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港ではネアルコスが出迎えてくれた。アゴラへと続く主要道路は、建物の屋上にネアルコスの弓兵が配されている。重装備騎兵と、それに随伴し側面を援護するラケルデモン軽装歩兵がまず上陸し、騎乗した状態でプトレマイオスと王太子が、俺の後を――……。
予定では、俺が前衛で、後ろを騎乗したヘタイロイで固めるはずだったんだが、プトレマイオスが俺の左側に並んだ。
プトレマイオスの表情を見るために、身体も軽く捻って顔を横に向けるが、兜越しの表情は昼の日差しの陰になって見えなかった。
王太子が背後で声を殺して笑った気配がしたので、俺も、まあいいか、と、ネアルコスの前へと歩を進めた。
「大兄様、ようこそいらっしゃいました。プトレマイオス兄さんも。そして、お帰りなさい、アーベル兄さん」
ネアルコスが、もう見慣れた人好きのする笑顔を向ける。ラオメドンが一緒じゃないことを――まあ、それを言えば先生もだが――ちょっと不思議に思ったが、それを敏感に察したネアルコスが「ここの連中だけで、迎賓の準備をさせるのは不安ですから」と、俺に向かって――しかし、他のヘタイロイにも聞こえる声で告げていた。
ネアルコスの持つ雰囲気によるものなのか、一般の兵達は艤装中の軍船に対する警戒は幾分和らいだのを感じた。
ネアルコスのこういう部分はすごく助かるんだよな、と、思うと同時にミュティレア攻略に際して俺に、ほとんど面識のなかったネアルコスをつけた王太子の判断にも、今更ながら感服してしまう。
そして、願わくは、エペイロスでのアデアとの日々でもネアルコスの助言が欲しかったな、とも。
「迎賓館へと向かう間に、現状をご説明いたします。よろしいですか?」
場の空気が整ったと判断したのか、ネアルコスが俺の方へと近付いてきたが、俺の左をプトレマイオスが固めているので、少しだけ首を傾げ俺の右について、王太子へと――いや、全体に対してか――訊ねている。
王太子、それに今回同じ船で到着したヘタイロイと顔を見合わせ――。
右腕を高く上げる。そして、それを前へと振り下ろした。
外周を俺の指揮下の軽装歩兵隊で固め、騎兵の隊列で周囲の視線を遮りつつ、帰還の華やぎに相応しい、凱旋式のような行軍陣形を整える。
次いで、笛手に命じ、歩調をとらせた。
「……訊くまでもありませんでしたよね」
苦笑いを浮べたネアルコス。
しかし、すぐには本題へと入らず、じっと俺の顔を見詰めていて――ああ、そうか、左目を失ったことはまだこっちには伝わっていないんだよな。と、気付いたので、軽く額当てに連なった眼帯を捲り上げて見せた後、――「あ」と、息を飲む声が聞こえてきたので――ネアルコスがなにか言う前に俺は口を開いた。
「然程の怪我でもない。戦いに支障もない。もう慣れた。周囲を固めているのは、ラケルデモン兵だが俺の指揮下で問題なく運用出来ている。すぐにここの軽装歩兵隊と連合部隊を組む。それに、目と引きかえるだけの材料は入手し、今現在マケドニコーバシオ本国との交渉中だ」
俺が一息で言い切ると、ネアルコスはちょっと驚いた表情になった後、陽だまりのような笑顔で応じてきた。
「はい、兄さん」
俺の右側で――徒歩の俺とネアルコスを、騎列が路地の民衆の視線を上手く遮ってくれているからか、少しふざけるように、俺と腕組みするような形で後ろ向きで歩き始めたネアルコス。
あくまで、報告は王太子に向かって、という形にしたいらしい。
まあ、ネアルコスは器用な方なのと、俺の歩調に合わせて進んでいるので、転ぶことはなさそうだが。
「まずは、経済状況ですが、アーベル兄さんの指示通り、北部の都市を兵糧攻めすることで、島内で物資を循環させ、ボク達ヘタイロイのための宿舎や訓練場の整備を行いました。また、戦時中ということで信用が下がりつつあるアテーナイヱ銀貨をエレクトラム貨へと改鋳することで充分な軍資金を得ました」
そこに関しては予定通りか。って、島を押さえ、エレクトラムの配合比率なんかの技術を得た時点で、失敗することもない話だったし、そうして軍資金が充分にあるなら、兵糧攻めが失敗する確率も低い。
「若干、予定よりも人数が増えるがどうだ?」
ふと、プトレマイオスがネアルコスに思い出したように訊ねているが、ネアルコスはどの程度増えるのか、と、周囲の兵の数を目で追い始めた。
なので、俺が横から補足した。
「北部の都市群がどれだけ溜め込んでいたかにもよるが、俺がここを出発する前に計算させた貴金属の備蓄量からすれば、数年間税収がなくても軍備を維持できるはずだ。また、北部の都市の住民を奴隷に出来てるなら、内陸部目掛けて開墾させるのも産業の発展に繋がるしな」
ふむ、と、プトレマイオスが頷き、ネアルコスが続けますよ、と、言葉を改める。
「そういったわけで、アーベル兄さんの出港後、冬は問題なく過ぎました。ただ、先月頃から近海が少し騒がしくなり始めまして」
ネアルコスの言にプトレマイオスを見上げるが、同じように首を傾げられた。ラケルデモン艦隊は、もっと南にいるはずじゃなかったんだろうか?
そして、アテーナイヱ艦隊も、一度ミュティレアを落とした後は、本国付近をうろついていたはずで、テレスアリアの港で得た情報では、メロス島付近でラケルデモン本国ではなくラケルデモン同盟都市をつついてるとかいう話だ。
遠方であるここを再攻略する余裕も無い筈だが……、まさか、東のアカイネメシスが?
ネアルコスは俺の表情から大凡考えていることを察した様子だったが、焦らしたくなるのは性分らしく、もったいぶって続けた。
「いえ、アカイネメシスもちょくちょくやってきますが、どちらかと言えば貨幣の取り引きです。エレクトラム貨は、ヘレネス世界以外の蛮族においても広く流通しておりますので。今は、いいお客さんです」
んん、と、焦れてきたのかプトレマイオスが咳払いすると、ネアルコスは軽くおどけて舌を出して見せてから……笑みの中に、鋭い刃を隠したような表情で続けた。
「ここでは、非常に簡単にしかお話できませんが、まず、ラケルデモンが春先にアカイネメシスの要請を受ける形で、エーゲ海東岸のアカイネメシスと接するアテーナイヱ殖民都市を攻略しました」
……初耳だな。マケドニコーバシオはおろか、テレスアリアにもまだ伝わっていない情報だ。場所が離れすぎていてまだ一報が伝わっていないのかもしれないが……。
う、む。
こういう時、物流に弱い農業国は不利だよな、と、思う。もう少し、国有の船と、富裕層による交易隊の運用指南を――。
って、今はそういう話でもないか。
最近は、場当たり的な対処ではなく、きちんとした制度改革に向けた動きが多いせいで、どうしても色々と余計なことまで考えてしまうな。
「アテーナイヱは、臨時の艦隊をここの南……サモス島で編成し、北進を開始し……つい最近はこちらでも物資の買い付けを行い、さらに北へとラケルデモン艦隊を追って進軍中です」
「売ったのか?」
プトレマイオスが、やや呆れた顔で訊き返し――。
「ええ、過剰物資があり、それにきちんとお金が出ましたので」
ネアルコスが、しれっとした顔で答えた。
まるで、お前の悪い影響だ、とでも言わんばかりの顔をプトレマイオスが俺に向けてきたので「別に、ラケルデモンもアテーナイヱもどっちも客だろ? 今は。いずれ、俺等がどっちも食ってやるんだし」と、言い返すと、俺の横でネアルコスがケタケタと笑って、プトレマイオスがムッとした顔になった。
いや、そう、物資の売買ではなくむしろより気になるのは……。
「サモス島を母港とした艦隊と言ったか?」
「ええ、そのようですが……なにか疑問がありますか?」
ネアルコスは、最初は特になんの疑問にも思わない顔で答えていたが、考え込む俺を見て最後にはそう訊ねてきた。
「いや、アテーナイヱ艦隊の本隊がエーゲ海西岸にいるらしいので、他に良い港がなかっただけかもしれないが……もしや殖民都市の兵士を中心とした海軍なのか?」
「すみません、そこまでは……あ、でも!」
なにか思い当たったのか、ネアルコスが急に大きな声を上げた。
「港で艤装中の船は、キルクスが中心となり、アテーナイヱ艦隊に合流する予定ですし、アテーナイヱ艦隊は他の諸都市にも海軍を出すように要請しているようですので、その可能性は高いですね」
本国からは将官を派遣しているだけだとするなら、いよいよ戦争継続能力が低下してきているのかもしれない。決着は、そう遠くないだろう。
既に長期戦となってしまってはいるが、おそらく、初夏の麦の収穫期までに、とはラケルデモンも考えているだろうし。
ふと、左のプトレマイオスの何か言いたそうな気配に気付き――軽く顔を上げたんだが、昔みたいにそれだけでは左のプトレマイオスの顔は見えなかった。ただ、俺の仕草から、プトレマイオスもなんらかの反応をネアルコスに返しはしたんだと思う。
ネアルコスが、俺の顔を覗きこんで「どうせもう要らない連中でしょう?」と、はっきりと言い切ったから。
……まあ、その通りではあるんだが、やっぱりというかなんというか、野心はあっても実力のないキルクス相手に、ネアルコスは随分と苛々としていたようだ。
「時々ゾクッとするな」
左側からプトレマイオスのそんな声が響いて、ネアルコスが俺から視線を外した。
「はい?」
「ネアルコスは、好きと嫌いの差が激しい」
嘆息するように、呟くように重く言い放ったプトレマイオス。
ネアルコスは、否定も肯定もせずにクスクスと笑っているだけだった。
と、そこで話を聞き終えた王太子が、軽く笑みを湛えたままで口を開いた。
「艦隊の派遣自体は行っても構わないだろう。勝っても負けても、使いようによっては利になる。場合によっては、己達も督戦に向かう。迎賓館での挨拶後、マケドニコーバシオのヘタイロイとも連絡をつけよう」
「はっ」
「はい」
「了解」
三者三様の返事を返す。
役割についても改めて訊く必要はない。適材適所、そういう運用がヘタイロイだからだ。まあ、後ほど正式に文章にはするだろうが、いつ始まるとも知らない戦闘を前に悠長に構えるわけには行かない。
市民の出迎えを受け、既に隊列はアゴラへと到着していた。
まず、アゴラに騎兵を並べてから、王太子、プトレマイオス、その他主だった者が下馬し、迎賓館へと向かう。
が、さっきと同じように先行する俺の横にプトレマイオスがつこうとして――不意に、一歩前に出て、ネアルコスにもそうするように促した。
首を捻りながらも素直に従うネアルコスと……。当たり前の顔で俺の横に並んだアデア。ただ、珍しいことに、アデアの態度が随分としおらしいというか、人見知りって性格でもなさそうなんだが、どうにも落ち着きがなかったのでそっと耳打ちした。
「建物は立派だが、そう萎縮するな。内実は、マケドニコーバシオに勝るものでもない」
石畳の道路に、セメントで作られた建物。鮮やかな彩色の神々の銅像、春先の今は、店先に並ぶ品物にはここよりも温暖な南のアカイネメシス領の旧古代王国からもたらされた品が多く、また、街角には商業と旅行者の神であるヘメースを象ったヘルマと呼ばれる人の背丈ほどの柱が並び、道案内を兼ねている。
そのどれもが、エペイロスやマケドニコーバシオでは見慣れない風景だった。
マケドニコーバシオは、ヘレネスの中では珍しく木材にも恵まれているため、どうしてももっと簡素な作りの建物が増える傾向にある。
南部を真似て整備中の都市や、新都ペラも悪くはないんだが、まだ新しい都市であるせいか、都市内部の補修整備の面で追いついていない部分もあるようだし。なにより、農業国という性質上、他国の贅沢品があまり流通していないしな。
「わ、わかっておる」
とか言いながら、俺の紅緋のクラミュスを掴むアデア。
軽く嘆息して見せる俺の右側に王太子が着き、プトレマイオスは肩越しにどっか悦に入った表情で、その隣のネアルコスは、本当に不思議そうに俺とアデアを見比べていた。
衛兵により、迎賓館の扉が開けられる。
広間の最奥。
立派な椅子に、どこか所在無げに座るエレオノーレが視界へと飛び込んできた。