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彼女の放つ音、そこに含まれる雨の気配。

 店の開店時間を過ぎると、常連客たちが、ポツポツと顔を見せ始めた。魚と野菜を使ったいくつかのツマミがビュッフェ形式で並べられ、客たちはそれを小皿にとって好きずきに座った。ビールと水割りがよく出ているらしかった。カウンターにも見知った顔が並び、彼らと僕は気さくに挨拶を交わした。僕がその日の客の反則一等賞だという話が何度か出た。


 それから最初の演奏の時刻がやってきて、照明が落とされるとミヤザワが簡単に挨拶をした。その日はジャズのスタンダードナンバーをアレンジしたものが、何曲か用意されているということだった。


 楽器隊が半円に並んだ椅子に座った。トップをミヤザワのサキソフォンが取り、金管と木管が何本か。低音セクションの厚い、変わった編成だった。その端にはスミエが座っていて、皆の中で最も長尺(ちょうじゃく)な楽器を構えていた。長くまっすぐなその楽器は、下は座った奏者の膝よりも低く、上は頭のてっぺんよりも高く伸びていた。その楽器の名前が「ファゴット」だということを、僕はかろうじて知っていた。


 僕はその晩の演奏を、なんとなくスミエのパートに注目しながら聴くことになった。どこか人の声に似たダブルリードの音色は、低く引っ張る低音も、ヒラヒラと取り回される高い副旋律も、気持ちよく奏で続けた。すべての楽器との部分的なソリ(2人パート)があったが、彼女自身は一度もソロを取らなかった。


 彼女の音色の印象は、例えるなら降っているのかわからないほどに柔らかな雨のようだった。何かに降りかかってその表面を濡らし、そして初めて雨だと気付かせるようなものだ。アンサンブルの中に溶け込んでいて、意識を向けてやっと、その輪郭をなぞることができる。注意して彼女の演奏を抜き出すような聴き方と合わさらなければ、その仔細(しさい)を後になって思い出すのは難しいと思う。


 ただ心地よさだけがそこに残っている。そんな感じだ。




 時間はあっという間に過ぎて、最後の回のアンコールが、店の中の光と空気に溶け込んで消えた。皆が拍手をして、拭き取ったように空っぽになったビュッフェの皿が下げられた。催しの後で片付いた空間を見ると、僕はいつも思うことがある。今あったことは何かの思い違いで、それはこれから始まることの記憶の前借りのようなものだったのではないか、とか。けれどももちろん、そのようなことはない。演奏会は確かに終わったのだ。


 今日の会の提供者は手馴た人間の集まりだ。楽器は拭かれてケースに収まり、テーブルの位置もすぐに戻された。すぐ後で、演奏隊は繋げられたテーブルに着く酒飲み隊に変わり、時々の労う声の内容に耳を澄ませなければ、彼らがここで音楽会を終えた後だということは見て取れないほどになった。まるで品のいい通り雨だ。演奏の余韻を肴に酒を飲む人々で、酒と食事はよく出た。マスターは忙しく、そして機嫌が良さそうだ。


 カウンターにミヤザワが来て少し話した。いつものように今回もいい演奏だったと労い、彼も満足していた。見た通りのものは、脚色きゃくしょく謙遜けんそんもいらない。そして彼は楽器隊の席に戻っていった。スツールの凹みが消えるより早く、またスミエが僕の隣にやって来た。

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