彼女は賭けを持ち出す。死んでしまった魔人たちと、ビリヤード場の魔人たち。
「楽しんでもらえた?」
「イナフ。心暖まるショウだった」
僕は軽く拍手をした。
スミエの手にはグラスが握られていて、クラッシュアイスの中にミントの葉が紛れているのが見えた。それは彼女にとてもよく似合った。
「きみの楽器はファゴットっていうやつだよね。ジャズには珍しいような気がする」
「あら、詳しいのね」
「いや、ミヤザワの受け売りさ。あれって、けっこう重いんじゃない?」
「そうね、すこし」
彼女はグラスに口をつけた。遠くのテーブル席で誰かが大きく笑った。店の中に鳴っている様々な音は、通り過ぎた夏の幻のようだ。それ自体は陽気だし、そこから何処となく寂しさをも想える。
「あなたは音楽をしないの?」
「いやぁ、楽器は一つも。でも聴くのは好きだよ。エルヴィス・プレスリー、マイケル・ジャクソン、デヴィッド・ボウイ⋯⋯」
「皆んな、死んでしまった人ばかりね」
スミエがそう言ってから、僕は初めてそのことに思い当たった。確かにそうだ。そこで僕は冗談を言った。
「いいや、マイケルはまだ生きてるかもしれない」
スミエはそれを聞いて笑った。それから彼女は、自身の記憶の遠いところを見回すような間をとって言った。
「トミー・リー・ジョーンズが何かの映画の中で、エルヴィスは生きてるって言ってなかったっけ?」
「あったような気がする。えーと⋯⋯」
僕らの後ろでフロアテーブルの空きグラスを集めていたマスターが言った。
「メン・イン・ブラックだな。『自分の星に帰っただけだ』」
僕らは2人して、そのシーンを思い出して笑った。逆さになってトンネルの中を走る平べったいフォードの天井に、ウィル・スミスが叩きつけられてバタバタしてるシーン。その笑い声が店の空気の中に漂って消えると、僕らはまた、それぞれのグラスを傾けた。唐突にスミエが言った。
「ねえ、賭けをしない?」
「えっ?」
僕は自分が聞き間違えたのかと思った。
「賭けをしましょうよ。あなたはわたしと2軒目に飲みに行くの。そこにウィル・スミスかトミー・リー・ジョーンズの、姿か声のどちらかがあったなら、1つわたしの頼みを聞いてくれない?」
彼女は酔っ払って冗談を言っているのだろうか。僕は耳たぶをこすった。考えごとをするとき、昔からつい そうしてしまうのだ。僕は手を下ろし、自分のグラスに目を落としながら静かに言った。
「音楽仲間の方はいいの?」
「いいのよ。皆のことをよく知ってるわけじゃないし」
「⋯⋯それなら、行こうか」
「あなたが勝った時のことは決めなくていいの?」
「さーてね。じゃ きみにキスするのと、ここに僕のボトルを1本入れるのとどっちがいい?」
僕がふざけて言うと、スミエは笑った。
「その2つならどちらでもいいわ」
結局のところ、それは本当にどちらでもいい話だった。なぜなら僕は、その賭けにキレイに負けてしまったから。
ビリヤード場の大きな液晶スクリーンには、普段は外国の音楽ビデオが流れている。けれども僕らがドアを開けて入っていった時、ちょうど森田一義がサングラスの下でニヤリと笑うところだった。トミー・リー・ジョーンズがタモリの切符を切ると画面が切り替わって、2人は列車のデッキに立って缶コーヒーを飲んだ。世にも奇妙なことを見せつけられた。僕たちはエントランスの隅につっ立って、その一連の展開を見ていた。
「モン・デュウ⋯⋯」
僕がつぶやくと彼女は聞いた。
「なにそれ」
「『なんてこった』──フランス語。これを入れて3つしか知らないけどね」
「あとの2つは?」
「『すばらしい』と『愛してる』」
彼女はため息をついて言った。
「あなたきっと長生きするわ」
「どうもありがとう」
僕は礼儀正しいので、褒められてなくても礼をする。「素敵だな」と思いさえすれば。