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Celestial sphere  作者: 一条 灯夜
【Virgo】 ~夜の始まり~
333/424

5

 アデアと手合わせした五日後。

「イッキシュ!」

 半端に穏やかな日が続いた後に、寒気が盛り返してきた。寝床から出たばかりで、上着を羽織る前だったし、くしゃみぐらいは普通の事だと思うんだが……。

「風邪だな」

 アデアが寝惚け眼を擦りながら上体を起こしたので、俺は口の端に皮肉を浮かべて窓を開け放った。


 風は冷たいが、雨季である冬を象徴するような曇天はもう見えない。エペイロスに着いてから、すでに半月が過ぎようとしていた。

 もうすぐ、春が来る。

 春が来たら……。


「ラケルデモン人は、そんなに柔じゃねえよ」

 部屋の空気を入れ替え、いつも通りの身支度を整える俺だったが、しかし、部屋の外へと出ることができなかった。

 アデアは王族だし、俺も、立場は非常に微妙ではあるが、王族という扱い――ここでの扱いは、ラケルデモンの王族というよりは、マケドニコーバシオの王族であるアデアの婚約者としての付随的な王族の地位のような気がするが――なので、部屋の前には警備の兵が詰めている。

 アデアの『風邪だな』一言で、朝の見回り・訓練・会議といういつも通りの職務へと向かう俺の進路を、四人のエペイロス兵が身を挺して塞いでいる。

 はっきり言って、俺の腕力で押し通れないこともない。

 だが、大の大人が真面目な顔で、こう、ドアを塞いでいる姿がちょっと哀れなのと、こいつ等はこいつ等で仕事として道を塞いでいるんだから、それを吹っ飛ばすってのもなんだか気が引けて……。

「王太子かプトレマイオスの指示を仰いで来い」

 と、嘆息し、部屋へと戻った。

 身支度を整えたアデアが、さして長くもない髪を結い上げながら、どこか底意地の悪い眼差しと笑みで俺を見詰めている。

 もう一度だけ、嘆息してみせる俺。

 差し込む朝日が、アデアの栗色の髪に煌めき。金に近いような色合いに見せていて――。少しだけ、そう、少しだけ上手く言い表せないような気持ちになった。


 なんで、婚約者がアデアで……。ラケルデモンから旅をしてきたのがエレオノーレだったんだろうな。

 偶然と片付けても良いし、生まれの立場による必然でも構わない。ただ、そこに、納得できるだけの理由が欲しい。

 もし……プシュケー――魂や人格――だけが、二人の間で入れ替わったら? ふはははは。……いや、意味のない思考の遊びはやめておこう。迷いの元になる。


 しばらくして、アデアが普段の装いを整えた頃に、朝食を運ぶ世話係の奴隷を引き連れてプトレマイオスが部屋に来たが「今日は、大人しくしてろ」と、熱の有無も調べずに言い放った。

「いや、そういうわけにも――」

 今日は都市部の大規模な奴隷を所有する農場経営者への課税方法に関する研究会と、エペイロスの山脈を貫く形での新街道の整備に関する報告会もあるし、せめて昼食以降の会議には出ようと食い下がってみるが……。

「温かくして! 美味い物を食って! アデア殿と仲良くしろ!」

 と、俺がまだ喋ってるってのに、それを遮ってまでプトレマイオスが凄むので、大凡の意味を理解した。

 確かに、訓練に顔を出されるのは嫌だったので、前よりはアデアと会話するようにはなってきたものの、午前か午後のどちらかには仕事を入れていた。って、春にはエペイロスから移動するんだから、それまでにエペイロス国内の財政改革に、軍事改革、それにマケドニコーバシオへの働きかけと、やることが山積みだったので、仕事を理由に避けてたわけでは……あまりないんだがな。

「俺が、休んでて平気なのかよ?」

 既に、そういう流れだってのは分かってはいるんだけど、こんなふうにあっさりと仕事を取り上げられるのも、なんだか無能といわれているようで面白くない。

「だからだよ」

 しかし、意外なことにプトレマイオスは額に手を当てて答えた。

「ん?」

「働き過ぎだ。仕事はひとつ終わったところですぐに新しく舞い込んで来るんだから、たまには自分の都合を優先しろ。あと、お前は、余暇を楽しむことを覚えろ」

 確かに、新街道整備の話が出る前に揉めてたのは、治水事業だったし、その前にはエペイロスのアクロポリス内の古くなった区画の再整備案とか、到着後、なにかしらの仕事はあった。

 んだが……。

 余暇の使い方、ねぇ。

 アデアの方へと向き直る。

「のう? プトレマイオス。アーベルに新しいクライナが必要だと思わないか?」

 アデアは、俺の視線に気付いているはずなのに、敢てプトレマイオスの方へと顔を向けて訊ねた。

「よろしいですね。風邪は引き始めが肝心ですから」

 緊張してるわけじゃなさそうだが、プトレマイオスはアデアと話す時はかなり丁寧に喋る。

 いや、確かにマケドニコーバシオ貴族であるプトレマイオスとしては、王族であるアデアに対して態度に気を使う必要があるのは分かるんだが、王太子とは比較的親しい感じを出すので、未だになにか違和感も感じる。もっとも、少し前にそれを指摘した際には、俺の感覚や態度の方が変だとか言われてしまったが。


 食事を持ってきた奴隷は、俺に伺いは立てず、アデアとプトレマイオスの話を聞くや否や、即座に別の奴隷を呼び寄せ――朝飯前なのに、次々と衣類が部屋へと運び込まれてきた。

「俺は、着慣れた服でいい」

 ちなみにクライナとは、亜麻布や場合によっては東方の絹で織られた装飾的な意味合いの強い外套で、とても長旅や戦場での実用に適しているとは思えなかった。どちらかといえば、身分を表すために身につける服だな。

 ちなみに俺が旅装束でよく使うのは、羊毛を粗く織ったトリボーンという防寒用の外套で、生地が厚いので、野宿の際にゴツゴツした場所に敷くのにも適している。

 ムスッとした顔で、服を運び込んでくる奴隷を眺めていると、こつんと、プトレマイオスに額を叩かれた。

「貴人としての振る舞いも覚えろ」

「要所は締めてるだろ?」

「たまには、着飾った姿を見せておけといっているのだ。それだけで、兵や町の者の印象も変わるものだ」

 プトレマイオスの言っていることも分かるが、俺はどうも剣を背負うのに適していない服はあまり好きにはなれないんだよな。それに、着飾って市民に顔を見せるってのも、アデアとの婚約を印象付ける意味合いが強いので、そこまで乗り気になれないし……。

 そんな俺の微妙な気持ちを知ってか知らずか、クラニス――女性用の丈の短い外套――を羽織ったアデアが、楽しそうな顔で俺の腕を取り、運び込まれた数十着のクライナの前へと引っ張っていった。

 プトレマイオスは、遠慮しているのか、俺の左後ろをいつもよりも少し距離を詰めて付いてきている。



「これなんかどうだ?」

 嬉々とした笑顔でアデアが俺の胸に押し当てた一枚は、確かに布地は艶やかなんだが……。

「色がな……青はあまり好きじゃない。もっと、敵にも味方にも印象付けられる色合いが良いな」

 夏のエーゲ海で染め上げたようなむらの無い青色ではあるんだが、距離があればぼやけて見えてしまい、あまり俺の存在感を出せないように思う。敵が積極的に群がってくるような雰囲気じゃない。

 触れてみる感じ、着心地と、大きさそのものは丁度良いんだけどな。

 服を戻しながら返事すると、プトレマイオスが急に大きな声を出した。

「戦場に着て行くつもりか!?」

「あ、いや、その……いつ、どこで戦うことになっても、いいように、だな」

 言われて、あくまで都市内部で着る用の服なんだと気付き――プトレマイオスの声の調子に引っ張られ、俺だけが違った認識でいたことが恥ずかしくなり、少し慌ててしまった。

 若干、微妙な空気でお互いの表情を探っていると、横からアデアがどこか王太子と似た鷹揚さで割って入ってきた。

「よいよい。服の一着二着、勝利と比べれば安いものであろう?」

 が、アデアが手にした衣類の色を見て、俺は首を横に振る。

「黄色はもっと、ダメだ。王太子とかぶるだろ」

「注文が細かいな」

 と、呆れた顔をしつつ嫌な感じの笑みを浮かべたプトレマイオス。

 多分、服はなんでも良いとか言っておきながら、いざ選ぶ段になると選り好みしている俺をからかっているんだろう。

 ただ……。

「着慣れた服が一番良いんだ。が、どうせ新調するなら、気に入ったものが良いだろ?」

 そもそもが自分が欲しいといったわけではない服なんだ、と、ふてた顔を向ける。

 だが、さっきまでのからかいはどこへやら、プトレマイオスに「そうだな」と、まるで弟を見るような優しい目をされてしまい。そんな視線にどこかむずがゆさを覚え、手早く選んでしまおうと服を漁る。

「あ、これが良いだろ」

 茜で――いや、もしかすると紅花、またはその両方かもしれないが――染めた亜麻布のクライナだが、腕の良い職業奴隷が染めたものなのか、暗過ぎず明る過ぎず、鮮やかな紅緋で染め上げられている。

 軽く羽織り……?

「お? もしかして、クラミュスか、これ」

 長さ的に、頭を覆うようには被れなかったので、肩に掛けて羽織ってみると、臍の少し上ぐらいに裾が来て丁度だった。

 クラミュスも基本的にはクライナとは同じような装飾系の外套ではあるが、クライナよりも短く、身体に巻くというよりは肩に掛ける程度の簡単な防寒着だ。

 俺としては、厚着するよりはこのほうが具合が良かったんだが、服を持ってきた奴隷が、萎縮してしまっていたので――。

「これがいい。気に入った。怖がるな、罰はない。肩で留めるためのブローチを持って来い」

 と、命じると、驚くほどの速さで届いた銀のブローチで着付けを終えた。

 プトレマイオスとアデアに向き直ってみる。

「いいではないか」

 アデアが手放しで褒めたのと引き換えに、プトレマイオスはほぼ同時に苦笑いで……。

「お前は、また、そういう色の物を」

 と、少し呆れた顔をした。

 アデアが、気を悪くしたというよりも、どこか不思議そうにプトレマイオスに視線を向ける。が、プトレマイオスは答え難いのか、曖昧な笑みを浮かべるだけだったので、俺が説明することにした。

「返り血の印象が強いんだろ?」

 ヘタイロイは優秀な戦士でもある。戦場では、血も見慣れる。が、それをしても尚、俺は異色らしい。皆と戦った機会はまだ少ないが、どの戦場でも先頭に立ち、一番に人を斬ってきた。

「お前……分かっているなら」

 どこか呆れたようなプトレマイオスの声だったが、俺は少しだけ笑って答えた。

「でも、こういう色がいいんだ」

 そう、そんな自分を、今更変えられないんだ。

「……そうか」

 プトレマイオスは、少し複雑そうな顔をしていたが、最後にはそう言って笑った。

「派手だし、お前の体躯なら問題ないだろう? 良く似合っているぞ?」

 若干、おいていかれた感のあるアデアが、俺の肩や胸をペタペタ触りながら、勝手にブローチの位置やクラミュスの向きを調整しながら、そんな事を言ったので、つい、手近な場所にあったその頭をなでてしまった。

 ふと視線に気付くと、プトレマイオスがなぜか目を細めて俺達を見ていて――。

「ん? 朝飯を一緒しないのか?」

 そのままさっと部屋を出て行こうとしたので、背中に向かって訊ねるが、プトレマイオスは軽く右手を上げてひらひらさせてみせただけだった。

 どういう意味なんだ? と、撫でていた手が離れたことで顔を上げていたアデアに訊ねるが、ニヤニヤ笑いと同時に掛けられた言葉は。

「あの男は、気の使える良い男だということだ」

「はいはい、顔立ちが悪くて、悪かったな」

 軽く肩を竦める俺。

 プトレマイオスは背が高く手足も長く、丸顔で目鼻立ちもはっきりとしていて、極めて人気の高い、美男として有名なヘタイロイだ。そこと比較されれば、ヘタイロイの八割方は不細工になってしまう。

 まして、戦場に長くいたことで、目付きが怖いとか言われる俺なんて比較にすらならないだろう。

「お? 嫉妬しているのか? ん?」

 しかし、アデアそんな風に楽しそうな顔でしつこくからかわれると、こう、むっとしてしまうのは避けられないわけで……。

「飯の方が重要な問題だ」

 昔の俺なら、安易に怒鳴っていたのかもしれないが、なんとなく、怒鳴る方がバカらしいことには最近気付いたので、軽く受け流して、既に運ばれていた朝食のある寝椅子の方へと向かった。

 つれなくされたことで、アデアもその話題を終えたんだと思っていたが、不意にクラミュスの裾をつかまれたので、肩越しに振り返る。

 アデアは、いつもの気の強そう眼差しで俺を非難するように睨み、その顔はなんだと俺が訊ねる前に、一気に捲くし立てた。


「我が夫は、鈍感なので敢て解説してやるが、普段本心を見せないくせに、嫉妬するぐらいには想っていることが嬉しかったのだからな! それに、ワタシは、夫の容姿が嫌いではない。それで充分だろう!?」


 言い終えたアデアの顔が、真っ赤になっている。

 いや、その……色々と、驚いた。うん、嬉しいとか、そういう以前の部分として、なんか、こう、驚いた。

 ので――。

「あ、ああ、分かった。ありがとう」

 としか、答えることは出来なかった。


 その後、お互いに無言のまま温めた牛乳と、干した果物と、無醗酵のパン程度の軽い朝食とったが、味なんて全く分からなくなっていた。

 なんというか、こういうのは、難しくて、困る。

 こういう時だけは、ネアルコスのそういう下世話な話をきちんと聞いていなかったことが後悔される。訊き難いと言えば訊き難いが、場合によってはプトレマイオスにでも相談した方が良いのかもしれない。

 照れ隠しに、拗ねて怒りながら黙々と食事しているアデアの顔を見ながら、そんなことを考えていた。

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