27
本来、ラケルデモンは、二つの王家と中央監督官の三権が独立し、相互監視と協力によって真にラケルデモン市民のための政策を決定する国家だ。今はエーリポン家の連中が権力を独占しているが、それ以外の権力を完全に駆逐、もしくは吸収したわけではない。一家で独占できる程、ラケルデモンは小さな国ではないし、思想を完全に支配することもできない。
レオ達亡命ラケルデモン人の伝手で、現在は非主流派となっている中央監督官を船に招き、戦況や現状の報告を受けていたんだが、俺が思っているよりも事態は早く動いているらしかった。
と、いうか、テレスアリアに進入したヴィオティア軍を破るのに、時間を浪費し過ぎたせいだ。
ミュティレアを出て七日。ペロポネソス半島へと俺達が到着した頃には戦局は大きく動いていて、プトレマイオスからの伝令も合わせて情報の整理統合が必要だった。
「ようこそ、お越しくださいました」
どこか気取ったような……レオとは歳が近いらしいが、年齢的にはもっと若そうに見える男が、なんとなく気に食わない笑みで手を差し出してきた。
「……どうも」
マケドニコーバシオとしての立場である以上、握手を拒めずに手をとる。
鍛えていないわけじゃない。しかし、国民皆兵であるラケルデモンの支配層らしくない、手の感触だった。傷やまめの位置、掛けられた手の力から察するに弱いのがはっきりと分かる。
「貴方様のお祖父様とは、懇意にさせて頂き、技術革新――鉄器の普及に努めたのですが……。お互いに苦労しましたな」
わざわざそこに触れてくるか、と、苦笑いが浮かぶ。
あの政変で、俺の味方はいなかった。
こうして、今になって、擦り寄られても虫唾が走る。
俺に当時妻はいなかったが、冒険の後に故郷へと帰還したオデュッセウスの行動を鑑みれば、俺が簒奪者達やそれに加担した者、悪徳を見ない振りした者その全てをどう扱うのか分かりそうなものだがな。トロイア戦争でオデュッセウスが戦死したと伝えられ、王の不在を利用して専断し、ペーネロペーに求婚し国家を再建するという名目で、放蕩にふけっていた者達と目の前の連中にどんな差異があるって言うんだ。
……もっとも、俺を呼び起こしたのが息子ではなく異母弟で、帰還の意思を決定的に挫き、望む望まざるに関わらず国を継承すべきなのが俺ではないと知らしめたのは皮肉だがな。
「時間がない。会談を始めよう」
硬い言葉、そして仕草の中にある葛藤にレオは気付いた様子だったが、微かに眉を動かすこと以外はしなかった。
「ええ、ええ。そうですね、こうして他国の軍隊を率いてくださったのですから、武功を立てて、何卒、中央監督官の地位向上と国家を正しい形へと戻す手助けを」
さっさと本題に入れ、とは口にできない代わりに俺は返事をせずに挙げた左手で話を促した。
ラケルデモン側の視点なので、全部が全部正しいとも思わないが、陸戦では勝利を拾ってはいる、との事だ。もっとも、勝ってるならマケドニコーバシオとの同盟や援軍の派遣要請なんて出ないだろうし、話半分程度に聞いておくほうがいいだろうが……。
しかし、海戦では相変わらずの負け続きで、ラケルデモンへの賠償金を完済したアテーナイヱがアカイネメシスの資金提供で艦隊を再編すると――この辺りは、ヴィオティアの捕虜から聞いていた話ではあったが、ヴィオティア人の思惑とは違うことも起きているらしいな――連中はまず旧領回復のためにアヱギーナを襲撃し、その後、ラケルデモンの海上輸送を完全に遮断した。そのため、ぺロポネソス半島北部で優勢にヴィオティア連合軍――コンリトスやメガリスそれに復権したアテーナイヱが参戦しているので、便宜上そう呼んだ方がいいだろう――が戦っていたが、マケドニコーバシオがラケルデモンと同盟したことで、エーゲ海東岸でアカイネメシスと戦っていて取り残されていたラケルデモン軍がエーゲ海の海岸線を遠回りする形で帰還し、コンリトス方面の制圧に成功、これで残りの敵はヴィオティアとアテーナイヱとなる。
「それで、今後の方針は?」
地図と各地に展開している軍団の情報を把握し、ラケルデモン側の使者に問いかける。
ペロポネソス半島は地峡で大陸とつながるという地形上、そこを封じられた場合孤島となる。コンリトスとメガリスを攻略したのなら、大陸側への最低限の交通路は開けているんだし、無理に海戦に及びはしないと思う。が、進軍先の候補はいくつかある。
ヴィオティアへと攻め込むか、反旗を翻したアテーナイヱを懲罰するか、ペロポネソス半島に侵入している残敵を潰すか。
マケドニコーバシオは、戦線の拡大を行わず侵入した敵への対処だけだった。そして、海戦で勝ててない以上、アテーナイヱ本国を陸路で攻めても得るものは少ない。まっとうな人間なら、何を選ぶのかは解かり切っている所だが……。
「少々お待ちを」
議論を止めたのは、プトレマイオスが送ってよこしたヘタイロイ見習いの伝令だった。
ラケルデモンの連中の視線や表情は、自分達以外の全てを見下していて、ゴミや腐りかけの死体でも見るような目を向けていたが、助け舟は出さずに見守った。
ここで手を引けば、コイツの自立が遅れる。
他国の思惑が絡み合ったあの島での外交、そして、武人として俺達ヘタイロイが鍛えてきたんだ。ここで折れるはずはないし、この経験で更に成長する義務がコイツにはある。そのためにプトレマイオスが機会を与えたはずだ。
続きを促すように軽く頭を動かして視線を向ければ、見習いは軽く微笑んで続けた。
「今回の戦争に関してアカイネメシスからですが、アテーナイヱ艦隊がアフリカ北西部の旧古代王国領の反アカイネメシス派を支援したことで、アテーナイヱへの支援……と、言いますか、ヘレネス側への資金流入量が現在急激に減少しております」
ヴィオティアとも手切れになったってことか?
この場ではっきりと尋ねるわけにはいかないが、おそらくそうだろう。奴隷販売にかこつけて出方を探っていたんだし、他にアカイネメシス側の方針を知る術はないはずだ。
軍を動員しないって分かったのはありがたいが、引き際が良過ぎるのは不気味だな。投入した資金に見合うだけの物も回収できていないだろうに。
しかし、考え込む俺を他所に、現実からその意図を察せない直情的な連中――というか、この場にいるのは仮にもラケルデモンの支配者層なんだから、ちっとは頭を使えと怒鳴りたくもなるが――が、ラケルデモンの武威に恐れをなしただの、勝手な思い込みで騒ぎ始めたので、テーブルをたたいて黙らせてから口を開く。
「アテーナイヱの行動を縛れない以上、かつての海上覇権を取り戻させないためには、戦争の早期決着が必要で、それは艦隊で海岸線を荒らしまわる連中と戦うよりも、今回の戦争の元凶の排除が急務ということだな」
おそらく、そのアテーナイヱ側の圧力がレスボス島全体に悪影響を及ぼしているということは、わざわざ伝令を出したという事実が証明している。
ただ、こちらにはアテーナイヱ艦隊を潰せるだけの海軍戦力はない。
ならば、今回の戦乱の指揮者を取り除き、それでもアテーナイヱが暴れる場合に、ヘレネス全体で足並みをそろえて懲罰するしかないだろう。
伝令の見習いは頷き「それと――」と、言葉を付け加えてきた。
「アカイネメシスが、講和を申し出てきました」
「講和?」
予想外の一言に場がざわめき、俺も眉間に皺が寄ってしまう。
「ヘレネス内部のいざこざに介入したのは、エーゲ海東岸の安定のためであり、ヘレネスの国情に翻弄されるのに疲れた、ということらしいですね。資金提供し、煽った事実を認めつつも、罪はどこにもないのだから不可侵協定を結ぶようにとのことです」
そう詳しく説明されても意図が読みきれなかった。
アカイネメシスとしては、ラケルデモンとマケドニコーバシオの二国の強大化を止め、ヘレネスの統一を遅らせられればそれでいいという考えなのだろうか?
確かに、ヴィオティアの台頭やアテーナイヱの再建でかなり引っ掻き回されたのは否めない。
だが、遣り様はいくらでもある。
アテーナイヱなんかは、戦場で戦わなくとも、民主制を利用し資金面から……。戦わなく、とも?
ふと、暗闇に光が灯ったような感覚がした。
「……それは、アカイネメシスともか?」
頷く見習いは「和平案を呑まない国に対しては、和平案を結んだ国家と共同でアカイネメシスが攻め込む、との条文ももりこむそうですよ」とも補足した。
ふ――っと、長い溜息を吐く。
周囲のざわめきは無視した。アカイネメシスやヴィオティアを罵ったところで事実は変わらないし、こんな船上で罵られても痛くも痒くもないだろう。むしろ、そうして悪態をつかせている事実こそが、連中に出し抜かれたことの証明でもある。
しかも、アカイネメシスの勝手な振る舞いを罵る目の前の連中は、その真意――深い戦略的意図さえ量れていないのだ。
エパメイノンダス、か。
食えない男だな。
テレスアリアの作戦の破綻と、アカイネメシスと戦っていたラケルデモン兵の帰還を察し、負け始める前に勝負そのものを締めるつもりだ。アテーナイヱはともかくとしても、ヴィオティアとアカイネメシスはおそらく切れていない。
今回の戦争結果を以って、戦後のヘレネスにおける発言権を強化し、支配地を広げるつもりだ。コンリトスやメガリスは確かにラケルデモンに奪い返されたが、元々は別の国家であり、ペロポネソス半島に橋頭堡を築き、ラケルデモンとマケドニコーバシオと渡り合った武威で周辺国への影響を強化する。
正攻法ではある。
だが、戦争という非日常でそれだけ冷静に行動できる者は少ない。吹っかけた戦争で、十分な戦力が残っているのに他国を上手く使ってまとめにかかるなんて、そんな指導者を俺は……そうか、アイツか。
かつて人質だったとは聞いていたが、マケドニコーバシオ国王は随分とその薫陶を受けたらしいな。
マケドニコーバシオ国王がかつて言ったとおり、エパメイノンダスを討つ。これは、蓋然性の結果であって、あの国王の言いなりになったわけじゃない。そう心の中で自分自身に言い聞かせていること自体が、現国王にどこか不安を感じているせいかもしれないが。
「和平の仲介をしてくれるなら、してもらおうじゃないか」
悪口に勤しんでいる船上で、俺は肩をすくめて大声でそう言った。
周囲の視線が集まる。
ですが、と、誰かが言う声に被せて俺は宣言した。
「ヴィオティアの全ての都市を独立させた上でな。今回の戦争を主導したティーバを丸裸にしてやれ」
一拍後、悪口に終始していた連中の口から雄叫びが返ってきていた。
ラケルデモン側から派遣されてきた使者達は、コリントス地峡にいるラケルデモン軍の進路をヴィオティアとすることを硬く約束して帰っていった。今回戦場に赴いているのが俺と亡命ラケルデモン人、メタセニア人だとしても、これは国と国との約束だ。容易く反故するわけには出来ない。
状況的にそうなるだろうとは思ったが、正直、ラケルデモン軍に外征してもらいたくはないんだがな。占領地を与えれば、アカイネメシスがしゃしゃり出て来た講和で揉めかねない。
最終的な落とし所がどこになるかは、この戦い次第ではあるが、ヘレネスを統一したとしてもそう容易くアカイネメシス遠征は出来ないだろうし、和平条件を上手く使えば結局はこちらに有利になると思う。
まあ、それは本国で王太子達が既に対策を立てているだろうが……。
「ようやく、ここまで来たんだな」
と、背後から声を掛けられ、意味が分からないまま振り返る。
レオとアルゴリダで行動していた、ラケルデモン亡命人のひとりで、確か俺とは子供の頃に会ってるとか会ってないとか、そういうヤツだ。
甘さも甘えも抜けないヤツだが、排除して他所に行かれても面倒なのでレオに預けたままにしていた連中。そいつらの明るい表情の意味を量りかね、身体ごと向き直って改めて俺は首を傾げて見せた。
「この戦いでラケルデモンに大腕を振って帰国し、マケドニコーバシオの裏付けの元に行動できるじゃないか」
ああ、コイツ等は、戦後に帰国するつもりなんだな、とは理解出来たが――。
バカらしくて絶句してしまった。
後ろ盾があるから安心だ、なんて、お気楽にも程があるし、そんなだから国を追われるんだよ。
これだけのことがあったのに、時代のうねりを前にしてなお、その程度の了見かと思えば、呆れ過ぎて笑ってしまいそうになる。
なんでなんだろうな、と、思う。
俺も、レオ達も、根本がそう大きく異なっていたとは思わない。いや、確かに俺と同じだけの地獄を見てきたとか、強さがあるとは思っていないが、それでも同じラケルデモン人で、同じような国政に組み込まれ、同じような教育を受けてきた。
そして、国の外を見たのに――コイツ等は、それでも学べないのか?
……いや、今回の戦争で見てきたテレスアリア人もそうだった。行き当たりばったりで、なにかあれば他人のせい。
まあ、そういう生き方が楽で、陽の当たる場所から避けるような者もいることを既に理解しているんだが……。なんだかな。
才能の違い、そう言ってしまうのは簡単だが、では、才能とはなんだ?
「レオ……」
名目上、副官と任命していたレオの横に並ぶと、勝手に戦勝後の算段をつけている連中を尻目に呟く様に――溜息の様に俺は口を開いた。
「これが、お前の、かつてお前等が正義と信じて運営した国家と市民の未来の姿なのか?」