リンク・コネクト
リンク・コネクトという物がある。
離れた場所へと物質を瞬時に移動する事が出来るという、夢の道具だ。有名ロボット漫画に登場する道具が実現した、と今話題になっている。起動しなければ何の変哲もない長方形の枠なのだが、起動すればそこに光が満たされ、対応するリンク・コネクトに繋がるという仕組みだ。
原理としては、量子テレポーテーションを原子集合体レベルで引き起こした物らしい。僕自身量子テレポーテーションというものが良く分かっていないので、そこの説明は出来ないのだが。最初に実現されたのは1997年で、その時点では量子レベルの話だった。その後研究が進み、2037年現在は理論上人間の転送が可能となった。しかし、人間で実験するのはまだ先の事らしい。とは言ってみたものの、僕にも原理は良く分かっていない。それでも物質を転送出来る夢の道具という事には変わりはなく、相当な規模の物も転送が可能。現に、地球で作った基地を月に転送して、月面基地を実現したりもしている。
しかし――
「犬に奇妙な行動が見られ、懐いていた人間に突如――」
イヤホンから流れる、ニュースキャスターの声が耳に入る。
喫茶店で中学時代の同級生と待ち合わせをしていたのだが、一向に相手が来ないのでカウンター席で珈琲を飲みながら時間を潰していたのだ。冬の寒い中を歩いて来たので珈琲の温かさは心地良い。未だ待ち人は来ないので、リンク・コネクトについての考察を続ける。
実験マウスの次の段階として、ある人物に懐いたペットを転送したのだ。しかし、転送された先で、もとの飼い主に懐いた様子が全くない。生活に支障は無く、仕込まれた芸も問題なく出来るのだが、なぜか懐かなくなってしまったのだ。
これでは人間がリンク・コネクトとして使うのは不可能。毎朝通勤ラッシュに悩まされる僕としては大いに残念なのだが、通勤ラッシュに悩まされないためだけにリスクを冒す気概も勇気も僕には無い。
その時、外の寒さに負けて着て来た黒いコートのポケットに入れたスマートフォンが震えた。
待ち合わせをしていた友人からの連絡だった。雪で電車が止まり、来る事が出来ないとの事。
外を見ると、結露で曇ったガラスの先で、確かに白い粒が舞っている。友人の家は遠く、久しぶりに会えると思って楽しみにしていたのだが、この分だと持ち越しになりそうだ。
おかわりしたばかりの珈琲をじっと見つめ、仕方が無いのでこの一杯だけでも飲み干してから店を出ると言う決心を固め、一気飲みをするべくコップを持った時の事だった。
――カラン、カラン。
木造のドアが開く。何の気なしにそちらを向くと、淡いオレンジ色の照明が照らす店内に、見知った顔があった。肩で綺麗に切り揃えた髪についた雪を煩わしそうに払う、茶色いコートの女性だ。
「あれ、陸。なんでここにいるの?」
「いやなんでと言われましても」
思わずそう返してしまい、言葉を返してしまった以上何か言わねばと言うべき言葉を模索していると、暖かい店内で雪が融けた事によって、濡れたコートをたたんだ美穂が椅子を引いて右隣に座る。
そう、この女性は朝葉 美穂。計らずとも同じ喫茶店に入ったようで、今日待ち合わせていた友人と同じく、中学時代の同級生だ。さして仲が良かったわけでは無かったが、共通の友人を介して何度か話した事はある。
「で……飲んだら?」
「ん?……ああ」
一気飲みをしようと持ち上げていた珈琲をまだ飲んでいない事に気が付いた。しかし、ここで一気飲みをするか否かで店を出るか出ないかが決まる。帰るつもりだったが、待ち合わせの相手と同じく中学時代の同級生の美穂が来たので、ここは一気飲みをせずにゆっくりと飲ませてもらう事にする。
女性が見ていると――例えその女性がため息を吐いていたとしても――男性は格好つけたくなるもので、イヤホンを外したうえで極力優雅に珈琲を口に運ぶ。
「そういえば、リンク・コネクトってあるよね」
「ぐふっ」
珈琲に由来する霧を口から噴射する事は避けられたが、唇の端から一筋の液体が零れた。顎から液体が落ちる寸前に危うく拭い、返答する。
「あ、ああ」
僕の動揺っぷりを見て不審な目つきになった美穂の視線が痛い。中学時代から美穂の美貌は変わっていない――のは良いのだが、俗に「凛とした」と言われるたぐいの顔は、不審な目つきになると心の内まで見透かされるような錯覚を覚える。
――現にリンク・コネクトの事言い当てられたもんな……
と考え、いやいやと首を振って思考を頭から締め出し、不審から胡乱へと変化した美穂の視線を冷や汗を垂らしながら受け止める。
一度ため息を吐いた後、カウンターに目を落とした美穂が口を開いた。
「……何で動揺したかは知らないけどさ、リンク・コネクト。知ってる?」
「し、知ってるさー」
「アンタそんなキャラじゃないでしょ」
おっしゃる通りです……と言わんばかりに委縮する僕を美穂は一瞥し、はあ、とため息を吐いてマスターに珈琲を注文した。
そのままこちらを見ずに、独り言のように呟く。
「怖いよねぇ……」
確かに怖い事は怖い。先程まで聞いていたニュースによると、犬と主人とを結ぶ《絆》が消失してしまったと言う話らしかった。人間にもそれが起こるとしたら、リンク・コネクトが人間を転送するのは到底無理だ。
「通勤ラッシュが解消されると思ったんだけどな……いつになる事やら」
返事が無い。
押し黙ってしまった美穂の方を見ると、整った顔の構成要素の一つである口が、ぽかんと開けられていた。
この表情は長い中学校生活の中でも見た事が無く、あの姐さん肌の美穂が……!?と戦慄してみたものの、美穂がその表情で固定されているので、やむなく口を開く。
「あの……どうかしましたかお客様」
ようやく硬直が解けたようで、口を数度パクパクと開けたり締めたりした後、珈琲を飲んで落ち着き、いつも通りの仏頂面で振り向く。
「アンタ店主じゃないでしょ……じゃなくて、もしかしてリンク・コネクト使う気でいるの?」
そりゃ、楽になるに越した事は無い。鹿爪らしい顔で頷くと、本日何度目になるのか分からないため息を吐かれる。
「……リンク・コネクト。私もそう深く理解しているわけじゃないけど、珈琲奢ってくれるなら教えてあげましょうか?」
「お、お願いします……」
うむ、感心感心と言わんばかりの顔で頷く美穂様は僕の奢りとなった珈琲を飲み干しておかわりをする。
アノ、おかわりの代金どうなるんデスかと言いたくなったが、勿論僕の奢りだろう。
おかわりの珈琲を待つ間に、美穂は左手の人差し指を立てて説明を始めた。
「良い?まずね、量子テレポーテーションって言うのがあるわけよ」
「ハイ」
教え子の気分を味わいつつ、そういえば美穂は今何の仕事してるんだろうな、もしかして教師かな、などと考えつつ、右手と左手の指を組み、その上に顎を乗せて先生の話を聞く。
「この名前から誤解されがちで……多分アンタもこの名前で誤解したんだろうけど、この量子テレポーテーションって言うのは物質の移動じゃないの」
ムムム?と首を傾げる。
「殆ど同じような物って意見もあるんだけど……」
お返しとばかりに胡乱な視線を返すと、何ガンつけてんだよというような表情をされたので戦略的に撤退を選ぶ。
「物質って言うのは情報を持ってるわけよ。情報が変われば、物質も別の物に変わる。例えば……そうね、空白のキャンパスがあるとするでしょ?」
「大学?」
僕の渾身のギャグに冷たい視線が突き刺さり、絶対零度で凍らされたギャグは、時間が経ったゴムのように劣化し、崩壊した。
誤魔化しのように珈琲を口に運ぶと、美穂が話を続けてくれる。
「で、そこに絵を描くわけよ。アンタ、自分が何の動物に似てると思う?」
難しい問題だ。過去何回か聞かれた問いだが、納得の行く答えに行き着いた事が無い。
真剣な顔で悩み始める僕を、なぜだか美穂が温かい視線で見守っている。待ってくれているようなので、ここは良い解答を出さねば、と悩み続ける事数分。珈琲と共に冷めていく視線に打ち勝つべく、何とか納得出来なくもない解答を捻りだした。
「兎!」
「はい?」
温かかった視線は見る影もなく、困惑の表情を浮かべる美穂に解説を始める。
「兎は寂しいと死んじゃうんだよ?」
店内だと言うのに冷気を感じ、コートの前を合わせると、ゴホン、と咳払いをして真面目に答える。
「僕ってさ、一人だった事があんまり無いんだ。子供の頃から、ずっと誰かが一緒にいてくれるな……って。今日だって一人で帰ろうと思ったら、美穂が来てくれたし」
「そ、そう……」
美穂は視線を落とすと、まだ半分以上残っていた珈琲を一気飲みし、マスターにおかわりを頼む。そんなに高くないので財布へのダメージは少ないが、カフェインをとり過ぎると体に悪いので、美穂の体が心配になった。
美穂はカウンターを右手の人差し指で小刻みに叩くと、二ヤリと笑って言った。
「そう言えばアンタ、中学の時一人でトイレに行けなかったもんね」
「忘れてください!」
カウンターに額を押し付け、許しを請う。
元来、僕は怖がりな人間ではあるがあれは少々、いやかなり状況が違う。トイレに座っていると天井板が開き、目を血走らせたひげもじゃのおじさんが顔を出す……という、トイレの怪談らしからぬ話だったのだ。それだけにリアリティがあり、しかも度々トイレに詰まる髭が目撃されている。かくいう僕も目撃した事があるのだから、否定しようがない。髭を目撃した後恐怖で足がすくみ、トイレの床を這っていったのは良い思い出……なわけがない。
僕の予想では学校の天井裏に誰か住んでいたと思うのだ。
「幽霊騒動があったじゃないか!皆、一人で行けてなくて……」
「あら、私は行けてたけど?」
確かに、他の女子は固まってトイレに出かけるのに、美穂は一人で行っていた記憶がある。強者というか無神経というか、本人の前では絶対に言えないが、美穂を姉御と慕う一派がこそこそとついて行っていた。勿論男子であり、流石にトイレの中まではついていかなかったようだがボディーガード気どりだったらしい。
何も言えなくなってしまった僕を一瞥すると、美穂は《悪だくみ》と字幕が出そうな笑い方をすると、言った。
「それに……あれ、先生のドッキリよ?」
「は?」
今美穂は何と言っただろうか。ドッキリ?いやいや、タチが悪過ぎる。それに、僕は確かに見たのだ。トイレに詰まる髭を。
「知らなかった?あ、そう言えば休んでたっけ。騒ぎが収まった頃に、先生が学年の生徒を集めて言ってたでしょ?ドッキリって」
――えぇえぇえぇえええええええー!?
内心では絶叫をあげるほど驚愕していたが、それをおくびにも出さずクールに珈琲を飲む。
「……そんなに信じてたの?」
おくびにも出していたようだ。
信じていたも何も、髭を目撃した記憶は確かにあるのだ。先生達はそれも用意したという事だろうか。
「でも……髭が」
「あれは先生が流した噂でしょ?誰も見た人はいないわ」
いや、見ました。僕見ました、という事を伝えるべく鹿爪らしい顔で口を開く。
「僕見た事あるけど……」
「……」
美穂は突如として無表情になると、クールに珈琲を飲む。落ち着いた後少々引きつった表情でこちらを向き、深呼吸をしたうえで震え声を発する。
「……噂じゃなかったの?」
「……うん」
二人無言で珈琲をすする。
「……先生噂って言ってたよ?」
美穂は噂だと信じたいようだが、僕も見たものが幻覚とは思えない。なので、別方面から攻めてみる事にした。
「……先生って、ドッキリを仕掛けるような性格だったっけ?」
「……」
美穂が黙ってしまったのは、そういう性格では無かった事を思い出しているからだろう。いかにも教師然とした先生が揃っており、修学旅行でも就寝時間は厳守だった。
しかし、あまりに驚きだったのか美穂が珈琲を見つめたまま固まってしまった。このまま怖がらせても良いが、後が怖いし、何より僕が怖いのでこの話題は打ち切る。
「……この話やめようか」
「……だね」
二人同時に珈琲を飲み終わり、おかわりを頼む。
珈琲を待つ間、何事も無かったように美穂が講釈を続ける。カウンターを叩く指の速度が微妙に速くなっているのは気のせいだろう。
「……兎が描かれたキャンパスをAキャンパスとするでしょ?このキャンパスはいわば空間で、兎は情報。何も描かれてないのがBキャンパス。この二つは全く同じ大きさで、重さも厚さも同一。もしも、このAキャンパスの絵を一旦消して、完璧に同じ物をBキャンパスに描いたとしたら、BキャンパスはさっきまでのAキャンパスと同じ物と言えるかしら?」
「それは……言えないかな」
先程までの怖い話は忘れ、リンク・コネクトの話を真剣に聞く。
「どうして?全く同じキャンパスに、全く同じ絵の具で、全く同じ絵が描かれているのよ?」
「同じ絵だけど……違う絵だろ?」
僕の解答に、なぜかビシッと突き付けられる左手の人差し指。
「そう、そこなの。量子テレポーテーション……リンク・コネクトはいわば、AキャンパスからBキャンパスに絵を転写するような物」
首を捻って数秒考え、ああ、と理解する。
つまり、リンク・コネクトで移動する前の物質――即ち、Aキャンパスの兎の絵が、リンク・コネクトによって移動した事によって、兎の絵がAキャンパスから消える。それと同時に、空白だったBキャンパスに、新たに兎の絵が描かれる――即ち、物質に情報が書き込まれ、Aキャンパスに描かれていた兎が出現する。
「って事は……移動した後の人間は、移動する前と違う人間って事?」
だとしたら大変な事だ……と思って発した問いは、美穂によって否定された。
「いいえ、同じよ。あくまで、同じ人間。だってそうでしょ?全く同じ体を持っていて、脳細胞に刻まれている記憶だって引き継がれるんだから」
しかし、それでも何か違う。漠然とした考えを言葉に出来ぬまま、策無しで言葉を紡ぎ出す。
「でも……」
僕が口籠ってしまうと、美穂は突然優しい顔になった。
「でもね、これってとってもロマンチックだと思わない?」
「へ?」
予想外の言葉に、思わず間抜けな声が出てしまった。
「だって……リンク・コネクトで移動した後の犬が、飼い主に懐かなくなったでしょ?これ自体は悲しい事だけど――」
そこで美穂は口元を綻ばせ、言った。
「それってつまり、《絆》って言うのが存在するって事だと思うんだ。そうすると、リンク・コネクトは絆を切る物……つまり、カッティング・リンクって事になるのかもしれないけどね」
美穂が皮肉な事を言うが、その内容には思考が回らず、僕はしばしの間美穂の表情に見惚れていた。
美穂もその事には気が付いていただろうが、嫌な顔一つせずに待っていてくれている。ようやく脳を再起動すると、気の利いた言葉は無いかと考え、口にする。
「そうか……そうなるかもね」
結局それ以上は言えなかったが、美穂は嬉しそうに頷くと、何かを言おうと口を開いた。
「だから、何かの縁だし――」
その時、喫茶店の外から大きな音がした。
金属が何かに激突するような音。窓の外を見ると、喫茶店正面のビルにトラックが突っ込んでいる。
「っ……!」
トラックは横転しており、中の運転手もただでは済んでいないだろう。近年急速に発達しているAIの自動運転もまだ実験段階であり、運転手は必要となっている。
何が出来るかは分からないが、人手が必要な場合もある。急いで店から出ると、トラックに駆け付けた。
「大丈夫ですかー!」
という言葉を叫んだのは、僕ではなく美穂。彼女も同時に店を出ていたようで、珈琲のお代がチラリと思考を掠めるが、後で払えば良い、と振り払う。
運転席を見ても、人はいない。
「そういえば、何でトラックに荷物が……」
美穂が呟く言葉を理解し、咀嚼する。
2037年。未だ生物の転送は完全ではないが、物質の転送は盛んに行われている。リンク・コネクトは案外費用が安く、トラックで運べるくらいの大きさなので、トラックの荷台にリンク・コネクトを積んで、家の前に着いたら下ろす……というのが主流となっているのだが、このトラックにはリンク・コネクトに加え、見慣れない楕円形の物が二つ入っていた。
リンク・コネクトを利用した犯罪。海外から武器を輸入する事が容易なため、最近多発している無差別テロ。それに使われる爆発物、それは――
「手榴弾!?」
発信機のような細いアンテナが立っている事から、遠隔で爆発させる事が出来るのだろう。
リンク・コネクトの性質上、運ばれる物の検閲は出来ない。リンク・コネクトにカメラを取り付ける事も出来るが、殆どの企業がそれをしていない。しかもこのリンク・コネクトは改造されているようで、本来両側から、リンク・コネクトのON/OFFが出来るというのに、少なくともこちら側にはスイッチは無い。手榴弾を投げ返しても、リンク・コネクトの表面に弾かれた。トラックの残骸である鉄屑の一部はリンク・コネクトに半分ほど入っているので、こちらからあちらに行くには、質量か大きさ。どちらかが足りないのだろう。
「しかもこれ...破片手榴弾」
「破片?」
詳しい様子の美穂にそれが何なのか聞くと、物騒な返答が返って来た。
「破片を飛ばして広範囲に被害を出す物だよ。アンテナもついてるから、多分遠隔で……」
周囲を見渡すと、野次馬がどんどん集まってきている。こんな中で破片手榴弾が爆発しようものなら、大変な事になるだろう。
その時、手榴弾からピピッというような音がした。
猛烈に嫌な予感がしたが、手榴弾の真ん中付近に嵌め込まれている液晶を確認してみると、赤い文字で『01:00』と表示され、『00:59』と、一秒に一つずつ数字が減っていく。投げ込まれた二つの内もう片方も同じだ。恐らく、時限爆弾。
扉のような形をしたリンク・コネクトの表面は、まだ光り輝いている。つまり、まだあちら側への道は残されているという事だ。リンク・コネクトの上部には『01:27』と表示されている。爆発した後に閉じる仕掛けだという事だ。
「美穂、周りの人達に警告しておいて」
「分かった……けど、アンタはどうするの?」
やろうとしている事が知れたら、きっと美穂は止めるだろう。だから答えず、手榴弾を片手に一つずつ拾うと、リンク・コネクトの光る扉を目指す。
トラックの残骸の中を歩き、何とか辿り着いた時、リンク・コネクトの枠上部に表示された数字は『00:43』。僕が何をしようとしているのか察したのだろう。物陰に隠れてください、と警告していた美穂の足音が近づいて来る。
『00:41』僕は、光の扉に身を躍らせた。
辿り着くと、瞬時に思考が再開された。数字を見ると、『00:40』。リンク・コネクトにかかった時間はほぼ0秒だと考えられる。
出たのは殺風景な部屋だった。いると思われた人はおらず、ピッチングマシーンだけが置かれていた。ピッチングマシーンに積まれている手榴弾を見て、笑えて来た。こんな装置で人の命が沢山奪われるのだから、ふざけたものだ。
今からすべき事は、こちらからリンク・コネクトを閉じる事。予想は当たったようで、あちら側には無かったON/OFFスイッチがこちら側には設置されている。
しかし、僕の思考はまるで違う方を向いていた。その時僕を支配していたのは、「誰を犠牲にしても生き残りたい」という事。まるで、リンク・コネクトの前と後で別人になってしまったかのように。
――案外、そうなのかもしれないな。
どこか冷めた思考で考える。
今の僕は、言わば空白のキャンパスに体を記憶が引き継がれただけの存在。記憶はあっても、思い出は無い。感情も色褪せて感じ、本能が先に立っている。そして、その事にさしたる感慨も抱かず本能に従おうとしている。
ふと、カッティング・リンクという単語を思い出す。美穂が冗談めかして放った一言だが、それは当たっていた。現に、僕は今何の感慨も抱かず人を殺そうとしている。自己防衛のための致し方ない犠牲だと思って。
しかも、今の僕は生き残る事が可能なのだ。リンク・コネクトのあちらからこちらに来る事が出来るのは、恐らく質量とある程度の大きさをもった物質だけだ。その証拠に先程あちら側から投げた手榴弾は弾かれ、あちら側で降っている筈の雪は一切こちら側には来ない。破片手榴弾が爆発した際に発生する、爆風も、破片も来ない。
つまり――ここにある手榴弾を全てリンク・コネクトに投げ込めば僕は生き残る事が出来る。
『00:28』リンク・コネクトから何かが出て来た。
来たのは美穂。手榴弾を今にも投げ返そうとしていた僕を悲しそうに見た。
構わない、投げよう。と、本能が言っている。でも、僕は投げる事が出来なかった。色褪せていた筈の心の疼きを感じたから。美穂に対して抱いた仄かな心臓の高鳴りが蘇ったから。切られた筈のリンクが、再び繋がったから。
僕は振りかぶっていた手を下ろすと、手榴弾を地面に置く。こちらに来たという事は美穂は僕と一緒に死ぬ気なのだろう。だから僕は美穂の方を向いて微笑んで――
――でも、まだだ。
『00:19』美穂には生きていて欲しいと思った。美穂はあちらに戻るつもりは無さそうで、事もあろうにこちらに近付いて来る。
『00:16』死ぬのは僕だけで良い。僕は美穂をリンク・コネクトの向こうへ押し出そうとしたが、案外と強い力で抵抗され、出来そうもない。
『00:14』ON/OFFスイッチを早く押さなければならない。破片手榴弾がこちらからあちらに投げ込まれた事を考えると、こちらの爆風と破片はあちらに届く。
『00:12』彼女を死なせるわけにはいかない。戻ってもらうためには、何が必要か。
『00:10』『今日だって一人で帰ろうとしたら、美穂が来てくれたし』と言った時の事を思い出す。『そ、そう……』と答えた美穂の様子がおかしかったが、リンク・コネクトの影響で不自然に冷静になった今なら分かる。あれは恥ずかしがっていた。
『00:08』それに、彼女は中学時代から不意を突かれて褒められたり、お礼を言われたりすると動揺する性質があった。ならば、動揺を誘おう。嘘を言えば彼女は激しく傷つくだろうが、背に腹は代えられない。
『00:07』「好きだ」
『00:05』動揺で固まってしまった美穂を押し、リンク・コネクトの向こう側へ避難させる。後は、ON/OFFスイッチを押すだけ……
『00:04』美穂に手を掴まれ、リンク・コネクトに突入してしまう。このままでは、被害が大きくなる……
『00:02』一瞬後には、頭が突入する。そうすれば、俺は考える事が出来なくなる。最後の足掻きとして、左手をON/OFFスイッチに伸ばした。
『00:01』リンク・コネクトに突入する。意識が消える寸前、ON/OFFスイッチに左手が当たった感触。
『00:00』誰もいなくなった殺風景な部屋で、破片手榴弾が爆発した。
辿り着くと、瞬時に思考が再開される。見えるのは雪が薄く積もった道路と、トラックの破片。
ふと、右手に熱さを感じてそちらを見ると、手首から先が綺麗に無くなっていた。恐らく、途中でON/OFFスイッチを切った事で、切り口の先はあちら側に残されたのだろう。血が凄い勢いで流れているが、痛みは強くは無く、爆風がこちらに来る様子も無い。その事にホッと息を吐いていると、誰かが近付いて来る音がした。
「アンタねぇ……」
肩をビクリと震わせ、恐る恐る振り返ると涙目で怒っている美穂がいた。急いで左手を隠すと、右手の拳を固め、向かってくる。一瞬逃げたくなるが、ここは我慢して言葉を待つ。何せ、何を血迷ったか手榴弾を投げ返そうとしたのに加え、「好きだ」と嘘の……
……動揺させたいだけなら、先程の怪談を蒸し返して、『髭がトイレに』とか言っておけば確実だったような気もする。それなのに「好きだ」などと言ってしまったのは、嘘では無いからでは……という思考が脳を掠めたが、それはさて置いて美穂の怒りを甘んじて受け入れるつもりで、体を硬直させて、つかつかと歩み寄って来る美穂を待つ。
「馬鹿ッ!」
殴られる瞬間だけは目を瞑ってしまった……が、いつまで待っても殴られはしない。恐る恐る目を開けると、何か柔らかい物が体を覆った。
美穂だ。固めた右手の拳と、広げた左手を僕の背中に回し、ボカボカと右手で背中を叩いている。体勢的に大きな力を出すのは難しい筈なのに、結構痛い。手首から先が無い左手を背中に回せば美穂の服を濡らしてしまうので、右手を彼女の背中に回す。
「……ごめん」
そんな事しか言えない自分に忸怩としたものを感じつつ、黙って叩かれていると、不意に右肩が温かくなった。
驚いてそちらを見ようとすると、手で顔を押しのけられる。見えなかったが、右肩の温かさがどんどん広がっていく。湿った温かさが皮膚を通して体の中心にまで沁み込んで来て、絆の繋がりを――リンク・コネクトを感じた。
こういう時に何をすればいいのか、僕にはさっぱり分からない。顔を押しのけられたという事は涙を拭く事も出来ないし、ここで抱擁を解くのも最悪の対応だろう。
そんな事を考えている内に、視界が段々と白く染まっていく。
どうしたのだろう、と考えると、左手を未だに止血していない事に気が付いた。脳内麻薬のせいか、痛みはあまりない。それでも血は噴き出し続けているが、少し勢いは衰えているように見えて、安心したのも束の間、体内の血が減っているだけという事に気が付き、美穂に言おうとしたが頭が重い。視界が白む。意識が遠のいて口が動かせない。
――そして、僕は意識を失った。
目を覚ますと白い天井。それは、数々の物語に登場するシチュエーションだが、よもや自分が体験する事になるとは思わなかった。ボーッと見上げているうち、段々と記憶が蘇ってくる。
左手を目の前まで持ち上げてみる。重い。白い包帯が何重にも巻き付いているせいか一回り大きくなっている腕の長さは、しかし普段見慣れているものと同じ……いや、数センチ縮んでいるようにも見える。
体を起こしてみると、軽い眩暈。手首から先が無くなって、血が噴き出していたのだから当然と言えば当然だろう。手首には太い血管が流れているので、失血のショックで死ななかった事が幸運と言えよう……と、そこまで考えたところで、左手首を失ったはずの自分が案外冷静な事に気が付く。
――まあ、文字は書けるからね。
無くなったのが効き手でなくて幸いだった。そうやって暫くの間包帯の巻かれた右手を見つめていると、右側から何やら寝息のような音が。
少しの期待を込めて頭をゆっくりと右に向ける。そこには、ベッドの傍らの椅子に座って寝息を立てる美穂がいた。
思わず声をかけようとしたが、寝ているのに起こす事もあるまい、と思い直す。だから、目を瞑って、起きている時には気恥ずかしくて上手く口に出来ないであろう言葉を口にする。
「ありがとう。出会えて良かった」
――学生時代に、出会えて良かった。
――喫茶店で、出会えて良かった。
――あの時、リンク・コネクトをくぐった先で、出会えて良かった。
本当は、この心に疼く仄かな熱を言葉にしたい。しかし、会わなかった年月の間に彼女に何があったかは分からない。性格と美貌を考慮すると恋人がいる可能性は高いだろうし、もしかすると結婚しているかもしれない。だから、僕が言えるのはここまでだ。
一つの想いを心に秘め、瞑っていた目をそっと開ける。
誰かと、目が合った。
「……こちらこそありがとう」
目尻に浮かんだ涙を拭いながら美穂が笑う。その涙はきっと、起きた際のあくびで出て来たものだろう。
そして、急に俯いたかと思うと、やや緊張した面持ちで口を開いた。
「あと……左手の事ごめんね」
「あ、いや……あの時美穂に引っ張って貰わなかったら生きてなかったわけだし……」
「そう……でも、何かある?貸し一つだから何でも聞くよ」
何でも聞くなどと言って、悪い人にとんでもない事を言われたらどうすれば良いのだろうか……まあ、僕はその信頼を裏切る気は無いし、裏切る度胸も無いわけだが。
とはいえ、何か頼む必要がありそうだ。要らない、と言えば自分から何か提案してきそうな勢いだし、それならば何か軽いもので済ませておいた方が良さそうだ。
悩んだ末、美穂に頼むと決めた事は、次のようなものだった。
「なら……退院したら、またあの喫茶店で珈琲でも……」
その答えを聞いた美穂は一つ頷くと、輝くような笑みを浮かべてこう言ってきたのだった。
「あの喫茶店の店主さん、お金払わなかった事怒ってたけどね!」




