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雲の通り道にある街。音楽会で僕は彼女に出会う。

 陸地に雨を降らせた雲は、やがて海岸線の上空を超え、その先の大洋へと抜け出ていく。僕の住む街は、そんな雲の通り道にあった。半島に小さな街があり、その突き出た陸地の突端(とったん)には一軒の綺麗な民宿がある。


 陸に住む生き物の世界はそこまでで、その急激な断崖の先にはただただ青い海が広がってるばかりだった。季節の変わり目には、急かすようにも 物悲しいようにも思える風が吹いて、海鳥たちはそれに乗って飛んだ。




 9月も終わりに差し掛かり、街にはよく雨が降った。半島のあたりに秋雨前線がやってきていて、そのせいで雲が湧き出ては、街を少し湿らせて海の先へと消えて行くのだ。街に住む者共がギュッと冷えたビールを飲むのをやめてしまうと、僕が(かよ)うバーもずいぶんと静かになる。


 「ハンドレページ」というのが、そのビールの満ち干きで小舟のように揺れる小さな店の名前だ。金曜日の夜に、僕はカウンターに取り付いてチビチビと水割りを飲んでいた。マスターは映画情報誌を食い入るように読み続けている。氏はオードリーヘプバーンの最盛期に、劇場で彼女の映画が見られなかったことを悔いていた。生まれていないものはどうしようもない。


 ⋯⋯なにをもって一人の女優のキャリアの、その最盛期がいつだったのかを見極めることが可能なのか、それは僕には分からない。僕は退屈してマスターに言った。


「今日も、ヒマだねえ」


「⋯⋯うん」


「なにか面白そうな映画はある?」


「⋯⋯うん」


 だめだ。この店の空調もマスターも上等で新品というわけではない。夏の間にフル回転させたあとでは、その働きも鈍くなっている。僕は天井に付いたエアコンのフィルターカバーの端が歪んでいるのを眺めてから水割りを飲み干した。


「おかわり」


「⋯⋯ハイ」


 マスターはのっそりとした動作でグラスを下げ、壁の棚から瓶を取った。カラカラと音がして、新しい水割りが運ばれてきた。


「飛べ、フェニックス」

 グラスを置いてマスターが言った。


「なに?」

「飛べ、フェニックスのリメイクがあるよ。映画。来月」


 砂漠に落ちた飛行機の乗員たちがスッタモンダする映画らしい。話を聞いただけで、僕はまだ観たことがない。僕はふざけて言った。

「こんどは墜落をしないんじゃないかな」


「肉の入ってないカツレツは、ないよ」


 僕は小さく溜息をついた。

「なるほどね。次で何度目なの?」


「リメイク? 最初のを入れて三本目だね」


「他にも作り直すべき映画がいっぱいあるんじゃないかな」


 マスターは内側からカウンターに肘をついて言った。

「たとえば?」


 僕は昔に観た映画のタイトルをいくつか思い出した。けれども、もう一度作り直す必要のないものと、もう一度作り直しても見込みのないものしか思い出せなかった。

「いや、やっぱり一つもないかもしれないね」


 マスターは小さく笑った。


 扉が開いて、近所に住むミヤザワが入ってきた。彼とは高校が一緒だった。彼は吹奏楽部にいてクラブは違ったのだが、同じ選択授業で一緒の班になったのをきっかけに、仲良くなって遊ぶようになった。そのまま関係は現在に至る。ハンドレページで会うと一緒に酒を飲んだ。


 選択授業の内容は、(かえる)を開いてアルコールランプで焼いたんだか、それともシャツの胸に縫い付けて根性がどうとかしたのか、今となってはどうでもいいことだ。僕はミヤザワに向かって言った。

「元気?」


「おう。ぼちぼちさね」


 いつもの人懐っこい笑顔でミヤザワは言った。



 彼はハイボールを注文し、タバコに火を点けた。それから僕に言った。

「明日ヒマなら来ておくれよ」


「そっか、もう第四土曜日か」


 ミヤザワは今も楽器を続けている。そしてこのハンドレページで、定期的に音楽会を開いているのだった。彼が演奏するのはサキソフォンだ。一番小さいやつから3種類持っていて、その時の編成で使い分ける。それで飯を食っているわけではないが、趣味でもキャリアが長い分なかなかうまい演奏をした。


 音楽会といってもささやかなもので、フロアのテーブルを半分くらい退()けて演奏される20分くらいのステージが3回あるだけだ。僕もよく顔を出した。ここに座って飲んでいるのと、結局はあまり変わりもない。

「こんどは何人編成なの?」




   ──5人




「5人だよ。よかったら是非に」


 僕は答えた。

「そうか、よし分かった」


 それから僕らは他愛のない話をした。毎年の、この時期の雨のこと、最近のニュース、常連の誰と誰(男女)がこんど出かけるだとか、もう二度と出かけないだろうとか、そんな話だ。2人だけの客では、マスターはやっぱり手空てすきだった。僕らがおかわりやツマミを頼むときだけのそのそと動いて、あとはまた映画雑誌を読み続けた。一度だけミヤザワと、翌日の打ち合わせのようなものがあった。


「譜面台は何本あったっけ。──それなら足りるね」

 それくらいの簡単なものだ。ミヤザワはその時によって入れ替わりで音楽仲間を呼び寄せたが、曲目以外には特に新しいことをするわけでもなかった。たまに店の仕入れで旬の食材が入ると、普段のメニューにない(さかな)をマスターが作ってみるくらいだ。


 見たことのない二人連れの女客が入って来てテーブルで過ごし、あまり長い時間かからずに出ていった。日が落ちて僕がやって来てからは、客はそれで全部だ。まあ仕方ない。金色の季節は泡と過ぎ去ってしまったのだ。外では涼しい風が吹いている。僕はスツールを降りて勘定をした。

「きっと皆、明日来るんだよマスター」


「心配してるのか? この店はそこまで苦しくないさ」


「じゃあねミヤザワ。⋯⋯そうだ。明日は何時?」


 ミヤザワは新しいタバコを取り出しながら言った。

「7時だよ。いつもと一緒」


「そっか。じゃ明日ね」


 僕は2人に見送られて店を出た。ドアが閉まると、街灯に映されたビルの小さな連なりの間から、その小さな街が鳴らす低い(うな)りが聞こえた。エアコンの室外機とか、自動車のエンジンとか、自動ドアのモーターとか、そんな音だ。ゆったりとした風が吹いていた。それは少しばかりの湿気を含んでいて、夜中に雨を降らせる雲の気配を感じさせた。空を見上げると、星と月を覆い隠す黒い水蒸気の群れが、丘から海の方へ向かって移動しているのが見えた。




   ──6時




 明日また、6時にここへやってくればいいのだ。そういえば明後日の日曜日には、岬の民宿へ車で出かけるのだった。そこは僕の叔父が経営してる。氏は弟にあたる僕の父よりも大分年上の兄貴で、もうずいぶん年寄りだ。夏の繁忙期にだけアルバイトを雇い、あとは1人で細々と、民宿の住み込み管理をしていた。きっと今時分(いまじぶん)は、宿泊客はゼロか1組といったところだろう。穏やかな時間を過ごしているに違いない。僕は夜の風の中を歩いて、駐車場付きの自分のアパートに帰っていった。



 翌朝僕は目を覚ます。簡単な朝食を作って食べてから、必要な買い物をするために外へ出た。天気は晴れだ。空は秋の青さをしている。海がひっくり返ったように深い夏の青さとは少し違う。笑った太陽の周りには、まだ口に出せないでいる大切なことが心に引っかかったような感じで、水蒸気の薄いヴェールが掛かっている。


 玄関脇から見える駐車場には、叔父から譲り受けた古いボルボ・セダンが停まっている。そのボンネットの上に、近所でよく見る縞の猫が眠っていた。こちらから見えないバンパーには、そいつが登るときに付けた砂の足跡があるに違いない。

「おい」


 声を掛けると、そいつは耳をピクリと動かしただけでまた眠り込んでしまった。まったく仕方のないやつだ。用事は近所なので、僕は歩いて出発した。


 夕方の6時までに、靴屋をブラついてから本屋に寄る。冬までにブーツを一足買おうか迷っているのだが、なかなかコレというデザインがない。難しいものだ。


 本屋へ行くと、好きな作家が文芸誌に久しぶりの短編小説を書いていた。その頭の部分をチラリと読み、レジに持って行って買う。大昔に死んだミュージシャンの話だ。そのミュージシャンのように「◯◯の神様」と呼ばれるような人間でも、結局は皆いなくなってしまう。レジにいたアルバイトの女の子は、まるで中学生みたいな背格好だった。人間は誰にでも、中学生くらいの頃があったのだ。


 スーパーに寄って、日持ちの物の一週間分を買う。ホタテの缶詰が安売りだった。それも4つ買う。アパートに帰ると猫はいなくなっていた。残っていたキャベツと4つのうち最初の缶詰で炒め物のツマミを作り、飲みだしてから2ヶ月経った貰い物のバーボンの残りをグラスに開けた。香りもアルコールも、もう瓶の中でほとんどまん丸になってしまっていた。アメリカからやってきた長い旅の終わり。ケンタッキーの我が家から、ミシシッピーの彼方へと。


 短編小説を読んでしまうと、僕は文芸誌をソファに放り出した。そんなことをしているうちに、時刻は夕方を迎える。



 6時にハンドレページのドアを開けると、テーブルを動かしていたマスターと、譜面台を組み立てていたミヤザワと、それから楽器を手にした何人かの人々が一斉にこちらを見た。だいたい顔を見たことがある。僕はそれを見回してから自分の手首を見て腕時計が付いてないことを発見し、壁の時計を見た。6時だ。僕はキョロキョロとしながら、誰にともなく言った。

「やあ。今日は音楽会なんだって?」


 ミヤザワが譜面台を持ったまま言った。

「そうだよ。7時からね。⋯⋯一体どうしたのさ」


 どうやら時間を勘違いしたらしい。昨日確認したばかりなのにおかしなことだ。仕方がないので冗談を言った。

「待ちきれなかったんだ。オイラは街一番の音楽好きでね」


 マスターがブフッと品なく笑い、他の皆もクスクスと笑った。顔が少し熱くなった。ビールが飲みたい。ミヤザワが、僕と楽器隊を交互に見てから言った。

「紹介しよう。俺のともだち。この街のエディマーフィーだ」


 ──前も来てくれましたね ──こんにちは

 皆がパラパラと言った。その空気は、ボテボテのゴロで1塁が刺されて2塁はギリギリのセーフといったところだ。

「カウンターでビール飲んでてもいいですか? 邪魔はしないからさ」


 皆は暖かく頷いた。マスターがジョッキを置きながら言った。

「ようこそハンドレページへ。楽しんでくれよ」


 僕はマスターに礼を言い、それから音楽家たちに振り向いて軽くジョッキを上げた。まったく、どうしてこんな勘違いが起きてしまったのだろう。それが例え自分の責任であろうと、不意を突かれるというのは参る。参った時にはビールが一番だ。


 音楽家たちが、木管や金管の音をパラパラと鳴らした。それを背と耳で聴きながら一杯やるというのも、なかなか心地の良いものだった。切れぎれの言葉によると、彼らのスタジオリハーサルは午前中のうちに済んでいるらしく、あとは本番前にチューニングを合わせるだけということだ。


 楽譜を眺める者がいて、演奏前の気分作りに軽く一杯飲む者がいて、タバコを買いに外へ出る者がいた。演奏会前の店の中の空気は、枝葉がスカスカした樹木のように感じられた。取り止めがない、しかしそれで気持ちがいい。


「いいかしら?」


 1人の女性奏者が隣に立った。

「どうぞ。間違ってオジャマして悪かったね」


 僕は隣のスツールを勧めた。彼女はミヤザワの知り合いの中で、まだ僕が見たことのない人物だった。僕より少し若いくらいだろうか。女性にしては少し背が高く、黒いノースリーブシャツからのぞく腕は(なめ)らかで白い。彼女はまるで風か雲のように軽々とした身のこなしでスツールに上がると、カウンターの向かいにある酒瓶の列を珍しそうに眺めた。僕は彼女に聞いた。

「ミヤザワの友達だよね」


「そう」

 彼女は瓶を眺めながら言った。あるいは棚板(たないた)の厚さを見ていた可能性もある。


「ウィスキーが好きなの?」

「あんまり飲んだことはないけど、ラベルのプリントが格好いいわよね」


 僕らの前に並んだ瓶には、たしかに様々な絵柄のシールが貼られている。カティサークの帆船が風を掴んで(はし)り、オールドクロウは翼を畳み物憂げに一点を見つめ、フォアローゼスの赤い花が可憐に咲いている。僕はその中の一つを指差した。


「それは知ってる? ステッカーが斜めに貼ってある四角い瓶だよ」

 彼女はそちらを見て、印刷されたアルファベットのスペルをゆっくりと読んた。

「ブラック⋯⋯ラベル⋯⋯」


「そう。ねえ、ロックを一杯飲んだら演奏に障ってしまうかな」

 僕がそう言うと、彼女は初めて僕の方に振り向いた。髪の先が宙に回って、二つ並んだ月夜の泉のような目が僕を見た。彼女の唇が音を作らずに動いた。


 ろっくを いっぱい のんだら えんそうに ──


 何か気に触ることを言ったかと思って、僕は少しばかり眉をしかめた。彼女はそれを見て取ったのか、笑って首を振った。また柔らかそうな髪が揺れた。


「大丈夫よ。飲んでみたい」

 彼女の声は、つい最近街のどこかで聞いたはずなのに思い出せないような、不思議な感じのする声だった。僕は一口残ったビールを飲み干して、灰皿を拭いていたマスターに声を掛けた。


「ロックを二つ、時代を歩き続ける一族の物語に添えて」

「ジョニーウォーカーな。黒でいいかね」

「そう」


 いつもの言葉遊びだ。彼女が小さく笑うのが聞こえた。ジョニーウォーカー・シリーズの歴史は、商人一家の壮大なサーガだ。一口で説明することはできない。


 彼女の名前はスミエといった。ミヤザワとの親交は、「彼の音楽社交界でわたしは一番の新参よ」ということだった。学生時代から何年も音楽を続けているとどんな社会性が発達するのかは、ミヤザワを長いこと観察している自分にとって興味深いテーマだった。彼は演奏会がある(たび)に、管楽器アンサンブルに限らず様々な編成を用意した。いつも少しずつ、時には大胆に違った顔ぶれがやってくる。僕はその不思議さについてスミエに話した。


「それはきっと、大して特別なことなんかじゃないと思う。例えばあなたは、これよりスッキリとした香りのウィスキーをわたしに教えてくれるのって、できるでしょ?」


 僕は「白州」の緑色の瓶を見た。

「まあね」


「これよりもギュッと辛口のウィスキーは?」

「それなら一度バーボンを試してみるといいだろうね」

 僕はファイティングクックの瓶に貼られた、威勢のいい軍鶏(しゃも)のイラストレーションを見た。


「なにか変わった飲み方の話をしてみて?」

「アイリッシュコーヒーはコーヒーとクリームを使ったウィスキーのカクテル。飛行機の乗り換えで吹きさらしになる乗客の体が冷えないように考え出されたのが始まりという⋯⋯ま、逸話(いつわ)ってやつかな」


 マスターが向こうで口を添えた。

「この店のハンドレページという名前は、イギリスの飛行機会社から取ったものなんだぜ?」


 スミエはそれらを満足そうに聞いていてから、僕に笑いかけた。

「ね? そういうことよ。音楽仲間ってのも」


「⋯⋯そういうこと、ねぇ」

 僕は自分のグラスを傾けた。スミエはスミエで、何か心地の良い考え事でもしているみたいに、角が少しずつ丸くなっていく氷の入ったジョニーウォーカーを飲んだ。


「じゃ、そろそろ支度(したく)に行かなきゃ。今日は最後までいるの?」

「ひどい混雑にならなければね。僕は居座るのが長いことで店じゃ有名なんだ」

「そうしたら今日は、お店の営業より長くなるのね」


 壁の時計は、まだ7時を指していない。

「確かに。そうなれば新記録だ。一つ哲学を教えてくれてありがとう」

 僕がスミエにそう言うと、彼女は首をかしげた。僕は続けた。

「世の中にいろんな酒があるのと一緒なんだね」


 彼女は笑った。

「そう。そういうこと」


 マスターがそれとなくこちらを見ているのに気がついた。僕は片手の二本の指を揃え、その手でカウンターの天板をそっと突いた。一緒の伝票に付けて構わないということだ。

「ありがとう」とスミエが言った。


「バレたか」

 スマートというのは難しい。そして彼女は音楽の社交界に戻っていった。

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