められている瞳は陽の下でキラキラ輝く飴玉で、味はいちごみるく。いやラズベリーかも。小ぶりのツヤツヤとした真っ赤な唇は林檎飴がいい。
そうして異臭も忘れて自分は見惚れていた。
どこに惹かれたのかと聞かれたら分からない。けれども一人の人間の容姿にここまで視線を奪われたのは初めての経験だった。頭上の結び目の横にはオオカミのような犬耳がついていて、スカートの裾からはお揃いのしっぽが見える。
このお店のコンセプトなのだろうか。庇護欲を掻き立てる愛らしい格好だった。
「ンッ?」と顔を傾ける仕草を見てハッとする。
ここに来た経緯と弁明をしなければ。少女は片手に何かを持っている。重いのかな。手にしているその黒い影を視界に入れてしまったのは偶然だった。
「えっ……?」
息を呑んだ。
それはどう見ても血だらけの人間だった。だらりと四肢を放り投げて、こうべを垂れている。サラリーマンだろうか。白いワイシャツは面影がないほどに真っ赤に染まっていて悲惨だった。小学生が知っている程度の救命方法が頭の中を駆け抜ける。「あ」それが無駄なことだと、すぐに気がついた。
死体を見たことがない自分にでも分かった。
あれは、確実に息をしていない。
クレーン車に上から押しつぶされたのだろうか。
そう思えるほどに、その人間の身体は不自然にひしゃげていた。生きていたとしても全身粉砕骨折だろう。かろうじて人間だということと性別が男だということが分かる。
グチャグチャなマネキンと言われた方がよっぽど納得出来た。いや我ながらどうしてあれを人間だと判断出来たのか。
あれ。
何か、何か変だ。違和感を感じる。
いやもう既に違和感というか非常事態の連続なんだけれども。
パズルのピースがハマっていくように次々と考えが明瞭になっていく。
男の足元を見て、次に自分の足元を見る。
目を凝らしてじっくりと。「あっ」そうしてすぐに違和感の正体に気がついた。
床は赤色だ。
けれどもペンキのように生乾きで、靴裏で擦るとズリと音を立てながら色が伸びる。赤黒い線が出来たその下には桃色の床があった。大きく息を吸っているはずなのに、いまいち酸素を取り込めている気がしない。
床は大量の血で染まっていた。
全身が硬直する。ゾワリと冷たいものが足元から駆け上がって脳天に直撃した。ゴクリと喉を鳴らす。叫び声は出なかった。
この少女が殺したのだろうか?
この非力でか弱そうな細腕の子が?
見た目からは想像もできない。
ここまで残虐なことがこの少女に出来るのだろうか?
もしかして死体の第一発見者?被害者の仲間?
それとも過剰防衛?
というかどうして何も喋らないの?
沈黙が息苦しい。
バクバクと心臓の暴れる音が聞こえる。そういえば人間は訳も分からない状況に陥ったとき頭が回らないと聞く。それは嘘だ。不気味なほどにいつも以上に思案が止まらない。
現に自分がそうだもの。いやもしかしたら頭が回っていないことに自分自身が気がついていないだけなのかもしれない。
視界の隅で少女が何か気がついたようにピクンと揺れた。
自然と自分の身体も揺れた。お願いだからいきなり動かないで。ゴキブリに対面しているような感想が浮かんで思わず口角が上がる。どうしてか余裕がある。いや違う、余裕があるフリだ。
顔をあげると、少女は眉を八の字にさせて顔をちょっとだけ傾けた。
ウッと胸がときめくのを感じる。そんな顔も可愛いと素直に思った。
「やっば。鍵かけるの忘れてたぁ」
少女が笑った。
宿題を忘れた友人と同じような笑い方だった。片手にはグチャグチャの死体を持っている。非現実的な事実は思考をゆるゆると溶かし、ヒクと顔が引き攣った。
可愛らしい舌ったらずな言い方は、この場に不釣り合いでなんとも滑稽だった。