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「今日、新しく雇われた兵士だ。アヱギーナの連中がどういうものか戦う前に一目見ておきたい」
門番にそう告げると、そいつはなんの疑問も持たない顔であっさりと城門を開いた。さて、エル、と、目配せするとエレオノーレは門を出ずに門番に適当にアヱギーナ人や戦況について訊き始めた。
「野蛮なアヱギーナ人の前に出したくない。頼むぞ」
そう門番に告げると、立ちんぼで退屈していたのか、それとも女だと甘く見たのか、早速だらしない顔でエレオノーレと雑談に興じ始めている。
ふん、と、鼻を鳴らし、俺は門を潜った。
そこは、市街地とは少ししか離れていない場所なのに、ゴミ溜めになったような一角だった。適当な木材を四隅に立て、天井を襤褸切れや枯葉で覆っているのはまだマシな方で、ほとんどが汚れた地べたを寝床に、なんだか分からないガラクタや、古くなって廃棄された石畳を壁に海風を凌ぎつつして生活している。
酷い匂いだ。服に染み付く前に、さっさと商談を終えないと怪しまれるな。
ともあれ、無計画に忍び込めば警備のアテーナイヱ兵に見つかる。まずは周囲を一周して、忍び込める隙を窺うが――。
巡回の兵士を避けての進入は難しそうだ。
止むを得ず、他の兵士と連携できない場所の見張りに忍び足で近寄り……声を出せないように首を絞める。
「!? ……ガ」
手足をばたつかせたのは一瞬で、首を絞めたまま膝を折って姿勢を低くする。他の兵士の目を避けつつ、そのまま首の脈を押さえ――落とした。
殺しはしない。帰りにはコイツを利用する必要がある。
サッと周囲を窺うが、見つかった気配は無い。
兵士を隠すか否か悩んだが、地面に転がしておくだけの方が俺の目的には適う。そのままにして、早足で貧民街へと侵入した。
「だ……誰だ」
いきなり、寝転がっていた汚れて痩せた男を蹴飛ばしてしまい、声を上げられてしまう。
しまったな、ゴミと混ざって小汚いヤツが見付け難い。
「声を荒げるな」
パン、と、掌でそいつの口を押さえつつ、そっと耳打ちする。悪臭が鼻についたが、今はそれを気にしている余裕は無い。
「兵士の目に付かない場所に、主だった者を集めてくれ。俺は敵じゃない」
相手が頷くのを確認してから、俺はゆっくりと手を離す。
そいつは、半信半疑……というよりは、明らかに疑いの目を向けていたが、さっき落とした兵士を親指で指して見せると、慌てて集落の中へと飛び込んでいった。
そんなに経たない内に、俺は貧民街の中央の多少はマシな掘っ立て小屋へと案内された。中には、十名程度の老人――村長とその側近だろう――と、五名程の若い男が集まっていたが、一様に疲れ果てていた。
時期もちょうど良かったらしいな。
顔に出さずに、微かに心の中で笑う。
余裕がある時になら、俺のような素性の怪しい人物に従う気になんてなら無いはずだから。
ふと腰の薬草袋の中身を思い出して、さっき貰った干しデーツを五粒ほどテーブル……というか、小汚い板切れの上に乗せた。
「少ないが、まずは話を聞いてもらう礼だ」
干しデーツは、すぐに男達の懐へと納められた。
警戒は若干薄らいだようでもあったが、向けられる目は、不信感の方が明らかに強い。
ま、貰い物の少量の手土産で買える歓心なんて、そんなものだろう。
ふ、と、上品だが嫌味を隠さない笑みを口の端に乗せてから、俺は話し始めた。
「諸君に、アヱギーナへの帰還を手助けする、と、申し出たら受けるか?」
戸惑いが人の輪に広がり――小声ではあったが、そりゃあ、とか、まあ、なんて曖昧な同意の声がちらほらと上がった。
どうする? と、長老らしき初老の男に顎で返事を促してみる。
「出来るのか?」
「不可能ではないが、良いのか?」
疑惑を増徴させるような策士の笑みを口の端に乗せ、唆す俺。
「『良いのか』とは、なんだ?」
乗って来た。
前のめりになった姿勢、それに声に感情がはっきりと表れている。
――が、まだだ。釣り上げるにはまだ早い。
「敵国に置き去りにされた人間が、戦時中に帰還するんだぞ? 貴様ならどう思う?」
長老とは別の、若くてそれなりに発言力のありそうな体格の良い男に向かって、答えを誘導するような形で訊いてみる。
返事は、すぐに返ってきた。
「――スパイになった」
苦渋に満ちた顔が目の前にある。
そう、人と人との信頼なんてそんなものだ。余程の事が無ければ、普通は他人を信じるなんてバカなことはしない。……アイツと違って。
「その通り」
俺が同意した一拍後、堪え切れないといった調子の声が背後から上がった。
「じゃあ、どうしろってんだ! ここにいてもいずれは奴隷として売られ、国へも戻れないなんて!」
ふ、と、今度は、邪気を消して余裕のある笑みを声が上がった方に向ける。
「そもそも、開戦に当たって、貴様等の故国はなぜ助けに来なかった? 避難勧告は来なかったのか?」
答える声はなかった。
何人かは、下を向いている。その答えが分からないのではなく、答えを認めたくない男の顔を覚えてから、俺は続きを口にして見せた。
「もはや、国家の保護の手から漏れている、そう判断されたからではないのか?」
声が周囲に行き渡るのを待ってから俺はゆっくりと話し続ける。
「とるべき道は三つだ」
三つ? と、目の前の長老が首を傾げた。二つではないのか? と、聞き返したそうな顔だ。
まあ、本来なら二つでいいんだろうが、分かり切っていることを口にせずにおけば、余計な疑念や安易な反抗に繋がる。だから、こいつらが、心中にあったとしても、今は俺に聞かせたくないであろう三つ目の案も口にした。
「俺の軍門に下るか、アテーナイヱの奴隷となるか、俺の案に一度乗った上で裏切り、アヱギーナに帰還し監視されながら下層市民となって生きるか」
俺を見る目が少し変わったのを感じる。
たいして秀逸な推理でもないが、俺の先を見る力を信じる担保にはなったはずだ。
流れを掴んで場を支配するため、一気に畳み掛けることにする。
「……そもそも、故郷とはなんだ? 母国とは?」
最早、誰からも答えは返ってこない。悪い傾向じゃない。聞くことに集中している。
真剣な目から、今、必死に自分の立ち位置と、今後の身の振りについて考えているのが分かった。
「君達は商人だ。国と国との間を飛び回り、過剰が出た国の物を、不足が出た国に卸す。差額の儲けは当然の取り分だし、それをさらに増やすのも全てのヘレネスの繁栄に繋がる道だ。そう、君たちは正しい行いをしてきた」
違うか? と、この場にいる全員の顔をゆっくりと一人ひとり丁寧に見て、自尊心に訴えかける。貧民街へ落ちぶれていようとも、本来は誇り高い人間のはずだ、と。
そう、本来は誇り高い人間なのだから――、なんだって出来るはずだ、と、幻想を抱かせる。自分ならやれる、という、戦へと向かう荒ぶる気持ちを奮い立たせる。
「君達に必要なのは、国家の保護なんて曖昧な約束事ではない。……どこにも属さず、屈さない自前の武力だ」
息を飲む音が、小さく、だけどはっきりと聞こえた。
ここだ、掛け金は充分に吊り上がった。
コイツ等を俺の兵隊にするのは、今しかない。
「俺と来ないか? アヱギーナと戦うことにはなるが、そもそも向こうはもう君たちを味方だとは思っていない可能性がある。自分の人生を、自分自身の手で世界から切り取る機会は今しかない」
答える声はすぐに上がらなかった。
しかし、静かな熱気と、圧が場に満ちている。
逸りそうになる若衆を抑え、長老がもっともらしい口調で答えた。
「一晩、考えさせてくれ」
若者はともかくとして、やはり老人は慎重だった。下手をしたら、皆殺しになるような博打にはすぐには乗ってこれない、か。
だがそれは予想されることでもある。
老い先短いなら、希望が無くとも生きていけるのかもしれない。だが、若者は違うはずだ。命を永らえたとしても、搾取されるだけの希望の無い道を歩むことに耐えられるはずが無い。
「それならこの話は無しだ」
白けた表情を作り、俺は踵を返す。
「なんだと!?」
背後から聞こえた怒声に、肩越しに振り返って素っ気無く言い放つ。
「敵はバカじゃない。二度も忍び込めるか」
正論に言い返してくる声はなかったが、しかし、まだ不安は残るのか、苦い顔で質問されてしまった。
「……ここにいる全員をどうやって助けるつもりだ?」
「まず、貴様等の戦える人間を率いて、この戦争に勝つ手助けをする」
まあ、この戦争にアテーナイヱがどうやっても勝てそうに無い場合は、違う手段を使うつもりだがな。
その場合、参戦せず――もしくは交戦中に急いでアテーナイヱに戻り、ここの人間を解放する。一方で、キルクスとチビを使ってアテーナイヱの敗残兵を集めて軍閥を作る。
だから、コイツ等を味方にするのは、保険の意味でも重要だ。
「はぁ!? それに何のメリットが。恩赦でも期待する気か?」
「いや、そんなモノは無いだろう。亡国の国民なんぞ奴隷として売られて終わりだ」
「なら!」
「参戦の報酬として船を貰える。貰えなくても、俺達が乗船している船を占拠するのは、容易いだろう? 船を押さえつつ、ここの全員を引き連れ戦勝パーティーで浮かれた町を、深夜に突っ切って海へ逃げる」
俺ではなく敢えて『俺達』と表現し、共犯者の顔を向ける。
ただ逃げるだけなら、城壁外なんだし、見張っている兵士を殺して散ることでも可能だ。だが、その後に待っているのは隠れ里を作ってこの貧民街と似たり寄ったりな貧乏な暮らしを送る程度だ。
コイツ等が、元通りの生活を送るためには、多量の荷物を素早く運送できる船、そして商売の元手の金、最後に自衛のための武力の全てが必要だ。
他に案はあるのか? と、連中の顔を見返す。
「上手く……いくのか? そんな作戦で」
当然の危惧だし、そもそも俺自身がそう簡単に行くとは考えていない。
だが、戦力は拮抗しているんだし、アテーナイヱ軍も無傷で勝利を得られはしないだろう。
残党の警戒はしているかもしれないが、アクロポリスと外港都市ペイライエウスの二重防衛に自信のあるここの人間は、裏を返せば内側から撹乱されるのになれていない。
門そのものは俺もしくは、俺の軍門に下ったこいつ等の仲間が内側から開けるんだし、民衆を盾代わりにしつつ上手く移動すれば、それほど分の悪い賭けではないはずだ。
それに――。
「最悪、俺が適当に町でぶっ殺しまくって注意を引いてやるよ。風向き次第では、火ぃ着けるのも混乱が広まって面白いかもな」
別に俺はアテーナイヱがどうなろうと知ったことではない。エレオノーレを確保した船に残してくれば、本来の俺の遣り方を存分に発揮出来る。
アイツと交わした約束通りに犠牲を減らす努力はする、が、優先順位はどうでもいい人間よりも味方になる可能性のある人間の方が高い。後者の安全確保のためなら敵は徹底的に潰すものだ。
「騒動を起こして、混乱の最中に逃げる。他に術はないだろ。そこそこ人数がいるようだし、全員が若者ってわけでもないんだろ? まあ、上手い案が浮かべば都度修正するさ」
杜撰といえば杜撰な計画に足踏みする気配がある。
しかし、こちらとしてもなにもかもが急なんだ。賭けられる賽のあるだけましだ、と、思って欲しいものだがな。コイツ等としても、ここでただじっとしていてなにかが好転するとは思っていないんだろうし。
……いや、俺も気負いすぎだな。
この程度の山を越える度胸も無い連中じゃあ、良い兵隊にはならない。答えが出ないようなら見捨てて、次善の策ではあるがアテーナイヱの貧乏人をまとめあげ――。
「分かった、受けよう」
俺よりも少し背の高い、良く日に焼けた男が、俺の思考を遮った。多分、二十歳ぐらいか? その特徴的な赤毛の髪は、嫌でも目立つ。おそらく、腕っ節は喧嘩で鍛えたんだろう。荒事を収めるための若衆のリーダーってとこか。
甘さが抜け切っていない、地獄をまだ見ていない顔だが……そう悪くはない目だ。殺さなきゃ前に進めないと、腹を括った顔はしている。
「お前がリーダーか?」
訊いてみると、はん、と、鼻で返された。
「指揮官はアンタじゃないのか?」
解釈の違いを苦笑いで他所に置き、成程、と、応じて尋ねる。
「名前は?」
「ドクシアディス・アンドレウ」
「よろしくな、ドク」
意図して皮肉っぽく親しげに呼ぶと、ドクシアディスはよせやいとでも言うかのように苦笑いを浮かべつつ顔の前を手で払っていた。
さっと集まった顔を見る。年寄りは、まだ納得のいかない様子の者もあるようだったが、若衆は全員が微かに首を縦に振っていた。
まずは一歩前進だな。
「そういうアンタは?」
ドクシアディスに訊き返され、俺はフンと鼻をかすかに鳴らして答えた。。
「ラケルデモンから追放された人間さ。お前等とそう変わらねぇよ」
今回の戦いに関係の無い国だからか、何人かは訝しげな顔をしたが、もう何人かは同情――おそらく、自分達と同じように流浪の民になった人間と考えたんだろう――の目を向けていた。
もう一度、フンと、鼻を鳴らす。
確かに国家の保護の外にあるという意味では同じだが、ただの負け犬で終わりかけていた奴等に仲間だと思われるのは、中々に面白くなかった。




