沈丁花
沈丁花……ジンチョウゲ、と読みます。
強い甘い香りがする花を咲かせる木です。
腐りかけの匂いがするドアを開けると、何か花のような香りが鼻腔をくすぐった。纏わり付いてくるような強い匂いが不快感を誘い、長くここにいてはいけない、と何となく思った。
──あらあら、お客様かしら。
──こんにちはー。
──おや、久しぶりの来客じゃないか。
しっかりとした足取りで歩き出す。周りに人の姿はなく、生物が自分以外何もいない気がするほど静まり返っている。所々にヒビが入り極力触りたくない赤茶色のシミが付いた壁に、分厚い埃が積もった木製の床。歩く度にギシギシと床が軋み、板が割れるのではないかと心配になる程だ。
あの子がここに来たことはわかっていた。ここ数週間、町外れにあるお屋敷に遊びに行っていると毎日日記に書いていた。最近とても楽しそうな様子だったので特に何も言わなかったが、その時点で気づいても良いものだった。町外れにある家なんてここしかないと知っていたのに。あの子が自分に何も言わなかった時点で怪しく思っても良いものだったのに。
思考が飛んでいることに気づいて静かに首を横に振る。今はこんなことを考えている暇はない。
確か日記には屋敷の奥に住んでいる少女と毎日話していると書いていた。奥に進みながら一つ一つ部屋を覗いていくことにする。当たり前だが誰もおらず、話し相手らしき少女が住んでいるとも思えなかった。
病弱で家から出ることができない子、とあの子は書いていたが、こんなところに住んでいる方がよほど健康に害があるだろう。
──この人、見えないのかなぁ? 声もぜんぜん聞こえてないみたいだよ。
──そうかも知れないね。最近は見えない人も増えてきているそうだし
──それは残念ね……。
──また、家族が増えると思ったのに。
聞こえてきた言葉に思わず立ち止まった。後ろへ振り返りたくなったが、今振り向けば『自分たちが見える者』だとみなされてしまうだろう。怪訝に思われないよう再び歩き出す。
玄関ホールにいた『もの』は三人。左腕がなく、腹から何らかの臓物が溢れていた女性に肩の辺りに大きな斧が突き刺さった男性、頭部からどくどくと血を流し続けている少年。自分たちの傷を気にかけるどころか、気づいた様子もない。
それよりも、女性が言っていた『家族』という単語が気になった。家族が増える、とは一体。
……町では、「この屋敷に入った者はそこに住んでいる幽霊に捕まり、あの世に連れて行かれる」という噂が流れていたことを思い出す。
「無事でいてくれれば良いんだが」
ぎぃ、と音を立てながらドアを開け、中を覗く。窓の外を眺めていた両目が無い子供は、こちらへ振り返ったかと思うとニコリと笑った。闇を閉じ込めたような眼窩にぞっとしたが、子供はすぐに消えてしまった。
「………………」
音がしないよう静かにドアを閉めて、また足を動かす。
花の香りが濃くなった気がする。甘い香りを嗅ぎすぎたのか、ずきりと頭が痛んだ。
歩く、覗く、歩く、覗くを暫くの間繰り返して、気がつけば廊下の終着点についていた。
道が左右に分かれていた。どちらに進もうか、と思う前に、眼前の壁に飾られている絵が目についた。
濃い紅色の蕾と薄い赤色の花びらを持つ花が細部まで描かれており、売るべき所に売れば高い値段がつくだろうことが容易に予想できた。ああ、と記憶の中からその花の名前を引っ張り出す。
「沈丁花だったか」
それと同時に、漂う甘ったるい匂いがその花の香りだということも思い出す。母がよく使う香水も確かそれだったはずだ。自分はその匂いが嫌いだったから、母がそれを纏っているときはなるべく自分の部屋に籠もるか外へ遊びに行くようにしていた。自分と正反対なあの子は気に入っていたが。
「……ああ」
そうだ、あの子は。あの子は何処にいるのだろう。数日前からずっと探しているのに、あの子の綺麗な金色の髪は何処にも見つからない。一体、何処に行ってしまったのか。あの子は自分が守ってあげないといけないのに。あの子は自分が近くにいないと何もできないのに。
気付かなかったが、くいくい、と服の裾を引っ張られている。警戒も何もなしに顔を向けてみると、そこには玄関で見た頭から血を流した男の子、が。
「──っ!?」
声にならない悲鳴を上げながら、すぐに振り払い、飛び退く。男の子の口が三日月のような形に歪み、子供らしくないニタニタとした笑みを形造る。
──見えてる?
──見えてるんだね? ボクのこと。
しまった、と思った。こいつらを相手にするには、とにかく無視するしか方法が無いのに。
男の子は声を抑えてくつくつと笑う。どこか新しい玩具を見つけた子供のようだった。生気がない瞳が輝いているような錯覚を起こすほど楽しそうな笑み。
──見えてるって気づかれたくなかったんでしょ?
──それなら、言わないであげるよ、お母さまやお父さまには。
自分の顔を鏡で見れば、きっと間抜けな顔をしているのだろう。それを自覚しながら、しかたなく声を出す。
「……条件は何だ?」
──わかってるねぇ、お兄さん。いや、お姉さん? ……うーん……分かんないから、お客さまでいいか。
子供は少しの間首を傾け、すぐに戻して笑う。
──別に、用事をすませてからで良いよ。ちょっと遊んでほしいだけだから。おねえちゃんみたいにお人形にしたりなんかしないから、安心してね。
……人形? 気になる単語があったが、今は思考の片隅に寄せておく。こいつらとの会話では常に気を尖らせていないといけない。自分が見える人を見つければすぐに道連れにするようなモノ達だから、油断すると連れて行かれてしまう。
──そんなに不安? あ、それならこの家を案内してあげてもいいよ? その間、ボクはあなたにぜったい触らないからさ。
「………………いい。お前に案内されなくてもこの程度なら問題ない」
考えた結果、断ることにした。承諾してあの子が見つかるとは限らないし、身の危険もある。用心しておいて損はない。
──ええ? けど、そのままじゃ探し物見つからないよ? さっきからふらふらーってしてるじゃん。
「………………」
──知ってた? このお屋敷、ドクがあるんだよ? ずうっとここにいると、死んじゃうらしいよ?
無視して、足を一歩踏み出した。すると、ふらりと意図せず体が斜めに傾いた。壁に手をついたので転ぶことはなかったが、どこか足取りが覚束ない。なるほど、確かにこの甘い香りは人体に有害らしい。頭痛も先程よりも強くなっていた。
……まあいい。歩けるなら問題はない。自分はあの子を見つけることができれば良いのだから。
構わずに進もうとすると、後ろからかちりと音がした。そちらを向くと、先程から床の隅のあたりを探っていた霊がにたあと笑ってこちらを見ていた。霊がもう一度床に触り、その両手を横に動かすと、床が横にスライドして地下への階段が現れた。
──ね? 見つからないでしょ? この中におねえちゃん、いっつもいるから。お客さまがいくら上のとこを探してても、見つからないでしょ?
「………………」
──道教えてあげたんだから、いいでしょ? 一緒に行ってもいいでしょ? お母さまもお父さまもいつもおんなじ話しかしないからつまらないんだ。ねえ、お願いだよ。
「………………」
──……お願いだから、連れて行ってよ。
霊が悪戯っぽく笑うが、赤色が垂れているのでホラーにしか見えない。黙っていると、だんだんと言葉が懇願しているように小さくなっていく。
普通だったら、いつもの自分だったら、子供がこのようなことをしていれば、しぶしぶ連れて行っただろう。けれど、今のこれは駄目だった。──人は、人と違うものを本質的に信用はできない。既に命というものを失ってこの世にいてはいけない存在になったものに、同情なんて出来る訳がなかった。
無言で霊の横を素通りし、階段を降りていった。後ろから視線を感じたが、振り返ることはしなかった。
地下の階段はかなり長かった。建築家が拘ったのか、螺旋状になっている箇所と直線に降りていく箇所などが入り混じっていた。一定の間隔で壁に穴が開き明かりが点っており、発生源が何処なのかは知らないが、ここにも沈丁花の匂いが充満していた。
かなり長い時間嗅いでいるはずなのに一向に鼻が慣れることはなく、ただ「甘い」という感覚が脳に届く。
頭が痛い。最初は気にならない程度だった頭痛が、気がつけば指で瞼の裏をガリガリと引っ掻かれているような痛みになっていた。耳鳴りも酷く、ザーザーという雑音が脳を揺らす。
階段が終わり、小さな小部屋にたどり着く。目の前には石造りの地下には似合わない、木で作られたドアがあった。赤色の花が付いたリースとプレートが掛かっており、「リリーのおへや」と歪な形の文字で書かれていた。
ふらり、ふらり。気を抜けば倒れそうになるのを我慢しながらドアに向かう。
「………………」
ドアノブをひねり、押すとなかは一風変わったへやだった。ちかのはずなのに至る所に窓があり、その全てがかーてんで覆われ外が見えない。見えたとしてもつちや石しか見えないだろうが。
天井からも様々ないろの布が垂れ下がり、へやの中の家具が殆どみえないじょうたいになっていた。中央にある天蓋付きのベッドのような何かは、幾重にもまかれた布によって中を覗けないようになっていた。カラフルで楽しそうに見えるかもしれないが、ほとんどの布にあるあかい染みが異質さをかもし出していて。
──……だあれ?
ベッドの中から、かすれた小さなこえが聞こえた。
──誰か、いるの?
「……あの子は何処にいる」
──あの子って、だあれ? 私、最近は家族ともお話していないわ。
「あの子がここに来たことは知っている。あの子を何処へやった」
──何処へやった? ここに来てるんなら、お母様やお父様のところじゃないの?
「上の何処を探してもいなかった。ここ以外に何処にいる」
あの子は、どこに。あの子は、どこへ。いない、いない? どこをさがしても、世界中、の?
──最近で、私の家族になった子は……どこにしまったかしら。思い出せないわね。健忘症かしら。
「思い出せ」
──うーん、この部屋のどこかにいるのは間違いないわ。お気に入りだったし。後はしーらない。
あの子は、ここにいるのか。家族? 家族は、私だけだろう?
垂れている布をうごかすと、下にはだれかの肉片が落ちていた。よく見てみると部屋のゆかには赤にまみれたなにかが大量に落ちていて、気にせずそれを踏み潰しながらあの子をさがす。
他のものよりもあかいろが多い布を引っ張ると、簡単にびりびりとやぶけた。あの子の金色の髪が見えた。
「…………!」
大急ぎでカーテンをめくった。やっと見つけた。探していたものを見つけたときの満足感が体中を駆けめぐる。
「………………?」
地面に落ち、所々朱に濡れた金色の髪。お気に入りだと見せびらかしてきた緑色の服もぼろぼろで、覗ける肌は青ざめていた。体の半分をカーテンで隠し、うつ伏せに倒れている子供は顔を上げる。顔半分だけが酷く傷つき、片目はなく真っ黒の眼窩が覗けた。
それは、虚ろな瞳でこちらを認識すると、口端を無理やり上げたような歪な笑みを浮かべた。
「…………もう此処にたどり着いたんだ? 流石に早いね」
何も言わずに手を掴み引き起こそうとすると、やけに軽い。ふしぎに思い、それの下半分を隠している布をどけた。
「……ふふ。帰れなくなっちゃった。ごめんね? まあ、僕はもともと帰るつもりはなかったんだけど」
無意識の内に手から力が抜ける。それが再び床に倒れる。それには、腹から下がなかった。
……ちがう、と口が蠢く。あの子はこんな喋り方じゃない。あの子はこんな笑い方をしない。あの子はこんなふうになっていない。欠落していない。これは、あの子じゃない。これは、だれだ? 知らない。これの髪はあの子のものなのに、あの子はいない?
ああ、頭がいたい。
どさりと体が落ちる。ついに耐え切れなくなったか。もうどうでもいい、と心の何処かでこえがする。
「──ら───。────の?」
耳の奥のノイズがうるさい。
ああ、あの子の金色は見えるのに、あの子が見えない。聞こえない。知らない。どこにいった? 消えてしまったのか。なにがいったいどれが正しくてどれが正しくないなんていらない。
金色に手を伸ばそうとして、それがあの子ではないことを思い出す。ここまで探して居ないのなら。こんなに探して見つからないのなら。あの子はもう、? いらない。
もう何もいらない。もう何も知らない。
大事なことは一つだけ。
世界に、あの子はいなかった。
◆ ◆ ◆ ◆
「演出に付き合っちゃってもらってごめんね?」
──いえ、別に。それより、お友達だったの?
「ううん。けど知ってる人」
──溶けちゃったけど、良かったの?
「いいのいいの。ほっといても、現実には存在しない『記憶の中』の僕を探しまわるだけだったんだろうし。此処で殺してあげるのが情けってものさ」
「第一、僕この人嫌いだったんだもの。自分の理想の僕が居なくなっただけで途端にこれだ。本当は僕が演技をしてた可能性なんて一欠片も考えやしない」
「こいつも周りの奴らも、つまらない奴ばっかりだったよ」
──ふーん。外って、そんなものなの?
「そんなものだよ。本当に退屈でつまらない世界だ。だから僕は逃げてきたんだから」
「結局、この人は誰を探していたんだろうねぇ」
「自分が認識している通りの他人なんて、この世の何処にも居ないのに」
お読み頂きありがとうございました。
前回と比べるとダークになったかもしれませんね。
では、またいつか。