20-2【オルターの書・上】
全3巻予定の番外編です。
後日、タイミングを見て現実の番外編で人が消えたことについて合わせて、わかりやすく解説してくれます。
3000文字もいかないのでお手軽です。
【はじめに】
オルターを使うのに知識は必要ありません。これはオルターとは何かを記すための書なので、必要を感じない方は本書を閉じていただいて構いません。
しかし、オルターとは何かを知りたい方、オルターとの絆を深めたい方、更なる高みを目指す方は本書を参考にし、オルター成長の手助けにしてくだされば幸いです。本書が貴方の糧になることを願います。
【オルターの前に】
このページへと進めた方は、心からオルターを望んでいると解釈致します。それではオルターを語る上で必要な知識を抑えてください。
1.魂魄
生命には生きるために形を保つ器と、その形を維持するための本能が存在する。
何もしなければ本能は終わりという消滅が待っており、その本能を保つためには肉体を形作っている器を保持しなければならない。
この2つは循環することによって生命は成り立っている。私達はその生命を魂魄と呼んでいる。
本能は意識、無意識問わずにその魂魄を保持する役目を担い、肉体はその意志を外的活動をによって維持するために必要な器として存在している。
本書では本能を魂とし、器を魄としている。
2.原点
魄を持つ生き物は魂によって、日常生活の行動を決定している。魄と言う器を持つ生物には、自然と魂を守る機能が備わっているのを理解して欲しい。
この本を読んでいる者は、その魂によって魄で保持された器を動かした結果なのだ。その自然と取ってしまう行動に、いつしか人は疑問を持つようになる。
どうして食事をとるのか?
どうして感情があるのか?
どうして精神があるのか?
どうして人《生物》は生きるのか?
勘違いしないで欲しいのは「死にたくないから生きる」だとか「人生は死ぬまでの暇つぶし」だとか「自分の子を守るため」と言った人によって答えの変わる物や生死について哲学的な話をしたいわけじゃない。
魂がなぜ肉体を保つために魄を動かしているのか、魄はなぜ魂を維持するのか?
私達はただそれだけが知りたかったのだ。
3.発展
原点の研究のためあらゆる手段を講じてきた。中には非人道的な行いも多々ある。その研究の過程で発見されたのが魂には形が存在していないと言うことだ。
この形には出来ないが明確に存在している物にどうすれば形を与えられるか? と考えられたのが、オルターと言う概念の発見である。
しかし、この考え方は一つの矛盾を孕んでいるとされた。その意見を聞いた者はただの思いつき程度と一蹴され、考慮にすら値しないと蔑ろにされる。
魂の形は肉体と言う魄で既に存在している。この一言で魂に形は存在していると結論付ける者が大勢流されてしまった。
そのためにこの形を与えると言う行為自体が矛盾だと宣言されてしまう。
表向きに魂に形は存在していると考えられてしまい、肉体の器である魄へアプローチさえすれば問題無い。それで意見が統一されてしまった。
その考えは魂の存在を見つけたばかりの人類には早すぎる過ちだった。当然それは魄に対しても同じことが言える。
時は流れ、研究者の数は減り、魂魄の名前だけが知られるようになる。その影響なのか、無意識に魄で作られた器を磨き続ける人類がこの世に溢れかえることになった。
それを私達は問題だと考えている。それは魂ではなく、魄でさえなく、長年ただのコップを布で磨く行為なのだから。
どれだけ見た目を良くしても、その人の中身が変わるわけではない。所詮どれだけ見た目を変えても人の本質は変わらないのだ。
その者の持つ器に見合う努力を怠れば、いずれその外見にも綻びが生じ、中身までも破壊することになるだろう。
しかし、中身の見合わない外見だった者も居れば、中身に近づける努力をする者も当然居る。それこそが、真に魂魄を成長させると言う意味なのだ。
非常に極端な例だったが、器だけをどれだけ良くしても必ず終わりが来る。それが滅びと言う結果にしか繋がらないと考えてしまうのは傲慢なことだろうか?
その傲慢な考えが私達をこのような狂気に駆り立てたのかも知れない。このオルターと言う人類の可能性、限界と言う滅びを迎えないために。
話が逸れてしまったが、この魂に形は既に存在していると言う考え方が、人間の停滞の原因になってしまっている。
魄は器と言う入れ物に過ぎない。コップの中に水を注ぐのと同じで、水をコップの形に保つだけ、ただそれだけなのだ。磨くのはコップではなく、水の方だ。だからこそ成果が無く、徒労と思われ、廃れたのかもしれない。
その結果、何が起こるのかを想像するのは非常に困難だが、良いことが起こることだけは無いだろう。
それが今の必要な物だけを捨ててしまい、挙げ句の果てに未来さえ切り捨てる結果になっているのだから。
4.不屈
人は形ある物に縋り、本質を見誤った。しかし、それは全ての人間がそうだったわけではない。この可能性を追い求めた少数派は、魂に形を与えることを諦めなかったのだ。
それは見えない何かを鍛えるように研究に研究を重ね、いつしか隠れ潜むような存在となる。その甲斐あってか、遂には形を与えることは出来なくても、魂を別の形で利用する術を見出した。
魂とは本能、本能とは欲望、それは誰しもが持ち、もっとも利用しやすい人の業だった。
逆説的に考えれば欲望をコントロールすることさえ出来れば、魂の一端に触れる可能性が出てくるのではないか?
そのアプローチが功を奏した結果、願いの一端を現実に顕現させることに成功した。欲望を、その願いを渇望へと昇華させ、魂にその願いを届ける。
そして願いが届いた魂には、その願いを顕現する結果となって現れたのだ。
この時人類は、人の可能性を見出した。筈だった。
5.淘汰
魂の可能性を見出した者達は、ある日突然異物として淘汰されることになる。人の性はどれだけ矛盾で、間違いに満ちた環境であっても、否定されるのを嫌う生き物だ。
まだこの考えは人類には早かったのだ、魂魄の概念が廃れるまで技術を保持して待つべきだったのだ。が、今それを言っても詮無きこと。
その考えを異物と見做した者達は、次第に多数へと換わり最早1つの流れとなってしまう。異物と認定された者達は、可能性を示した者達を人知れず歴史の闇に葬ったのだ。まるで自身が神の代わりに裁きを下したかのように。
しかし、一度生み出した物は例え神であっても覆すことは出来ない。既に発生した事実は時間を戻そうとも消し去ることは出来ない。
知識は消えること無く受け継がれ、これを読む貴方の手に可能性として現れているのがその証拠なのだ。
オルターとは可能性であり、人が人であるための救いの一つとして必要な物だ。その結果、私が、いや、私達がどのような扱いを受けようとも全て受け入れよう。
それほどのことを私達はしてしまったのだ。




